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第十九章《見えざる手》

 ロディ・ザイネス帝王が支配するダーナン帝国。
 その居城であるリレイン城では早朝より、ごく一部の人間が周囲に極秘理に、だが、慌ただしい動きを見せていた。
 城の居城のさらに奥、ある人物が眠り続ける部屋へと向かう長い通路を、急ぎ足で歩く数人の人々がいた。
 ロディ、ジュゼール、カラギ、リリア、宰相のグラハイドだった。 
 その通路の先には十年近くも眠り続けているロディの父、ボルヘス前王の居室がある。
「グラハイド、確かだな」
 やや興奮の光りを帯びた碧い瞳が、遅れてついてくるグラハイドを再度確認するように振り返る。
「先程、ルキナの使いがありましたので、まず間違いはないものと思います。が、なによりも先に陛下にお知らせしてからと思い、私もまだ直接お目にかかってはおりませんので」
「そうか……」
 ロディの歩みは、その部屋に近づくにつれ駆け出すほどに早くなって行く。
 隣に並ぶジュゼールも飛び込んで来た知らせが、まだ信じられないといった表情を浮かべたままだ。
 部屋に近づくごとに、目の前の扉が次々と開き、最後に目的の場所であるボルヘス前王の眠る部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「父上……」
 ジュゼールたちが寝室の前室にとどまり、部屋に入っていくロディの背中を見守る。
 ロディは、天蓋付き寝台に横たわる前王、父であるボルヘスの枕元に歩み寄る。
 ロディが十歳の時、二人の兄たちによる突然沸き起こった権力闘争の渦中、その刃にかかり生命を落としかけた病身のボルヘス王は、瀕死の状態から、土の魔道士ザキ一族のルキナの延命術により植物状態ではあったものの命を永らえていたのだ。
 ロディは確認するように、寝台をはさんで窓際に立っている子供のような身長しかない老齢のルキナを見つめる。
 褐色の肌をした小人族のルキナは、ロディの無言の問いかけにゆっくりと深くうなずいた。
 ロディは、再び父に呼びかける。
「父上」
 皺の刻まれた顔は、何度も見舞いに訪れいつも見なれている寝顔だった。
 その表情がロディの声に反応し、微かに反応を見せる。
 やがて、口元が微かに動き、両眼のまぶたがゆっくりと開いていく。
「父上、おわかりになりますか? ロディです。父上」
 ボルヘス前王は、目の前で自分の名を呼ぶ美しい若者をしばらく不思議そうにぼんやりと見つめていた。
 脳裏に重なるのは、彼に似たある人物の表情だけだった。
「ナーディア……」
 それは、すでに亡き人となったボルヘス王の后、ロデイの母の名前だった。
「ナーディア」
 かすれた声が妻の名を呼ぶ。
「父上、ナーディアは母、私の母上です。父上がお倒れになってから、すでに十二年もの歳月が経ってしまわれたのです。ロディです。父上」
 ロディはボルヘスの手を両手で包み込むとささやくように耳元で呼びかけ続けた。
「ロディ……?」
 はっきりとロディの名を呼ぶボルヘスの声に、隣の部屋の一行はどよめいた。
 グラハイドとジュゼールが顔を見合わせる。
 それはなつかしく聞き覚えのあるボルヘス王の声だった。
 ボルヘスを知らないカラギとリリアは真剣に父に語りかけるロディの横顔をだまったまま見つめていた。
「そうです。ロディです。父上。私は、父上がお目覚めになる日を心待ちにしておりました。おわかりになりますか? 父上」
 ボルヘスは懸命に呼びかける青年に、いつも病気の見舞いに通い続けていた末の王子の姿を重ね合わせる。
 黄金色の美しい髪。深みを帯びた美しい宝石のような碧い瞳。透けるように白い肌。母譲りの美しく優しい面差し。そして、なにより自分を映し出すその瞳は、一番可愛がり成長を楽しみにしていたロディに酷似していた。
「十二年……? おまえがあと十年早く生まれて来ていれば……と、話したことがあったが……」
「その時の私は『毎日父上とお話しできる時間があることのほうが嬉しい』とお答えしておりました」
 ロディは、ボルヘスの唐突な言葉にも、それが父が倒れる前に自分と交わした最後の会話だったことを忘れてはいなかった。
「父上のお言葉は、このロディの中に常に刻み込まれております」
 すると、みるみるうちにボルヘスの瞳に涙があふれ出していた。
「ロディ……なのか……。立派になった……。お前はわしには出来過ぎた息子だ。こんな死に損ないの老体、そのまま死なすことも簡単だっただろうに。なにも、生かしておいてもやっかいなだけだったろう……」
「父上。私にとって、私のそばにいてくださる肉親は、今はもう父上だけです。たとえどのような状態でも、父上が生きていてくださることが私にとっての支えであり、生きる力でした。いつか父上がお目覚めになられたときに褒めていただけるように、ただそれだけを励みとして今日まで国を守って来たのです。そんな悲しいお言葉は二度とおっしゃらないでください」
 ロディと前王ボルヘスの会話を交わす姿を見守り続けていたジュゼールは、カラギと目を合わせた時、複雑な感情が互いの中にあることを見て取った。
――父上がお元気になられたら、私は帝位をお返しする。 
 ロディが、折に触れて言っていた言葉がよみがえったからだ。
 ジュゼールもカラギも、この場にいる全員がその言葉を知っている。
 だが、これまではロディがそう口にしても、前王が回復する兆しはまず考えられなかった。
 その為、本気には受けとるものなど誰もいなかったのだ。
 ボルヘス前王が回復するなど、現実には起こり得ないこと、とそう思い込んでいた。
(まさか陛下は……本気であのお言葉を言われていたのか……? いや、目が覚められたといっても、帝位に復権されるには、あのお体では無理だ。それに、いまは陛下の力無くてはこの帝国は支えられない)
 ジュゼールは、ロディの帝位返上の言葉をあってはならない、と心の中で強く否定していた。
 しかし、幼い頃の表情そのままに、父の回復を涙を浮べて喜んでいるロディの顔を見ていると、本気であったらどうするべきかという危惧が拭えなかった。
 ロディは、幼いころから帝位に対する執着がない。そして、おそらく今も。
 それをジュゼールはよく知っていた。
 ジュゼールの固い表情が意味するところを知ると、自然にカラギらにもその表情は伝染していった。

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