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第十九章《見えざる手》

 ボルヘス王の奇跡の回復は、まだごく一部の者ののみの間にしか知らされていず、ひと月以上経過しても、公にされることはなかった。
 当のロディ自身は、一日も早く国中に知らせたいと望んでいたが、宰相のグラハイド、軍師のカラギ、ジュゼールをはじめ、すべての側近がことごとくそれを強くとどめたのだ。
 ロディが帝位の返上を言い出すのを恐れていたのが真の理由だったが、ロディに対しては、「せっかくお目覚めになられましたものの、絶対安静の身であることにはおかわりありません。もしもご回復が公になれば、見舞い客などが押しかけ、また城の警備もこれまで以上に強化を図らねばなりません。いま前君に必要なのはなによりも静かに療養期間を十分に差し上げること。なにも急がれる必要はないと心得ます」。
 全側近がそう言って押し切ったのだ。

「陛下は、理想主義であられすぎる」
 カラギは今日も朝からロディを説得し終えるというひとしごとを終えて執務室に戻るとその後を追って入って来たジュゼールに対し、その胸元におもむろに人差し指を突き付けた。
「有能な教育係が、理想論ばかり押し付けてお育てしてきたからじゃないのか?」
「それは私のことか?」
 教育係と指名されたジュゼールは自分に突き付けられたその手を、無表情につかんで引き離す。
「親孝行のなにがいけないの」
 さらに続いて入って来たリリアが、言葉とは裏腹に不安そうな表情でカラギとジュゼールを見つめる。
「もちろん悪くはないさ。なぁ」
 カラギは、大きなため息を吐き出しジュゼールに同意を求める。
「悪くはない。だが……正直複雑だ。ここのところ夜も眠れない。いつ陛下が前君の回復を公にされてしまうのではないか、いつ帝位を返上すると言い出されるのではないか、と。日々、陛下の一挙一投足、お言葉ひとつひとつに神経質になって内心びくびくしている自分がいる」
「私もそうだ」
 ジュゼールがうなずき、男二人が腕を組み並んだまま壁にもたれ掛かり、その先の窓の外の景色に視線を向けたまましばらく黙り込む。
 リリアも不安そうな表情を消せないまま長椅子に腰をおろした。
「陛下は、本当に帝位を父君に返されるおつもりだろうか。リリア殿」
 カラギがリリアに問いかける。
「……」
 リリアはうつむき、合わせた両手の指を口元にそっとあてたまま唇をそっと噛む。
 カラギはさらに問いかける。
「今この国は陛下のものであり、陛下こそがダーナンの帝王だ。もちろん父君の回復を喜ぶのは子として当然の心情。だが、わからないのは陛下が何故つねづねより父君の帝位復権を望まれていたのかということだ。こんなことを言えば反逆罪同然だが、この国に、前君の復権を望む者のなど陛下以外は一人としていないといっても過言ではないはず。今やラーサイル大陸の三分の一は我がダーナン帝国の支配下にあるといってもいい。それを行ったのはすべてロディ陛下だ。前君の功績ではない。陛下はまだ二十二歳。その気になれば、このラーサイル全大陸制覇も夢ではないはず。それをなぜだ? 美徳や理想? 例え前君が帝位についたとしても、一年か二年、ご存命になられるかさえ保証はない。かえって、ダーナンにとり障害となっても、利となるものはないはず。それは陛下ご自身が一番ご存じのはず。なのに何故あっさりと明け渡そうとするんだ? 田舎の貧乏人として育った俺には、わからない」
 カラギは頭を後ろの壁に軽くぶつけ、目を堅く閉じた。
「軍師なんだから、陛下なりのお考えがあるとかは考えつかないのか?」
 ジュゼールの言葉に、恨めしげに片目を開けてみつめる。
