第二十三章《 時 を 待 つ 影 》
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森の中に入ってすぐ、クロトは霧の中で一人になってしまったことに気がついた。
すぐ前を走っていたアルクメーネや、テセウスの姿はどこにもない。
(ドルワーフ湖はこんな場所じゃなかった)
霧の森をさまよいながらクロトは強い憤りに駆られた。
(どうしてこの場所に結界を張るんだ)
――小妖獣が沸く穴が見つかったのです。人の目にはみえませんが危険ですので封印を施します。
アウシュダールがテセウスに告げ、それを許すのを見たとき反対することも出来ない自分に腹がたった。いつもアウシュダールの言葉に意義を唱えられない自分が情けなかった。
なぜかすべの言葉を当然のこととして受け入れ、時間がたつにつれ疑問に思うのだが、アウシュダールにそれをぶつけたあとは、再び受け入れてしまっている自分に気がつく。いつもこの繰り返しだった。
特にドルワーフ湖に関しては、一歩も譲ってはいけなかったのだ。一般の民や兵はともかく、守護妖獣を持つ自分たちは常に守られている。小妖獣のためにドルワーフ湖へ近づけないなど認めてはいけなかったのだ。
ところが、てっきりドルワーフ湖の結界に賛成しているとばかり思っていたアルクメーネの意外なこの行動にクロトは従った。
(今は、結界がゆるんでいる)
一瞬、眠っているアウシュダールとメイベルの顔がよぎるが、打ち消すように頭を激しく左右に振る。
(ずっとドルワーフ湖に来たかった)
クロトは、深い霧の中、湖を思い浮かべる。
自分たちはいつもここの湖に来て、アル神に感謝の祈りを捧げ続けてきたはずだった。
それは誰か自分以外の誰かの、幸せを祈ってのはずだった。
「おれ……」
クロトは立ち止まった。
思わず空を見上げる。
周囲は白い霧に包まれているのに、天空には七色の光に包まれた白昼月があった。
ゆっくりと視線をおろすと、薄く光が差し込む場所が見えた。
一歩、二歩と、その光に向って歩を進めるとクロトは自分に向けて問いかけた。
待ちに、待ち焦がれていた何かがあった。
長い間、期待に胸を膨らませて、一日千秋の想いで、ただただ待ち焦がれていた存在があったのではないか、と。
だが、それは奪い去られてしまった。
理由はわからない。
わかっているのは何かを告げた父の言葉。
意味のわからない言葉。
奇妙なまでに静かで暗く沈んだ城内の空気。
泣き続ける母の伏せた横顔。
「返してください!」
クロトは大声で天空に浮かぶ月に叫んだ。
「お願いです。アル神、返してください!」
ラウ王家の王子であるクロトの願いを聞き届けてくれるのがノストールの守護神・アル神だと、信じていたから。
「返してください!」
悲痛な子供の叫び声、それは確かに遠い昔の自分の声だった。
なにをそんなに取り戻したかったのだろうか。
クロトはさらに集中をする。
祈りを捧げ続けた記憶。
その苦しみが嘘のよう消えたのは何故だったのか。
その日からクロトはずっと幸せだった。
同時に感謝の祈りをアル神に捧げ続けていたのではなかったのか。感謝をしてもし尽くせないほどの出来事とは何だったのか。
これほどの想いをどうして今日のこのときまで、まったく思い出せないでいたのか。
(ドルワーフ湖を訪れ、 アル神へ感謝の祈りを捧げることを忘れた?)
ありえないことだった。
だが、思い出すことの出来ない何かが確かにある。
それは、一体クロトにとって、何だったのか。
どうして記憶に留まっていないのか理解できないもどかしさが全身を駆け巡っていく。
その時、霧が晴れ、目の前が突然開けた。同時に、眩しい光の輝きが飛び込んでくる。
青く神秘的なドルワーフ湖。
数歩先には、テセウスとアルクメーネの姿があった。二人とも静かな湖面を見つめたまま微動だにしない。
突然、一枚の絵が脳裏に浮かんだ。
紙いっぱいに描かれた大きな顔。
目と鼻と顔の位置がずれまくっている、子供らしい力強い絵。
顔の周りに月と星がいっぱい輝き、「アル神」と覚えたてのいびつな文字がはみ出しそうに書かれている絵。
『力作だな』
『うん』
『髪の毛はないのか?』
『え? あるの?』
『あるの……って……』
『アル神て、髪の毛あるの?』
記憶の中の会話に、クロトの瞳からとめどもなく涙が流れる。
「誰か、いたんだ」
クロトの言葉に二人の後ろ姿が緊張するのがわかる。
「誰かいたんだよ。ここにいつも一緒に来たんだ」
クロトは一言、一言声を発するたびにそれが間違いのない事実だったのだと知る。
「アウシュダールじゃない。アル神に感謝を捧げるためにここに来たんだ。城の礼拝堂でもない。ここじゃなきゃいけなかったんだ」
最後の言葉は叫びとなり、ドルワーフ湖畔に響き渡った。
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