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第十九章《見えざる手》

 目が覚めると、あの朝と同様、ジュゼールの呼吸は乱れ、心臓の鼓動が全身に響き渡っていた。
 思わず見た手の平には、血を吐き出したまま息絶えるロディの体を支えた感触が生々しく残っていた。
「陛下……」
 ジュゼールは頭を抱えた。
 嫌な汗が全身に流れ、包み込んでいた。
 気がつくと、指先まで達する体の震えを止めることができないでいた。
 
 異変が起きた。
 ルキナの姿が見えなくなったというのだ。
 薬湯をもってくる食後の時間になっても現れないことで、ジュゼールはそれを知ったのだ。
 更に、ボルヘス前王の元にも、定刻になっても現れないと前王付きの侍女がジュゼールに知らせに来た。
 ジュゼールは、わずかではあったが体調もよくなっていることから、信頼できるわずかな部下を従えて城中を自分の足で歩き、捜し回った。
 だがルキナの部屋にも、ボルヘス前王の寝室にも、心当たりのある場所のどこにも姿はなかった。
「ジュゼール」
 ボルヘスの部屋を訪れたジュゼールを見て、前王は寂しげな表情を浮かべた。
「ルキナがいなければ、この命ももたない。せめてロディと最期の別れがしたかった」
「陛下……そのようなご心配はなさらないで下さい。きっとルキナを探して参ります。きっと……。私はその役目の為に城に残ったのだと思います」
 心のどこかで前王の「死」を望んでいるとはいえ、ロディの不在時にそのようなことが起きるのだけは絶対に避けたかった。
 病状の急変であればともかく、ボルヘスの看護に当たっているルキナが行方不明が原因となれば大問題ともなる。
 今朝方の夢といい、前日のルキナの奇妙な言葉といい、ジュゼールはルキナを捜し出さなくてはならない焦りを感じていた。
 不吉なことが起きるような胸騒ぎを感じてしまうのだ。
 広い城の中を、数人の部下を従えてルキナの姿を捜し回るものの、昨日以来その姿を見たものはだれもいなかった。
 気がつくとすっかり日は暮れていたが、ジュゼールはルキナを見つけられなかった報告をするために、部下たちを控えの間に残して一人ボルヘスの部屋へ向かった。
「死人を見ているような顔をしておる」
 寝台のボルヘス前王はかすれた声でジュゼールに話しかけた。
 明らかに生気がない様子のボルヘスの様子に、ジュゼールは、緊張した面持ちで頭を下げた。
「申し訳ございません。現在も部下が手分けをして城の内外を探しております。引き続き明日もルキナ殿が見つかるまで探します故、今日はゆっくりとお休みください」
 慰めにもならない言葉だとはわかっていた。
 ボルヘスにとり、ルキナはまさに命綱そのものなのだ。
『ジュゼール。夜は部屋からでない。約束』
 ふいにジュゼールは昨夜そう言い残したルキナの言葉を思い出した。
 日はとうに暮れて、夜空には半月が輝き、ボルヘスの部屋にも燭台に火が揺れている。
(部屋に戻らなければ……)
 ルキナが何かを感じてそう警告したのならば、ジュゼールはこのままここにいるべきではなかった。
「ロディが帰るまでわしの命はもたないかもしれないな……。お前にはまだわかるまい。ロディは立派な王になった。が、まだまだ甘いところがある。わしの若いころは……」
 ボルヘスは、退出のきっかけを探そうとしているジュゼールの思いとは裏腹に、自分が王になったころの苦労話を延々と続けた。
 寝室で付き添っていた侍女たちは、気を使ったように一礼をすると、ジュゼールにその場を任せて寝室の続き間となっている部屋へ下がって行ってしまった。
 立ったままボルヘスの話に相槌をうつジュゼールは、なにも起こらないことを願うしかなかった。
(あの夢を見たひと月前も、なにも起こらなかった。大丈夫だ。城には陛下はいらっしゃらない)
 そう自分に言い聞かせる。 
 やがて話し声が途切れたので顔をのぞき込むと、話し疲れたように、ボルヘスはそのまま眠ってしまっていた。
 思わずジュゼールは苦笑いを浮かべながら、大きなため息を吐き出した。
 なにも起きなかった安堵感に、その場に座り込みたくさえなる。
 その時、隣の部屋から誰かが入室してくる気配がした。
 自分の部下か侍女が戻って来たのだと思い、一言挨拶をしてから帰ろうと振り向いたジュゼールは、そこにいた人物の姿を見つけて心が凍りついた。
「まさか……」
 そこに子供のロディがいた。
 悪夢の光景が蘇る。
 ジュゼールが呆然とロディを見ていると、窓が閉じているにもかかわらず部屋の蝋燭が一斉に消え、部屋は暗闇に包まれた。
