第十章《 神 の 怒 り 》
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エーツ山脈に足を踏み入れてから、五日目の朝をルナは迎えていた。
本当であれば一人で歩き続けているはずのルナの傍らには、この秘境ともいうべきエーツ山脈の難路の山越えさえ楽しんでいるらしいネイがいた。
馬という足があるおかげで、子供の足だけであれば数倍も時間がかかるはずの道も、比較的順調に進んだ。
それでも、先は長い。
山の天候は突然変わり、晴れ渡っていた空が突然雲に覆われ、豪雨が豪雪に変わることもあり、一日足止めされた日もあった。夕暮れには寝所にするための洞穴を探し、なければ穴を掘り、体を寄せ合い寒さをしのいだ。干し肉や木の実をかじり、時に小川の魚を取っては食料にした。
ネイの言うとおり、子供一人でこの山中を越えるのは無謀だったのだと、実際に山に入ってルナは改めて実感した。
「こんなに山ばっかりに囲まれてると、海が恋しくなるよ」
ネイは大きなあくびをしながら、身支度を整え、先に馬の上にいたルナの後ろにまたがった。
「雪も山の上で降ってるぶんにはいいけど、道の上にまで降り積もるのは勘弁だね」
ネイのかかとが軽く馬の腹を叩くと、馬は軽快な足どりでゆっくりと走り始めた。
背中越しに、彼女のひとり言を聞きながら、ルナは美しい山の姿に見ほれていた。
山に入ってからは一日中山ばかりを見ているのに、決して見あきるということがなかった。
「ノストールの軍もジーンと同じ年の子供を連れての行軍なんだから大変だっただろうに。全員馬に乗せてやるわけには行かないだろうからね」
何げなくつぶやいたネイの言葉に、ルナははっとした。
兄のテセウスを追うことのみに心を奪われて、そのことを忘れていたのだ。
「…………」
ルナの無言を勘違いして受け取ったネイが、あわててルナの横顔をのぞき込み、誤解をとこうと肩をポンポンとたたく。
「え、いや、あのさ、言っとくけど、ジーンのことじゃないよ。あんたと一緒にいるのはあたしの勝手で、あたしは楽しいんだから。ちっとも大変じゃないよ」
「うん……」
ルナは 上の空だった。
ネイが一緒にいることで楽しささえ感じはじめていた心が、重く沈んでいく。
「わかってる……」
ルナの言葉を最後に、ふたりはしばらく無口になった。
だがそれは決して険悪なものでも、気まずさからきたものではなかった。この旅の中で、そうした時間は増えつつあった。
ルナは山々の風景に心を奪われ、ネイもまた長い乗馬を楽しんでいるようだったからだ。
「いよいよこの一番高い山のエーツ・エマザー山の峠を越えれば、リンセンテートス側だ」
ネイとルナは、眼前にそびえるエーツ・エマザー山を見上げた。
だが、ある地点に差しかかったとき、馬が立ち止まった。
「どうしたんだい? まさか、もう疲れたのかい?」
二人を乗せて来た馬はまるで目の前に見えない壁があるように、ある地点へ来ては立ち止まり、引き返してはまた進もうとしたり、ぐるぐるとその場を言ったり来りするだけで、そこから先に進めなくなっている様子だった。
休息はとったばかりであり、疲れた様子は感じられないのにだ。
「どうしたんだい?」
ネイが様子を見るために、馬上から降りようとした時、突如として馬がいななき走りはじめた。
「ネイ!」
ルナは、バランスを崩して落ちかかるネイのからだをあわてて押さえながら、手綱を絞る。
だが、馬は山道ではなく、エーツ・エマーザに向かって、まるで何かに憑かれたように走り続けた。
あやうく落馬しかけたネイが、なんとか体勢を整え、手綱を絞っても、馬は何かが乗り移ったように走り続け止まらない。
――クククク
ルナの耳元で笑い声がした。
ゾクリと背筋に悪寒が走る。
いやな予感が襲いかかった。
ルナは唇を堅く結んだ。
それは忘れもしない声だったからだ。
父カルザキア王の守護妖獣、イルダークを死に追いやった謎の影。
(オモシロイ。モット怒レ……)
あの夜の出来事がよみがえり、ルナは狂ったように激しく走り続ける馬の背の上で、イルダークの牙を入れた袋に手をのばした。
――イルダーク……助けて!
