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第十九章《見えざる手》

 リレイン城の、ある部屋のテラスに、一晩中たたずむ女性、リリアの姿があった。
 リリアは、祈りにも似た思いで正門の方角を見つめ続けていた。
 ミア・ティーナの元へロディが訪れる日は、リリアは一睡もできないまま夜を過ごす。
 正式な婚姻を結んでいる以上、ロディとミア・ティーナが夫婦であることは理屈ではわかっていた。
 もちろん、自分がロディと過ごす時間の方がはるかに多いことも、ロディの愛情が自分に向けられていることもわかっていた。
 だが、それでもロディがミア・ティーナとともに過ごす時間を考えると、リリアの心にどうすることもできない感情が嵐のように駆け抜け、押さえがたい激情が自分を呑み込み支配していくような感じさえするのだ。
 その暗く焼け付くような苦しい感情は、ロディがミアの元に足を運ぶ度に強さを増した。
『国を治めることというのは、己を犠牲にしなくてはいけないことなんだ。私は、リリアと出会ったこと、こうしてそばにいてもらっていることさえ贅沢だと思っている。本来、自分の夢や楽しみなど、追い求めてはいけない立場だからね』
 ロディはリリアに時々、そう語りかけてくれたが、それでもロディがいない日は眠ることができなかった。
 しかも、今朝はいつにもまして心が落ち着かなかった。
 あらゆる不吉な、不安な思いが焦燥感以上に大きく自分を支配するのが感じられるのだ。
(陛下の身になにか……?)
 リリアは否定しながらも、この心のざわめきがボルヘス前王の回復と関係あるような気がしてしかたなかった。
(なぜ……あの方は生きているのかしら……)
 ロディが父の回復を願い続けていたことは、リリアは良く知っている。だが、素直に喜べない。
「そうだわ」
 リリアはなにか思いついたように、テラスから部屋に戻ると、そのまま廊下へ向かって走りだしていた。

 ジュゼールが悪夢を見てからひと月以上経過した。
 あの時の身も凍るような恐怖心がようやく薄れ始めた頃、ロディがキルルーサ領とイーリア領に出向くことになった。
 イーリア国はリリアの故国である。
 現在はダーナン帝国の領土として平穏に統治されているが、ロディが自分が治める領土を再確認し、ボルヘス前王への帝位返上をあきらめてくれることを願って、リリア自身がカラギに申し出た話だった。
「『それにミア・ソフィーニ宮殿に行く回数が減るもの』ってポツリとつぶやいたのを耳にしたときは、さすがに女だと思った。いじましいじゃないか」
 その時の様子をカラギがそっと耳打ちして来たとき、ジュゼールもリリアのせめてもの抵抗方法に愛らしさを覚えていた。
「公務であり、国に対する愛着を増していただこうというのが方針である以上、喜ぶ者はいても反対する者はいないからな。ミア・ティーナ妃殿下も陛下の訪問の回数が減ったとしても、特に興味を示すお方でもなさそうだし」 
 だが、出発の日ジュゼールは同行することができなかった。
 数日前から体調を崩して高熱に見舞われ床に伏してしまったのだ。
「ルキナの力を借りられて助かった」
 体力を回復したジュゼールは、薬草などの手配をしてくれた小人族ザキ一族のルキナに礼を述べた。
 ルキナはジュゼールの膝位までしか身長がなかったが、高齢であることを物語るように顔は皺だらけだった。
 先々代の王の時代からこのリレイン城で仕えていたのだというルキナの実際の年齢が何歳なのかはわからない。
 ルキナはこれまで、ボルヘス前王につききりで回復術を施してきたのだが、前王が目覚めてからは、付き添う時間も一定の時間へと変化してきたのだ。
「杖の力。ニルグヤーグの力。治癒する力」
 ルキナはニッと笑い、大きな口から黄色い歯を見せる。そして、奇妙な言葉を残して去って行った。
「ジュゼール。夜は部屋から出ない。約束」
(なんのことだ?)
 ジュゼールはまだだるさの残る体を横たえながら、その意味を考えた。
 けれど頭はぼーっとしており何かを考える状態ではなかった。
 きっと「無理をするな」という意味なのだろうと解釈したまま、ルキナの言葉に従うように眠りについた。

 そして、その夜ジュゼールはあの夢を再び見る。
――あなたの帝王は「死」に見入られているの……。
 あの時聞こえて来た、か細い女の声が耳朶にささやきかける。
――だから何があっても、自らを守りたいのなら、あなたは今度こそ、ただの傍観者でいなさい。
 それはこれから起こることに対しての警告をしているような言葉だった。

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