「前君が帝位に復権して、この国の利益はなにか。陛下の利はなにか、ずっと考えていたさ。なにもない。あるとするならば理想論を述べられているとしか考えられない。前君が帝位に戻られることでハリアやカヒローネ、リンセンテートスは一息つけるか? 否、陛下がいられる以上、どの国も油断はしないだろう。陛下は実権さえあれば、父君を名のみの帝王として飾っておけばいいとお考えなのならばそれはいい。だが、陛下憎しと思っている輩が、病床のご老体に何を吹き込むかわかったものではない。却って本当に寝た子を起こすだけで、ありがたみはかけらもない」
「痛烈すぎるぞ。少しは言葉を慎め」
 どんなに思っていても口に出して言ってはいけない言葉があるとジュゼールはたしなめる。
「陛下は自由におなりになりたいのだわ……」
 独り言にも似たリリアの言葉に、ジュゼールとカラギは驚いたように壁にもたれていた体を起こした。
「陛下はいつも自分が王でなければ……妹君を探しに飛んでいくのにと言われているもの」
「フューリー殿のことか?」
 カラギは、確かめるようにゆっくりと問いかけた。
「そう。陛下は、フューリー様がさらわれたことでずっとご自身を責め続けられていらっしゃっるわ。特に、リンセンテートスの砂漠で、馬車にのっていらっしゃったフューリー様を発見して、手が届くところにいたのに助けられなかったことをひどく悔やんでいらっしゃったもの。居場所はナイアデス皇国だと確信していらっしゃる。でも、ここ最近はフューリー様のことをまったく口にされなくなったから、私も安心していたのですけど……」
 ジュゼールは、数年前のリンセンテートスへの強行軍を思い出す。
 危険を冒していくつもの国境を越え、リンセンテートスの婚礼行事に乗じてフューリーの消息を突き止めるために、ロディと挑んだ日々。
 フューリー王女はハリアにいる――。
 差出人不明の密書によりそれを知ったロディは、リンセンテートスに婚礼の儀で訪れる予定のハリアのミレーゼ女王に直接真偽を確かめようと、ジュゼールとわずかな手勢を引き連れて秘密裏に国を出、リンセンテートスに潜伏した。
 そして、ミレーゼと対面したロディは、シーラの話し相手として最近見かけるようになった女性が肖像画のフューリーに似ているとの情報を得ることに成功したのだ。
 それを確認するために、シーラの居場所を追ったロディたちは不可解な事態に遭遇する。
 リンセンテートスの側妃となるはずのシーラが婚礼のその夜、突如消息を絶ったのだ。
 消息を求めようと試みたが、国をあけられる時間はわずかであり、しかも異様な砂嵐がリンセンテートスを襲いはじめて、ロディたちは街からでられなくなり足止めをくってしまったのだ。
 日を追うごとに外へ出ることが危険な状態となり、探索を中断し、一刻も早くリンセンテートスを出てダーナンへ帰ろう。そう決断し外へ出たその日、ジュゼールたちは明らかにリンセンテートスの人々とは異なった言葉を話す統率された一行を見かけた。
 王族が使用するような立派な馬車があるにもかかわらず、すべての馬車には紋章がなかった。
 だが、外を歩くものがほとんどいない視界をふさぐ強烈な砂嵐の中、彼らは大声で声を掛け合わなくては互いの位置さえ確認できないようだった。
 それが、ロディやジュゼールたちの関心をひどく引き付けた。そして、その男たちに守られるように馬車に乗った二人の女性を見たとき、ロディの表情が変化した。
 全身を長衣と布で砂嵐から身を守るために覆い隠したわずかにのぞく女性の瞳と出合った瞬間、ロディは「フューリーだ」と確信したのだ。
 そのまま後を追いかけ、フューリーを奪回を試みた。
 だが、救出は失敗に終わった。
 あの時の馬車がナイアデス皇国の馬車であるという確信はあった。
 だが、証拠はなにも残ってはいない以上、ナイアデス皇国にフューリー返還の話をするわけにもいかなかった。
 まして、ナイアデス皇国の馬車を急襲したのが自分たちだと名乗り出るような愚かしい行為は愚問だった。
 しかも、交渉を行ったところで、一歩責め方を誤れば、フューリーが人質の身となってしまう危険性もあったからだ。

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