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第二十二章《 遥 か な る 想 い 》

 ラマイネ妃はゆっくりと立ち上がると、クロトの首筋に輝く銀色の鎖に人差し指でそっとふれ、なぞっていった。
「母上?」
 予想もしない母の行動に戸惑うように、クロトはその鎖を胸元から引き出し、先端に輝いている緑色の小さな石を母に見せた。
「それは?」
 アルクメーネの問いかけに、クロトはややばつが悪そうに説明をした。
「その……最後にアンナの一族が来たことがあったでしょう。ダーナン軍がやって来たとき。あの時、ここを出立する時に、そのエディから……った……ものです」
 最後の言葉をもごもごと濁すように言う口調に、アルクメーネの瞳がやや鋭くなる。
 後半が不鮮明になるのは、弟の都合の悪くなったときの癖なのだ。
「なんと?」
「いや……預かった……というか」
 なんでこんな時にここで責められるのだろうかとクロトは顔を引きつらせる。
「その、渡してくれって……頼まれていたん……です。でも、それが、ほら、ダーナンの侵攻とか、城中大騒ぎでいろいろあって……で、誰に渡す約束をしたのか、忘れて、というか、エディが誰に渡してといったのかが、変なんだけどどうしても思い出せなくて……」
「なるほど、それで預かったものをクロトが今も大事に身につけているわけですね。よく賄賂を受け取った小役人の言いそうな言葉です。もらったのではなく、預かったものと皆口をそろえていいますからね。とてもわかりやすい理由です」
 やや軽蔑気味の兄の視線にクロトはますます気まずそうに首をすくめる。
「いや、違うって、本当に預かったんだ。だって、その……とても大事な物だっていうのは覚えていて、会ったらすぐに渡そうと思っていたんだ。でも……その……変なんだよ。あとですぐに首にかけてやろうと思っていたのに、本当にわからないんだ。っていうか、思い出せない。本当に、本当のことなんだ。アル神に誓って嘘はつかない」
 二人のやりとりを静かに聞いていたラマイネ妃は、じっと見つめていた緑色の小さな宝石を人差し指にのせたまま、そっと唇で触れた。
「母上……?」
 母の瞳にうっすらと浮かぶ涙に、言い合いをしていたふたりは言葉を失って母を見つめた。
 その憂いを秘めた瞳を黙って見つめてると、やがて母はその宝石を大切そうにクロトの服の中に戻して、今度はクロトと、そしてアルクメーネを両手で抱き締めた。
「母上」
 すでに母の背を抜かして久しい。その母の腕に抱きしめられたのはいつのことだっただろうと、アルクメーネは懐かしく思う。
 母の背に合わせるように背をかがめ、その首筋に顔をうずめながら、やわらかな肌と温かさに、なつかしい香りを感じた。
 忘れていた温もりが、遥かおぼろげな遠い日の記憶を呼び覚ましていくような心地よさが広がる。と、奇妙なことにそれを阻むような頭の痺れが同時に起きる。
――兄上。
 遠くから自分を呼ぶ、あの声がかすかに響き、心が激しく揺さぶられる。
 クロトもまた、アルクメーネと同様、母の腕の中で鼓動が高鳴るのを感じた。
 ただ、それはアルクメーネとは反対に、よく幼い頃、自分がいたずらをして侍女たちにさんざん叱られた後に、抱きしめてくれた母のあたたかな温もりの思い出だった。
 幼いクロトは母の胸の中に逃げるように隠れながら、母が抱きしめてくれながらも困っていること、悲しんでいることを感じるたびに、今度からは母を悲しませないようにしようと深く反省した日々をおぼろげに思い出す。
(母上は……この首飾りを渡すべき相手を知っておられるのではないだろうか。その相手に渡すことの出来ない私を悲しんでいられる。もっとしっかりしなさいと望んでおられるのではないのだろうか……)
 クロトは、母の腕の中で幼い自分のほうがいつも母の想いをきちんと受け止めて感じ取っていたように思う。
 今はどうだろうか。
 いつしか、母の沈んだ顔をみるのが辛くて、距離を置きだしていた。
 いや本当にそれが理由だろうか? と心に問いかける。どうして悲しげな母を放ってしまっていたのか。こんなにも寂しげでいる母を一人にしてきてしまったのか罪悪感で心が沈んでいく。
 そもそもどうして距離をおいていたのかさえ、具体的な理由が自分でもわからない。
(母上は……ずっと悲しんでいられたのに……)
 アルクメーネとクロトは、脳裏に遠く遠くはるか彼方に失った不思議な光景を垣間見た。

