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第十章《 神 の 怒 り 》

12

 エリルが目指す場所。
 エーツ・エマザー山の光の発せられたその場所に、小さな人影があった。

 エーツ山脈の壮麗な姿を目の当たりにしながらも、まったくその風景に心奪われることなく、感情の欠落した表情のまま人形のように立ち尽くす、一人の少年の姿。
――オモシロイ光ダッタ……。
 ヴァルツは、愉快そうにクククとまるで喉で笑うかのように音を発した。
 サトニは、その言葉にコクリとうなずく。
――……美シイ闇ノ輝キ……
 サトニの胸元に輝く、首から紐で結ばれている黒曜石の指輪からは妖しい輝きが発せられていた。
――オ前モ見ルガイイ……ココニハ、オ前自身ガイル。アノ光ハ、我ノ力トナリ、心ヲ満タス……。
 サトニの足元には、切り立った崖が続いていた。
「ヴァルツがいた場所だ……」
 抑揚のない乾いた声がそうつぶやいた。
 サトニはこの崖の下。深い谷底で胸元に輝く黒曜石の指輪を手にした。
 だが、それは緑が山々を覆っていた季節であり、いまは真っ白な雪景色がエーツ山脈を包み込んでいる。
「あの光が必要なの……?」
 サトニはうつろな表情でヴァルツにたずねた。
 復讐のみを生きる目的としていた少年は、ノストールのカルザキア王を自らの手で殺し目的を遂げたことで、すべての生きる力を失った。
 そして今度は、王殺害の力を自分に与えた不思議な指輪の望みを叶えるために、その身をヴァルツに与えたのだ。 
 サトニの心はすでに閉じられていた。
 ヴァルツの声に従い、動く。いまはそれだけの存在となっていた。
 だが、ヴァルツはなぜかサトニから心や体を完全に奪い操ることも、意識や感情を消し去ることもしなかった。
 時に苦しい夢を見てうなされ、おののき、時に忘れかけていた愛情を渇望し、また恐怖から逃れるようにおのれの殻に閉じこもるサトニの感情を楽しむように、ヴァルツは少年のそばに影そのものとして存在しながら、その体を支配していた。
「光ハ消エ去ッタ。ダガ、ココニイレバ、アレガ来る……」
 クククという奇妙に楽しげな笑い声が、サトニの耳元に響く。
「ココハ我ガ領土。子供ダマシノ結界ナド、ナイニ等シイ。行コウカ。ココノ闇ノ底ニハ、面白イ光景ガ広ガッテイル……」
 サトニの乾いた心に、ヴァルツの毒々しい感情が流れ込み、染み込んでいく。
 その感触は決して心地のよいもではなかった。けれど、拒むことが必要だとは思わなかった。
 傍観者のように、自分の心が汚されていくのをただサトニは見つめていた。
 けれどこの日、ヴァルツに導かれ、その光景を目にした時、サトニから感情を奪わなかったヴァルツの残忍さを呪わずにはいられなかった。
 陽の届かない深い闇の中に存在する谷底。
 決して人の訪れることもないはずの、死の谷。
 ヴァルツはサトニを導いた。
 目の前にあるものの正体を知った時。 
 気がつくと、サトニは悲鳴を上げていた。
 暗闇の中で、少年の恐怖に満ちた叫びは幾重にもこだまし、響き渡る。自分自身から発せられる絶叫が、さらなる恐怖を呼び起こしサトニは全身が震え上がり、体が崩れ落ちるのを知った。
――クククククク……
 ヴァルツは、サトニのその驚愕に心底満足を得たように笑っていた。
 倒れ込み、地にはいつくばり、全身を震えさせながら胃の中のものを吐き続ける少年に、影はやさしく話しかける。
――我コソハ、コノ地ノ主。コノ闇ガ、見聞キシテイタコトヲ、オ前ニ見セテヤロウ……。
 ヴァルツは笑っていた。
 サトニがおびえの瞳を見せるたびに。
 そのヒナのような、やわらかな心が打ち震えるたびに、ヴァルツは満足そうに笑っていた。

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