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《第十六章 封 印 》

 ルナは高熱にうなされながら、悪夢の中をさまよっていた。
 それは、ハーフノーム島で暮らし始めた最初のころに見ていた夢によく似ていた。
 だが、繰り返される悪夢は現実に起きてしまった出来事だった。
 破壊、人の悲鳴、血飛沫、横たわる亡骸、そして黒い影。
 ブレアの町に突然襲いかかった悲劇。
 黒い影の妖獣。
 そして不吉な予言。
 ルナは夢の中で自分の身に降りかかった出来事にうなされ続けていた。

 あの日、畑仕事を終えてランレイと二人で町に戻り、ネイの待つ宿に近くまで来た時、町の空気が変わった。
 逃げ惑う人々の恐怖に満ちた顔。
 何かが破壊されている轟音が響き渡り、空気を揺らし、地鳴りが体を揺らした。
(あいつだ…)
 ルナは直感した。
 何故かはわからない。
 だが、あの妖獣・ヴァルツが町を襲っていることを直感したのだ。
(まさか、追いかけて来た?)
 イルダーグを襲い、殺した妖獣。
 父を殺したサトニとともにいた存在。
 あの時、ヴァルツはルナの怒りに興味を示し、その怒りをさらに引き出そうとネイを殺そうとしたのだ。
(また自分のせいで、誰かが死ぬ……)
 忘れようとしていた忌まわしい記憶が蘇り、ルナは、ランレイとともに逃げてくる人々に逆らうようにネイの待つ宿へ向かって走り出した。
 宿まで一本の道を全速力で走っていたルナの体が突然吹き飛ばされた。
 真横からいきなり飛び込んできた来た黒い影に襲われたのだ。
 道からはずれた高い草むらの中にたたきつけられたルナの体は、立ち上がる間もなく再び大地に叩きつけられた。
 目の前に現れた強大な黒い影がルナの体を押さえつけていた。
 人間でも、動物でも、見知った妖獣でもない妖しい黒い影。
 獣の影に酷似しているが、それははっきりとした輪郭をもたない黒い霧のような存在だった。
――ククククク……見ツケタ……
「!」
 何度も耳にした聞き覚えのある声にルナは一瞬にして血の気が引いていくのを感じた。
 父の守護妖獣イルダーグさえ、死に追いやるほどの瀕死の重症を負わせた相手。
 エーツ山脈で出会ったときも、アンナ一族のエリルが現れなければ助からなかったかもしれない。
 だが、その頼みのエリルは隣町まで行っていて、今はいない。
――オ前ハ、我ニフサワシイ心ヲモッテイル。同ジ心。誰ニモ必要トサレナイ苦シミニ満チテイル。ソシテ全テヲ失ウ恐レの心。
 その言葉に、ルナはカッと目を見開いた。
 怒りが体を支配していく感覚が熱さを生み、ヴァルツを睨みつける。
「お前と、同じだなんていうな!」
――ソノ怒リハ、忘レラレタ恨ミ。捨テラレタ恨ミ。闇ノ心ハ、我ニ同調スル。モット怒ルガイイ、我ニモソレヲ望メ。ソノ苦シサカラ解放シテヤル。楽ニナレル。
「うるさい!」
 ルナはヴァルツが自分の心を見透かしているのではないかと恐れながら、叫んだ。
「誰も恨んでなんかいない。忘れられたのは悲しいけど、恨んだりしていない。捨てられたなんて思っていない! お前なんかに、楽にしてもらわなくていい!」
 この妖獣に恐怖は感じなかった。それより、突きつけられる言葉がこらえてきた心に突き刺さって痛い。
「おまえと同調するくらいなら、楽にならなくてもいい!」
 全身全霊で叫ぶ。それが、精一杯の抵抗だった。
――デハ、死ノ間際ニ許シヲ乞ウガイイ。死ニタクナイト心ヲ渡セバ、許シテヤロウ。 助ケテヤロウ。
 ヴァルツはそう告げると、ルナの首筋めがけて大きく口を開く。
 鋭い牙が襲いかかろうとしたその時、悲鳴が上がった。
「ヴァルツ! 助けて!」
 黒い妖獣を呼ぶ子供の声が聞こえた。
 その声に反応してヴァルツは攻撃を止め、消え去った。
 ルナは慌てて立ち上がり声をした方を探す。
 町と反対方向の一面畑が広がるその場所に、あのサトニの姿があった。しかも、サトニはランレイに追いかけられて捕まる寸前だった。 
「ランレイ?」
 ランレイがサトニを追いかけていることに驚いたものの、ルナはすぐに気がついた。ヴァルツが突然ルナを襲うのを止めた理由を。
 ヴァルツにとって、サトニは庇護すべき存在なのかもしれないと。
 ルナの視界で、サトニの腕をつかみ飛び掛ったランレイと、そのランレイに襲いかかるヴァルツの影が一つになる。
「ランレイ!!」
 ルナは悲鳴を上げて走りだした。
(サトニが、ヴァルツの主人なの? ヴァルツは守護妖獣なの?)
 守護妖獣リューザの主であったルナに浮かぶのは、それしかなかった。
「ランレイーっ!!」
 叫びながら、ルナは必死に走った。
 草の背が高く、消えた三人の姿はルナからは見えない。
 不安と恐怖が広がって行く。
 あの妖獣に襲われたら、ランレイは助からない。
 なのに、ランレイはルナを守ろうとサトニを見つけて囮になろうとしたのだ。
(死なないで! ランレイ、死なないで!)