 夜空にあふれる満天の星々、銀色に輝く満月。
 月明かりだけが湖の湖面にそそぐ闇に染まる森。
 その湖のほとりで聞こえてくる赤子の声――。

「……?」
 しかし、その光景の意味するものは、二人にはわからない。
 それでも懐かしさに包まれ、またひどく心の奥が締め付けられるように苦しい感覚だけは残った。
 母の腕がそっと離れるのを感じて、アルクメーネとクロトは一歩下がり、ラマイネ妃の淡い水色の瞳を見つめた。
 この一瞬の抱擁に込められた幾重にも重ねられた深い想いが何を意味するのか、二人にはわからない。
 母が言葉を失ってから、また言葉を伝える役割を果たしていた守護妖獣ネフタンが現れなくなってから、ラマイネ妃は自分の意志を伝えるすべを失っていた。
 自分たちもまた、一人一人の兄弟の間に見えない厚い壁が生まれ、やかて母のもとへ訪れる回数も減り、孤立するようになっていた。
「母上」
 アルクメーネが閉じていた唇を開いたときだった。
「兄上」
 部屋の扉が勢い良く開かれ、アウシュダールが現れた。
 その扉から入ってきた空気とともに、室内の温度が一瞬にして入れ替わるのをアルクメーネは感じた。
「アウシュダールか、どうしたんだ?」
 少し驚いたように聞くクロトの問いかけに、アウシュダールはにこりと微笑む。
「私の午前の客人が体調を崩して接見がなくなりました。兄上たちとご同席できることも少ないですし、是非ご一緒させていただこうと思って伺いました。私の部屋にお茶の用意をさせましたのでどうぞ」
 穏やかに茶色の瞳を輝かせて嬉しそうに微笑む一番年下の弟を見ながら、アルクメーネは何度も瞬きを繰り返す。
(なんだろう……?)
 さきほど会った時は感じなかった奇妙な感覚がアルクメーネの五感に訴えてくる。
 なにが奇妙なのか具体的にわからないのだが、それは扉が開き、アウシュダールが現れたと同時に起きたのは確かだった。
「いかがされましたか? アルクメーネ兄上」
 額を右手の甲ででおさえているアルクメーネに気付いて、アウシュダールが心配そうに尋ねる。
「たいしたことはないのだけれど、少し頭痛がします。アウシュダール、悪いけれど、私は昼食まで図書室で休みます。久しぶりにあの空気に浸ればこの痛みも落ち着くと思うから」
「わかりました……」
 大人びた顔にやや落胆の色を浮かべてアウシュダールは一礼すると、少し名残惜しそうに母に会釈をし、クロトと一緒に部屋の外へと出て行った。
「では、母上。私も……」
 そう言いかけてアルクメーネは、違和感の正体に気がつく。
 アウシュダールは扉こそ開けはしたが一歩として、ラマイネ妃の部屋に足を踏み入れなかったのだ。
 母に挨拶の言葉さえかけていないことにも。
「母上?」
 だが、振り向くと母はいつものように窓際に置かれた両肘付きの椅子に腰をおろし背もたれに体をあずけたまま、外を見つめていた。
 (甘えん坊だった……。よく泣いては、母上の胸の中へと逃げ込んでいたのに……)
 見えない母との距離感は、自分たち以上にアウシュダールの中にもあるのだろうかと、アルクメーネは悲しく感じていた。

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