「…………」
 ジュゼールはとっさに扉に駆け寄ると、ボルヘスの眠る寝室と隣室に続く扉を急いで閉めた。
 そして、いま隣の部屋にいるロディが寝室に入って来ないように、自らの背を扉に張り付けるようにして立ち、体を盾にして後ろ手で取っ手を握り締める。
 だが、部屋は異様な空間に包まれていた。
「ごめんね」
 子供の声にはっとしたときには、どこから入ったのかボルヘス前王の枕元に子供のロディが立っていた。
「お待ちください」
 ジュゼールは、自分がいるのが現実なのかまだ夢の中にいるのかわからなくなっていた。
 暗闇のはずなのに、前方にいるのがロディだとはっきりとわかる。
 扉はたったひとつであり、自分はその扉を今も押さえているのに。
 それに――。
 ジュゼールは自分に言い聞かせる。
 ロディは、もう成人している。目の前にいるこのロディは子供だ――これは、きっと夢なのだ、と。
(悪夢の繰り返しなのか……!?)
 現実と夢の境が交ざりあった不安定な空間に立っているようで、ジュゼールは倒れそうな目眩を感じながら、足に力を入れて立ち続ける。
 これが夢ならば、夢の続きをジュゼールは知っている。
 やはり同じように、目の前の子供のロディがゆっくりと左手を高々と掲げた。
 手には長剣が握り締められていた。
 ジュゼールは自分が何をすべきか選ばねばならなかった。
 ロディを止めれば、ロディはボルヘスに殺されてしまう。
 ロディを止めなければ、父殺しの罪を犯してしまう。
――何があっても、自らを守りたいのなら、あなたは今度こそ、ただの傍観者でいなさい。
 ふいに夢の中の女性の声がジュゼールの行動を止めようとする。
(そう……これは、夢だ……)
 だが、ロディの手が高々と上がった次の瞬間、ジュゼールの体は動いていた。
「陛下――!!」
 ジュゼールは、ロディの体を突き飛ばすとボルヘスの体を庇うように覆いかぶさり、夢ではロディを貫いた剣が隠されている枕を押さえ付けた。
(これで、誰も傷つかない……。夢よ、覚めてくれ……!)
 すべての悪夢は、ジュゼールのこの行動で終わりを告げるはずだった。
 だが。
「ジュゼール!?」
 後方の扉が開き、大人びたロディの声がジュゼールの名を叫んでいた。
「……?」
 ジュゼールは自分が突き飛ばした子供のロディの姿を探す。が、そこにいたのは行方がわからなくなっていたルキナだった。
 ルキニは気を失って仰向けに倒れている。
「陛下?」
 何が起きたのか混乱しながらも、声の主を確認しようと振り返ると、そこに燭台を手に碧い目を大きく見開いたロディとリリアの姿があった。
「お戻りになられたのですか?」
 ジュゼールはほっとして立ち上がり、笑顔をつくろうとした。
 しかし、なぜか顔はこわばったまま自分の思うように体が動かなかった。
「ジュゼール、なにを……している……」
 ロディの声が震えているように聞こえた。
 リリアが口元を両手でふさぎ、知らない人間を見るような目で自分を見ていた。
「もう……大丈夫です……」
 ジュゼールは二人の方へ歩み出そうとして、上げた手からなにかぬるりとしたものが腕を伝って流れ落ちるのに気づく。
「?」
 いぶかしげに見ると、手は薄明かりの中、鮮血に染まっていた。
「な……」
 ジュゼールは反射的に振り返った。
 その目に、ボルヘス前王の体に突き立てられた短剣が飛び込んでくる。
 ボルヘスの体と寝具は真っ赤な血でみるみるうちに染まっていく。
 自分は、互いを殺し合う父と子、ロディとボルヘスを守ったはずだった。
 だが、目の前にあるのは、絶命しているようにしか見えないボルヘス前王の姿だった。
 ジュゼールは、その場に膝から崩れるように座りこんだ。
(私ではない。これは、なにかの間違いだ)
 そう叫びたかった。
 自分はロディとボルヘスを守っただけだ。
 自分ではよくわかっている。
 だが、誰が見ても自分がボルヘス前王を殺したとしか見えないことを、ジュゼールはわかっていた。
 自分がロディの目を通して今の状況を見たならば、そうとしか受け止めないことを、こんなときでさえ冷静なもう一人の自分がそう分析する。
(なにが……起きたんだ!?)
 手を押さえたままの体がガクガクと震え出していた。
(違う……違う……)
 ジュゼールは、自分がなにをしていたのかさえわからなくなりそうだった。
 何故こんなことになったのか、夢と現実が溶け合い世界が回転し始めていた。

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