 ルナの緑色の瞳から涙があふれていく。
 その時、青い閃光が走った。
 光は、ランレイ、ヴァルツ、サトニがいたはずの地点に達すると、光の渦を巻き起こし、音もなく消滅した。
「?!」
 ルナは光の放たれた方向を反射的に見る。
 数人の人影がそこにあった。
「おーい! 大丈夫かい!」
 若い男の声が遠くからルナに向って呼びかけていた。走ってくる様子がわかる。
 ルナはそれを認めながら、ランレイの姿を探し続けた。
「ランレイ!」
 ようやくたどり着いたその場所に、うずくまって倒れているランレイの姿があった。
 サトニとヴァルツの姿は消えていた。
「大丈夫? ランレイ、大丈夫?」
 真っ青になって駆け寄るルナに、ランレイは両手に持ったイルダーグの牙を見せながら、大丈夫と示すように体を起こし立ち上がった。
「よかった」
 安堵したのか、体から力が抜けてしまいルナの方がランレイの手をとったままその場にひざを突く。
 しばらくすると、さきほどの男性の声と共に人影が現れた。
「大丈夫だったかい?」
 声にふり返り顔をあげたルナは、驚いたようにその人物を見た。
 意外にも若者の姿がそこにはあった。
 十代半ばのまだ少年のようなあどけなさが残る顔立ち。
 だが、ルナがその緑の瞳を丸くしたのは、それだけではなかった。
 黒い髪に紫の瞳、そして紫の長衣に身を包み杖を手にしていたその姿だった。
 それは、アンナの一族の者である証だった。
「こんなところに妖獣が出るなんて聞いたこともないから驚いたよ。本当は捕獲しようと思っていたんだけど、まだまだ力不足らしくて逃げられてしまった」
 少し悔しそうに穏やかな表情をした若者のアンナは、ルナとランレイを交互に見ながら、安心させるようにほほ笑む。
「わたしはアンナの一族の者。名はオージー。怪しいものではありません」
 礼儀正しく挨拶をしてみせると、後ろを振り返り、後から追いかけて来た同じ年頃の二人の女性のアンナを杖で示した。
「彼女たちは、わたしの仲間なんだよ。マティスと、エディス」
 そう紹介されたアンナを見たルナの表情が固まった。
 思わず目が会う前に視線をそらせてしまう。
 最後に紹介された女性を、ルナは知っていた。
 年月を得て、背も高く、髪も伸び、大人びた姿になってはいるけれど、ひと目でルナの名付け親のエディスだとわかった。
 思わず、その名を呼んで抱きつきたい衝動に駆られる。
 だが、動けなかった。
 兄のテセウスでさえ、自分を忘れていたのだ。
 自分はもはや、ノストールの第四王子ではない。
 エディスもまた、自分を忘れているかもしれないという不安に、ルナは呼びかけることも、立ち上がることができなかった。
「大丈夫かい?」
 妖獣に襲われた恐怖に身をすくませているのだと勘違いしたオージーが、穏やかな笑みをつくって歩み寄り、ルナに手をさしだして立ち上がらせる。
「あ……」
 ルナは、エディスに気をとられていてオージーにお礼を述べていないことに気がついた。
「ありがとうございました。その……助けていただいて」
 礼を言ったものの、視線を下ろしたまま顔を上げられなかった。
 ルナは、自分を見ているだろうエディスの顔を見るのが怖かった。
 エディスが自分を忘れているならば、兄のテセウスに会った時と同様、自分はただの見知らぬ人間なのだ。
 名を呼んで駆け寄ることもできない。
 テセウスの時のように、他人を見るように自分を見つめる瞳に出会うのは嫌だった。
 ルナは恐怖と動揺を隠そうと必死に耐えていた。
 だが、涙は自分の意志と関係なく瞳にあふれて、頭を上げれば涙は間違いなくこぼれ落ちてしまいそうだった。
「怖かったでしょう? でも、あの妖気はただの妖獣じゃないわね。とっても離れた場所にいたのに、鳥肌がすごかったんだもの。ケガははなかった?」
 マティスと呼ばれたアンナが、ややこわばった声でランレイにたずねる。
 ランレイはコクリとうなずき、気遣うように隣のルナを見つめる。
「どうしたの?」
 エディスの声が自分に向けられたのを知って、ルナはより一層身を固くした。
 懐かしい声の主は、心配そうにそう声をかけ、ルナの前まで来ると顔をのぞき込もうとする。
 ルナは反射的に、エディスから顔をそむけた。
 同時に、涙が滴となって地面の上に落ちる。
 この場から逃げ出してしまいたかった。
 エディスの目に他人として写る自分を見たくなかった。
「どうしたの?」
 再びエディスのささやく声がルナの耳元にとどく。
「わたしの名付け子」
 はっとして、ルナは顔を上げた。
 そこにエディスの紫色の美しい瞳があった。
 心配そうに、けれど懐かしそうにルナを認める瞳がそこにあった。
「エディス……?」
 エディスは、ほほ笑みながら慈しむようにルナをそっと抱き締めた。  

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