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《第十六章 封 印 》

 いまの自分になら可能かもしれない、たったひとつの事をアルクメーネは実行しようと守護妖獣を呼び出す。
「カイチ」
 一角獣の白い山羊の姿をした妖獣は暗い部屋の中央にその姿を現した。
『ここに』
「お願いがあります。わたしの代わりに、いま病で苦しんでいるあの少女のそばにいてあげてほしいのです。ノストールの民とは関係のない人間かもしれない。守護者のもとを離れないのが守護妖獣だとわかっています……でも……」
『御意』
 カイチの返事に、アルクメーネは呆気にとられたように言葉を失った。
 無理を承知で、しかしなんとしてでも説得して命じ従わせようと覚悟を決めていたのだ。
 それが、予想していた拒否にあわないどころか、カイチは即答で受けたのだ。
「カイチ……?」
 いつもはなにかと教訓や難しい理屈を並べ、その命令が過去の王の行動と照らし合わて正しい方向であるかなど、感情のみに支配された行動を慎むように促すことが当たり前の、そのカイチの快諾とも言える返事に、アルクメーネは嬉しさよりも、やや呆然として自分の守護妖獣を見つめた。
『アルクメーネ様』
 カイチは重々しい響きのある声で主人の名を呼んだ。
『あなたはわたしにこの数年、「なぜ、主の質問に答えないのか?」と問いかけを続けて来られました』
 アルクメーネは、命じたこととは掛け離れている唐突すぎるカイチの言葉に、なにを言い出すのか見当もつかないままうなずいた。
『あなたは、忘れている記憶を教えてほしいと、わたしに問い続けて来られました』
――わたしには忘れている記憶があるはずです。カイチは知っているはずです。それを教えてください。 
 アルクメーネは問い続けてきた。
 いつの頃からか、城の中に漂う空気が変わっていた。
 国全体の雰囲気も、人々の表情も、気が付いたときにはなにかが変わっていた。
 それは、父カルザキア王が亡くなる前からだった。
 アウシュダールがアル神の御子シルク・トトゥ神だと名乗ったことによる高揚感はあっても、なにかを失っているような欠落感が付きまとった。
 そしてそれを感じる時、はるか遠くから自分を呼んでいる誰かの声を感じていた。
 ずっと心の中でうずき続けていた感情が、アルクメーネを時折、わけもなく不安にした。
 その理由を知りたくて、カイチに問い続けて来たのだ。
 だが、カイチはその質問を無視し続けてきた。反応をみせる素振りさえしなかったのだ。
 それなのに、なぜこんな時にカイチがそのことを口にするのかわからなかった。
 ただ、黙ったままその先の言葉を待つ。
『時に……答えない、ということが、そのまま答えである場合があるということです』
「答えないことが……答え?」
 カイチの言葉を繰り返したとき、それを確認したように守護妖獣は姿を消した。
「答えないことが……そのまま答え……」
 アルクメーネは、守護妖獣が意味のない悪戯な問いかけをすることなどないことを十分わかっている。
 カイチが去った後、アルクメーネは月を見上げながら、心に渦巻く疑問をすべて鮮明にしたいと願わずにはいられなかった。

「熱さましの薬草を与えておきました。が、残念ですがわたしの出来ることはここまでです。他に打つ手立てはもうありません。高熱の上、衰弱が激しく今まで持ちこたえていたのが不思議なぐらいですからな。この様子では、一晩もつかどうか……」
 イズナは自分の部屋の長椅子に体を投げ出すように座り、この地方の白水酒を大きめの細長い透明なグラスにたっぷりと注ぎながら、帰り際にそう告げた薬師の言葉を思い返していた。 
「もう一人の子供の方は、病気というより旅の疲労と睡眠不足、そして極度の空腹が原因です。食事をしてぐっすり眠れば、すぐに元気になるでしょう。それにしても、子供にしては強靭な精神力をもっておる。ふつうなら、意識を失ってもおかしくないほど、衰弱しているんですがな」
(死んでくれたほうが……面倒はないな……)
 イズナは白水酒を一滴のこらず飲み干すと、大きく息を吐く。
 あの子どもたちを見つけてからのアルクメーネの様子は、どう考えても尋常なものとはいえなかった。
 ふだんの冷静沈着な仮面を投げ捨てたような取り乱し方だった。それも、身元もわからない死にかけた子供に。
(まさか、ノストールからの密使か?)
 そう考えるとなんとなくしっくり来そうだったが、アルクメーネをこの地へ誘ったのはほかならない自分自身であり、出発先さえ直前まではっきり告げていなかったことを思い出して、イズナはその考えを打ち消した。
 密使と考えるのは、どう考えても不自然だった。しかも子供だ。
(いっそのこと、このまま死んでくれれば、いい。なにも起きなかったことに出来る)
 ふと、イズナは、緑色の髪の子どもが死んでしまったらアルクメーネは今以上に取り乱すような予感を覚えた。ひどく悲しむような気もした。
(まぁ、年老いた他国の年寄りを放っておけない王族らしからぬ部分はあるし……)
 とにかく、面倒なかかわりだけはゴメンだった。
 アルクメーネに何かある度に、イズナは何故だか目に見えない不安に陥るのだ。
 護衛、監視、友人。それ以上の感情が芽生えるのは危険なことだった。
 アルクメーネの背後には、フェリエスを危険に追い込んだあのアウシュダールがいるのだ。
(明日は強行軍で城に帰ってやる)
 アルクメーネに傾く情、そして自らの中の混乱した感情を打ち消そうとするように、イズナはグラスに白水酒を注いでは、あおるように飲み続けた。

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