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第二十二章《 遥 か な る 想 い 》

 母の部屋を退した後、本の匂いで満ちている図書室の天窓から差し込む陽射しの中に身をおきながらアルクメーネはめまいを感じて、書架にもたれかかる。
 アウシュダールと過ごしたはずの幼い日々の情景がどうしても思い出せないのだ。
 なにか手がかりのような記憶の糸に触れようとすると、激しい頭痛と痺れ生じて、たどり着くことが出来ない。
 思考が鈍り、あらゆる雑念が沸き起こり、集中力が拡散していく。
 いつもそうだった。
 今日も、母に近寄ろうとさえしないアウシュダールの姿に、母に甘えていた日の姿を重ねようとしたのだがどうしても思い起こせないのだ。
(よく泣いていた。よく笑っていた。よく後をついて回った……その感覚だけはあるのに)
 心の感覚と、アウシュダールの記憶がかみ合わずに、またぼやけていく。
「泣き虫……」 
 なぜかナイアデス皇国で出会ったあの少女の泣き顔が浮かぶ。
「私はどうかしている……」
 アルクメーネは、背もたれ付きのゆったりとした読書用に愛用してる椅子を探して腰を深く落とすと、両手で顔を覆った。
「カイチ」
――なんでしょうか?
「……どうしたのですか?」
 呼べば目の前に姿を現す守護妖獣カイチが現れない。
 誰もいない場所であり、こうして思念のみで返事をしてくることはまずないことなので、どうしたのだろうと、アルクメーネは不審気に問いかける。
――……。
「どうしました? なにかあったのですか?」
――ご心配はありません。おそばにおります。
「なぜ姿を見せないのですか? 現れることの出来ない理由でもあるのですか?」
――……。
 奇妙に感じたアルクメーネは、おもむろに立ち上がると図書室の扉をあけて外へ出ようとした。
 が、あわてて立ち止まる。
「カイチ……」
 図書室の扉のすぐ前に、カイチはいた。
 額から突き出した角をもつ白い山羊ののような容貌。知性に満ちた瞳を持つ守護妖獣は、ただじっとアルクメーネを見ていた。
「どうしてこんなところに……」
 安心して笑いかけようとしたアルクメーネは、そのカイチの琥珀色の瞳と出合った瞬間、はっとして図書室を振り返った。
 カイチは思念を送ってきたわけではない。
 だが、まるで「なぜ出てきたのですか?」と諌めているような厳しい射るような瞳がそこにあったからだ。
 その厳しいまなざしがアルクメーネに幼い日々を思い出させる。
 子供の頃、家庭教師たちを上手に煙に巻いて授業を終わらせて部屋を出ようとすると、それを見透かすようなひややかな瞳をしたカイチが扉の外で待機していた。
 決して、部屋の外へ出ることは見過ごしません、という意志をみなぎらせた瞳に見つめられて、すごすごと教師たちのもとへと戻ったことが、何度もあった。
 あれ以来アルクメーネは、授業を抜け出すようなことはしなくなった。
 あの厳しい瞳が、いま自分の目の前にあった。
「…………」
 なぜだか居心地のの悪い思いに駆られて、アルクメーネは扉を引きながら図書室の中へと戻った。
(一体……なにをここで学べというのですか……)
 勉強や、すべきことから逃げ出したわけでもないのに、出来の悪い生徒になってしまったようでアルクメーネは途方にくれてやや陽射しがかげって薄暗くなった室内を見渡す。
 アルクメーネはここが好きだった。
 本の匂いと落ち着いた室内。
 一冊の薄い書物の中にさえ、知らない世界が満ちあふれる。
 書物はアルクメーネの知的好奇心を刺激してやまなかった。
 だが、今はこの場所になにかから逃げるように駆け込んできた。
 その原因は漠然としていて、それでも突き詰めて考えようと意識を集中させると激しい頭痛にさいなまれた。
(それでも考えろというのですか!?)