それは、無我夢中の行為だった。
袋から牙を取り出すと、ルナはその牙の先端を思い切り馬の背に突き立てたのだ。
馬は悲鳴まじりのいななきを上げ、突然走りだした時と同じように、いきなり止まった。
「うわあっ!」
「わーっ」
突然の急停止に、馬上で揺られてたルナとネイは、対応できずに、勢いのついたまま馬の背から落ちてしまった。
「痛ったーい!」
ネイが抗議の声を上げる。
「なんなのよー、この子はぁ」
腰をさすりながら立ち上がり、馬の背をピシリと叩く。馬は申し訳ないというように、しゅんと首をうなだれた。その背には、ルナが突き刺した牙がそのままになっていた。
「これ、あんたがやったの?」
ネイが、仰向けに転がっているルナを見下ろし、馬の背から抜いた牙を手渡した。
馬は痛がったが、暴れはしなかった。不思議なことに牙の突き刺さった部分には傷跡さえない。
「ジーン……」
倒れたままのルナの顔色が、青ざめていた。
「大丈夫? どこか痛むのかい?」
「違う……。ネイ、変だよ。ここの地面……熱い……」
「え……?」
ルナに言われて、地面に手をついたネイは不思議な表情をしながら、今度は周囲を見渡した。
「ここだけ……雪が降らなかったのかな……」
ルナたちが馬に連れられて来た場所は、不思議なことに雪の降った後がどこにもなかった。
雪だけではなく、乾いた土が剥き出しになった地面が広がっており、草一本生えていないのだ。
「ネイ……早くここから出よう」
ルナは立ち上がると、ネイの腕をきつくつかんだ。
嫌な予感がルナを襲う。
――ネイが死ぬのは嫌だ。
幼い心には、いつしか死が常に自分の隣に寄り添っているもののように感じられていたのだ。
――ルナのせいで、誰かが死ぬのはいやだ。
「でも……どっちに行こうか……」
ネイの言葉どおり、二人の立つ場所から進んで来たはずの山道は見えなかった。どこをどう走って来たのかさえ、見当がつかない。
「とにかく、山を右手方向に進み続けて、夜になったら星で方角を確認するしかないな」
ネイはため息をついた。
そのとき、二人の耳に悲鳴が聞こえた。子供のような甲高い声。
「!」
ルナとネイは顔を見合わせた。
だが、その悲鳴がどこから聞こえるものなのか全く検討がつかない。
ただその声は、あまりにも恐ろしい意味をもっているようにルナには聞こえた。
全身の毛が逆立ち、得体の知れない恐怖が襲いかかって来る。
「ネイ……早く行こう!」
「でも、だれかが襲われてるんじゃ……それに、子供の声だっただろ」
ルナは、一刻も早く立ち去ることしか考えていなかった。
――ネイは死なせない……。
「ひょっとして、ノストールの軍からはぐれた子供がいるんじゃないのかい」
その言葉に、ルナの手がネイから離れた。
嫌な予感はふくらみ続ける。
山道での立ち往生、突然の馬の暴走。草さえ生えていない地面。熱い地表。そして、子供の悲鳴。
「誰かいるのかい?」
ネイは、ルナの不安を知らずに大声をあげ、声の主を探そうとしていた。
イルダークの牙が、馬を正気づかせなければ、自分たちはどこへ行ったのか。
何が起きようとしているのかはわからなかい。
ただ、ルナはここから逃げ出すことだけしか考えていなかった。
恐ろしい出来事が近づいている予感が、現実のものとならないうちに。
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