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第二十三章《 時 を 待 つ 影 》

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 ドルワーフ湖の森を後にしようと、テセウスはアルクメーネを伴って、馬をつないでいる木に戻ろうと立ち上がった。
「アウシュダールはともかく、クロトは空腹でいらいらしているかもしれないぞ」
「ものごとには突発的事態というものはつきものです。そのくらいは耐えてもらわないと」
 すっかり落ち着きを取り戻したアルクメーネは、いつものテセウスの知る弟の姿だった。
「いや……」
 ふと、その口調が変わる。
「どうやら耐えられないようです」
 アルクメーネが城の方を指差すのと、テセウスがその指を視線で追うのと、暴風が土煙を上げて二人の前で急停止するのが同時に起こった。
黒い疾風――ダイキ――が二人の前に風のごとく現れた。
「クロト」
 テセウスがダイキに乗った弟の名を呼ぶ。
「食事には少し遅れるとカイに伝言しておいたんだが」
「兄上方は何故ここに?」
 緊張した表情のクロトがダイキから飛び降り、二人の兄をじっと見つめる。
「アウシュダールが〈遠眼〉に入りました」
「〈遠眼〉か。今はどこにいる?」
 テセウスは特に驚くわけでもなく淡々と受け答えをする。
「寝室にいます。メイベル・ソル・アンナに身辺の結界を一任しました。すべてのものの結界が弱まるので注意をするようにとのことです。ですが」
 クロトは交互にテセウスとアルクメーネの顔を何度も見つめると、明らかに不機嫌な顔をした。
「わが陛下は政務の最中では? 皇太子殿下はたしか図書室にて読書をされるとうかがっておりますが、なにゆえこのような場所に、お二人揃ってコソコソおいでになられているのですか?」
 他人行儀なのは完全にすねているときの口調だ。
「コソコソとは人聞きが悪いな。それはアルクメーネに聞いてくれ。おれは政務を終らせてペンを置いた時に、馬にも乗らずに出て行くアルクメーネを見かけた。様子が少し違ったから、てっきり美しい密会相手でもいるかと思って後をつけてみたんだ」
「下世話な勘ぐりですね。こんな立入禁止の場所でだれと密会をするというのですか」
 言葉とは違って、アルクメーネはテセウスからそんな少しくだけた言葉が漏れたことを楽しむように笑った。
「では、アルクメーネ兄上の理由は? 何故ここに?」
 矛先を向けられてアルクメーネは真顔になる。
「それは……」
 アルクメーネは、図書室にいたはずの自分が、なぜ今ドルワーフ湖を目指す森に立っているのかまったく覚えていなかった。
 図書室でひどい頭痛とめまいに襲われて床に倒れこんだ。そこまでははっきり覚えている。だが、自分が何故、どうやってここまで来たのかまったく記憶がないのだ。
(どうしてもここに来なければならなかった。ドルワーフ湖に……)
 アルクメーネは迷子になった子供のような顔でうつむき、記憶をたどる。
(そう……図書室で)
 無意識に服の帯の間に挟みこんだ何かに触れようとそこに手を伸ばし、はっとしてその手を止める。
(手紙……)
 アルクメーネは、自分の身に起きた出来事の意味を理解してはいなかった。混乱することが立て続けに起き、多くの出来事を整理できずにいた。持ち出した手紙はあの場で一読しただけで、人に見せるべきか否かの判断にはまったく至っていない。
 手紙へ伸ばしかけていた手をさりげなくおろす。
 だが、テセウスは見逃さなかった。
「今、なにかをとりだそうとしていなかったか?」
「いえ、なにも……」
 アルクメーネは、いつもの冷静さを装う余裕もなく口ごもる。
 テセウスは彼の前に手のひらを突き出す。
「見せろ……」
「…………」
 アルクメーネは自分がどうするべきなのかまったく判断できないでいた。テセウスやクロトを信じていないわけではない。だが、それが正しいのかもわからない。
 うつむいたまま唇を噛み締めるしかなかった。 
「私達に関係のあることなのだろう?」
 普段は冷静なアルクメーネのその表情は、昔から何度か見覚えのあるものだった。
(何かをかばおうとするときの顔……)
 テセウスの脳裏に懐かしい記憶が呼び起こされる。

 園庭の大木の前に立っていたアルクメーネを見かけて、父王と歩いていたテセウスが声をかけたことがあった。
「そこで何をしているのです?」
 十四、五歳のアルクメーネは驚いた顔をして、あわてて誰かを背中に隠した。
「いえ、その……」
 父はその様子に、黙って息子の前に立った。
 アルクメーネはうつむいたまま唇を噛み締める。そこには、ひきつった表情がはりついていた。
(こいつでも、こんな顔をするんだ)
 テセウスは興味深く見ていた覚えがある。
「何をしているかと聞いた」
「…………」
 父に問われてもアルクメーネは答えなかった。
「ごめんなさい」
 かわりに、小さな声がアルクメーネの背後の木の陰から聞こえた。
「木に登っていたら、上にあった小鳥の巣を落として……ごめんなさい」
 あれは、クロトだっただろうか。
 テセウスはアルクメーネの背後から、涙目の子供が出てきたのを思い出す。
 結局、怒られることはなかったものの、巣を落としてしまったその場面に出会って驚いている時に、父王とテセウスに声をかけられて、アルクメーネ自身がどう対応していいのか混乱して、うろたえていたのだということがわかった。
「私だって、自分のことなら瞬時にどう振舞えば良いかの判断はできます。ですが」
「おチビのことだと迷うよな」
「そうなのです。一番良い結果を出してあげたいが故にどう答えていいのかわからなくなりました。不意打ちは尚のことです、頭が真っ白になってしまって、修行不足ですね」
 あとでそんな会話をした。
 そう、自分たち兄弟はいつもそうだった。
 だが、それはクロトのためだっただろうか? それともアウシュダールのことだったのだろうか? そのどちらでもないような漠然とした思いが心を曇らせ、再びテセウスの不安をあおる。

「見せなさい」
「……」
 緊迫した空気が二人の間に流れる。
 その時、その二人の空気をまったく読んでいないようにクロトの歓声があがった。
「うわぁ……すっげぇぇぇ。兄上、空が……すごいことに」
 テセウスとアルクメーネはクロトの指差す空の方向を見上げて、驚愕に目を見開いたまま立ち尽くした。
 ドルワーフ湖の森の真上の空には満月の白昼月が浮かんでいた。
 その月を中心に虹色の光が渦を描き、森を覆うように広がっているのだ。
「これは……」
 三人はその光彩に、それぞれの守護妖獣の波動を感じた。
 だが、そばに彼等三人の守護妖獣の姿はなかった。クロトと共に来たダイキの姿も見えない。
「ザークス……」
「カイチの……?」
「ダイキも……なんで……?」
 アルクメーネは意を決したように森へ向って歩き始めた。
「アルクメーネ?」
 テセウスの呼びかけにアルクメーネは振り返る。
「今なら、湖に行けるのではないのですか?」
「結界が施されている」
「構いません」
「アルクメーネ!」
 二人を残してアルクメーネはドルワーフ湖に向って森の中に足を踏み入れていった。
(アル神よ……。たどり着かせてください)
 アルクメーネの姿は森の中を漂う霧の中にのみこまれていった。
「アルクメーネ!」
「兄上!」
 テセウスとクロトは互いの顔を見ると同時にうなずき、後を追って走り出した。

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