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第二十四章《 迷 宮 》

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アウシュダールの意識体は、闇の空間に存在していた。
――あの男は……。
 果てしない闇と、過去・現在・未来の時の混在する空間、底なし沼のような坩堝に落ち込み、這い出すことも出来ずにあがいていた男は自分ではどうすることもできないまま同じ場所にいた。
――いつからここにいるのか。
 アウシュダールが見つけなければ、永遠に誰に会うこともなく、間断なき苦しみの中で、もがき続けることは間違いなかった。
――ダーナンの将軍。そして裏切り者?
「神よ……。ゼナ神よ。お助け下さい」
 アウシュダールの存在に気がついて男は苦しげに声をあげた。アウシュダールをゼナ神と思い込んでいるようだった。
 地界と円環の神ゼナは、人の心の闇や死をその身である大地に呑み込み、海の彼方へ返して安住の地を築く。ゼナ神に祈ることで、人々はおのれの心の闇の部分を取り除けると信じていた。
「神よ!」
 ジュゼールは必死にその名を叫んだ。
「ゼナ神!」
――ジュゼール。
 アウシュダールは、祖国の神の名を叫び続ける男の名を呼んだ。
――私の名はゼナではない。
「……?」
 拒絶にも似た言葉に、ジュゼールは、途方にくれたように言葉を失った。
――だが、お前をここから出してやってもいい。
「あなたは……」 
 アウシュダールは、男の体に光を放ち、まとわりついている土の魔道士の痕跡を消し去る。
――ただし、お前の心の半分は私のものとなる。ゼナへの信奉を捨て去るなら、もとの世界へ戻してやろう。
「あなたは……一体……」
 闇の狭間に埋もれ、やっとの思いで呼吸をしながら、ジュゼールは狼狽した。
――ゼナは死んだ者の為に存在する。お前は生きることも、死ぬことも出来ないこの闇に呑み込まれ、神と人の世界の狭間である空間にいる。ゼナはお前を知ることすらない。私が去れば、お前は未来永劫この闇に置き去りにされるだけだ。
「…………」
 ジュゼールは、衝撃を受けたようにアウシュダールのいる方向に向って絶叫していた。
「助けて下さい! お願いです!」
――わかっている。
 声と同時に、ジュゼールの体が浮き上がった。
 からだの自由を奪っていた重い泥のようになものから解放される。思わず安堵のため息が長く漏れる。
「あの……」
 だが、声の主の姿はジュゼールからは見えない。
――ダーナン帝国に帰りたいか?
 予想していなかった言葉をかけられて、ジュゼールは息をのんだ。そして、視線をさまよわせた後、何度も首を横に振った。
「出来ません。私は……自分の意志とは関係ないとはいえ、前王をこの手にかけてしまったのです。戻れば、死が待っているだけです」
――では、生きて何を望むというのだ。
 アウシュダールの問いかけに、ジュゼールは沈黙をした。
 やがて、噛み締めていた唇をゆっくりと開く。
 その目には、固い決意が浮かび上がっていた。
「生きることを許されるならば……ロディ陛下の為に……」
 この闇に落ちて意識を取り戻してからの完全なる孤独の中で、ジュゼールは自分を信じて見逃してくれた主君ロディの身を案じ続けていた。
 このまま死ぬわけにはいかなかった。
 なんとしてもその恩に報いねばならないと、ゼナ神に祈り続けていたのだ。
 そして、もし誰であろうと助け出してくれる存在があるならば、その存在と、ロディの為に命を差し出そうと決めていた。
 そして、信じていたのだ。
 必ずここから出られると。
「陛下には幼い頃に連れさらわれた妹君がいます。その方をお救いし、ダーナンにお連れし、陛下の元にお返しできたならば、心に残すことはありません。あなた様の為に我が身を差し出します」
 アウシュダールは、静かに微笑んでいた。
――誓うか?
「はい」
――生きたまま八つ裂きになり、その屍を妖獣どもに喰らわせることになるかもしれない。それでもいいのか?
「はい」
 ジュゼールの全身から恐ろしいほどの緊張感と恐怖があふれ出ていた。
 一方で、死をもってしても成し遂げたいと願う、強烈な決意が放たれていた。
 アウシュダールは今まで感じたことのない高揚感に包まれていた。
――では、わが名の下に誓うがいい。その瞬間から、お前は私のものだ。お前のその目的を果たすまでは、自由にし、力を与えてやる。ただし、その後は私の手足だ。逃げ出すことも、死を選ぶことも、おまえ自身の意志では不可能になる。
「はい」
 ジュゼールは、自分が一体誰を相手に誓いを立てようとしているのかわからないことが本当は極限に恐ろしかった。
 ひょっとすると後悔してもしきれない道に踏み出すかもしれない。
 もし、神とはまったく相反する魔物や魔道の者であったなら、死ぬだけでは終らないかもしれない。
 なにが自分の身に起きるのか想像だにできない。
 それでも、この真っ暗な闇にたった一人、ただ一人取り残されるのは想像を絶する苦痛であり、恐怖だった
 差し出された手にすがるほか、道はなかった。
「誓います」
 アウシュダールは妖しげな光を瞳に宿し微笑むと、うなずいた。
――私の名は、シルク・トトゥ。お前が魂を捧げる神の名だ。
「!」
 ジュゼールは目を大きく見開いたまま、声の響く場所を見ていた。
 ロディと共に、大軍艦を差し向け侵略を試みたのは、その名の持ち主をダーナンに得ようとしたからではなかったか。
「シルク・トトゥ神……」
 ジュゼールは、会ったことのないノストールに転生したという幼い王子の名を思い出していた。
 名を、アウシュダールと言っていたはずだった。
「シルク・トトゥ神に、わが魂を捧げます」
 転身人の話は事実だったのだという衝撃と、誓う相手が悪神や魔王、魔物の類ではなかった安堵感に、意識が遠のきそうだった。
 この名に誓うことが、ダーナンとゼナ神を捨てることを意味したとしても、ノストールの為に戦い死ぬことになったとしても、死後の安住を望めないとわかっても、不思議と恐怖はなかった。
 これが、一線を越えることなのかもしれないとジュゼールは思う。
「シルク・トトゥ神に誓います」
 シルク・トトゥ神は、ノストールの守護神、月の神・アル神の息子の名前だったと記憶を辿る。
 戦いと勇気の神、軍神の異名を持つその名に忠誠を捧げることは、武人である自分にとってはすべてを裏切り、捨て去っても、許されるたった一つのいい訳になるかもしれないと思いながら。
 そして三度、力の限りその名を叫び、誓う。
「シルク・トトゥ神に、このジュゼールの魂を捧げ、御神の為にこの身を使うことをお誓い申し上げます」
――では、その身をこの闇から連れ出し、もとの世界に戻そう。
 アウシュダールは満足げに笑っていた。
――しばしの間、私はお前の目的を果たすために道を開き、力を貸そう。私の声が聞こえなくとも、私はお前と共にある。それを忘れるな。
「御意」
 ジュゼールは、返事と共に自分の全身が小刻みに震えているのを知った。
 そして、意識が途絶えた。

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