 激しい頭痛と痺れが増す一方で、考えごとをするどころではない。
 アルクメーネは、気をそらせるように見慣れた書物を一冊、また一冊と書架から抜き出しては、パラパラと頁をめくっていった。
 ラーサイル大陸に伝承されてきた太古の神々の物語。
 月の女神アル神の物語。
 海や山、人と妖獣など自然の摂理を教えた書物。
 ノストール王国の歴史と歴代の王たちの物語。
 初代ラウ王の統治の物語。
 王と、指輪と、守護妖獣の理(ことわり)を記した書物。
 アンナの一族たちの話をもとに構成されている見聞禄。
 過去のアンナの一族からもたらされた〈先読み〉と現象を綴った記録簿。 
(そういえば、あの男が話してくれた、海の女神ドナと砂時計の物語りは読んだことがなかった)
 神々の物語の書を手にとり、ページをめくりながら港町で聞いた話を思い出す。
(今度、エルナン公国へ行ってアマリエにたずねてみようか……)
 そう思いながら、代々の王家の人々が残した日記の一冊を手にとった時、アルクメーネは本の中に一枚の紙を見つけた。
 二つ折りにされている紙を開いてみると、そこに幼い文字が並んでいた。
『まだみぬあなたへ このてがみをみつけたひとに、すてきなおくりものをします』
 アルクメーネはくすりと笑った。
 ノストールの王族の子供たち間で伝わり続けている遊びのひとつだった。
 ラウ王家の関係者しか使用することの出来ないこの図書室には、数千冊もの本が保管されている。
 ひそかな遊びは、この中のどの本でも構わない、どれか一冊を選んでその中に、手紙を忍ばせておくこと。
 そして、その誰かが潜ませた手紙を探すという単純なものだった。
 手紙は、時間を超えて子孫へと届けられる。
 隠された手紙は、その書を開いた者だけが手にすることが出来るご褒美のようなものだった。
 誰が最初に始めたのかはわかってはいない。
 「まだ見ぬあなたへ」が枕詞である手紙。
 遠い時代の祖先の手紙を手にした最初の人がだれなのかもわかってはいない。
 けれど、それはいつしか伝統のようにこの図書室で行われてきた。
 子供たちから、子供たちへ、長い平和と繁栄を願って手紙は贈られる。
 手紙の内容は様々だった。
 読んだ本の感想や批評、推薦する本の目録。
 他愛もない挨拶の手紙や詩、その日の起こった出来事。
 嬉しかったこと、好きな相手のこと、親やしつけ係に対する不満、死別への悲しみを綴ったもの。
 時には、自殺をした人間の遺書が裏表紙の間から発見されたり、今まで誰も知ることのできなかった王家の謎が解き明かされるような書が細工を使って隠されていたこともあった。
 発見された手紙たちは、いまも一箇所にまとめて保管されている。
  アルクメーネたちが見つけることのできた手紙のほとんどは、父や父の兄弟たちが子供の時代に残した手紙だった。
 まれに祖父のものが見つかることもあったが、それが子供心に奇跡の大発見だったことを思い出す。
 ただし、そうした手紙遊びの本当の目的は、この膨大な図書室の蔵書の一冊にでも多く触れ、王族の子供たちが宝捜しのように楽しみながら本の世界を楽しんで欲しいと願った先哲の知恵だったろうとカイチは感想を述べたことがあった。
 自分たちが、書物に挟まれた手紙をほぼ探索し尽くしてしまったと感じた頃、ようやく手紙探しの遊びを始めた弟たちが「全部兄上たちがみつけちゃったから、自分達で見つけられるものはなにもない」と悲しそうにしている様子を知って、テセウスとアルクメーネは弟たちの為に、今度は自分たちが手紙を書いて挟み、宝捜しができる様にしてあげたのだ。
 子供だった父もまた、兄弟やまだ見ぬ自分たちのために、手紙を書き残してくれたのかもしれないと思ったこともあった。 
 だが、いま手にした手紙の文字はアルクメーネの文字でも、テセウスの文字でもなかった。
 はじまりの文章は同じだが、たどたどしい幼い筆跡が並んでいる。
『ドルファーのみずうみに、クロトあにうえといっしょにアルしんのえをかいてビンにいれました。ひもでむすびました。みらいのおうさまがみつけてください。(テセウスあにうえと、アルクメーネあにうえがこのてがみを、みつけないように!)ルナ』
「……?!」
 アルクメーネは、急にめまいを起こして床に片膝をつき、書架で身体を支えた。
 そこに記されていたのは、まぎれもなく自分たち兄弟の名前だった。
 アルクメーネは、深く息を吸い込み吐き出すと、今度はとりつかれたようにその本の付近にある本を片端から取り出しては開いていった。
『きょうはこわいひとがきたのでけびょうのわざを(クロトあにうえにおしえてもらった)つかってみました。でも、たくさんおこられました。みらいのおうさまは、けびょうはやらないほうがいいです。 ルナ』
『いちばんとおいむらがかじになって、ちちうえもあにうえもみんなたすけにいっています。みらいのおうさまも、みんなをたすけてあげるいいおうさまになってください。さびしいけどははうえといっしょにまっています。ルナ』
 アルクメーネは、一番下の段のほこりをかぶった古い言語の解読書と、人名だけが羅列されている名簿の中から二枚の同じような手紙を見つけた。
 同じ筆跡のそれら手紙に書かれている名前。
「ル……ナ……?」
 言葉につぶやいた瞬間、アルクメーネの水色の美しい双眸からとめどもなく涙が溢れ出した。
「?」
 なぜだか懐かしい響きが自分の唇をかたどり、アルクメーネは思わず自分の唇を指で触れる。
 けれど、この名の人物が誰なのかがわからない。
 どうしてもその名の持ち主の顔が浮かんでこないのだ。
(でも、私たちを『兄上』と呼んでいる……)
 考えようとしたと同時に、激しい頭痛と、めまい、痺れと吐き気が襲いかかり、アルクメーネは床にくずれるように倒れた。
 動悸が早くなり、全身から汗が噴出し、呼吸が困難になりそうだった。
 まるで、考えることをやめろと訴えかけるように全身が悲鳴をあげる。
「く……」
 アルクメーネは、苦しみに耐えながら、三枚の手紙を布の帯の内側に隠すようにたたんで挟み込んだ。
「カイチ!」
 必死の形相で歯を食いしばり痛みに耐える。
「カイチ……この痛みは、この手紙が……この名が……原因なのですか……?」
――…………。
 カイチが黙したままなのを確認すると、アルクメーネは大きく深呼吸を繰り返した。
「返事がないことが……返事……でしたね」
――…………。
 激痛が頂点に達する。
「命じます。今の記憶を……この手紙の記憶を……留めてください」
 アルクメーネは図書室の床の上で意識を失った。
――御意。
 そう答えた守護妖獣の声を薄れる意識の中で聞きながら。

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