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15章 〈 20時50分 歌姫とライアン王子 〉

 世界の歌姫ケイリー・デイジーと、ミレドニア国ライアン王子が、厳重警備の中で桜道スタジオに到着した。
 その連絡を受けて、クロサキが映像編集室で作業をしているササヤマを呼びにやってきた
「ササヤマさんっ、一行が到着した」
 分厚い扉を開けて駆け込んでくるや否や、振り返ったササヤマの腕をとる。
「ケイリーがスタジオに入って開口一番、なんていったと思う? 『私のカメラマンに会わせて』だと。お待ちかねだ。すぐに来てくれ」
 しかし、ササヤマはその腕を、違う、と言いながら引き剥がすと、さらにドア一枚隔てた奥の部屋ででドラマ撮影を終えたレン、トモヤと作業をしている高校生のラグを親指を立てて示した。
「写真を撮影したカメラマンは俺じゃない。あいつだ」
「……」
 クロサキは何を言われたのかわからないという表情で、一心不乱に作業を続けているラグを見る。
「あいつ?」
 言葉の意味を理解しようと黙り込む。と、さきほど会議室で、写真を届けに来たあの生意気な少年の発した言葉が思い出された。
――ラグが撮った写真なんだから、いいんだよ。
「本当に?」
「嘘をついてどうする?」
 クロサキは頭をかきむしりながら、困惑したようにササヤマに問いかける。
「何者なんだ?」
「写真集団〈デイズ〉って知ってるか?」
「そりゃあ知ってるよ、それが?」
「あのカメラ小僧は、日本で唯一人の〈デイズ〉のメンバーだ」
「…………」
 冗談、と言おうとしてたのを見越したようなササヤマの生真面目な視線に睨まれ、口をつぐむ。
「プロだよ。正真正銘のな」
 今度は、ゴクリ唾を飲み込む。
 先ほどまでスポットライトの中で、その場の人々を魅了した美しい若者は、薄暗い映像編集室の中で大人びた横顔を見せている。
 だが、その姿は平凡な一介の高校生にしか見えない。
 どれだけの顔を持っているものなのか。もっと知りたいと、クロサキは思わずにはいられなかった。
「わかった」
 大きく深呼吸をひとつする。
 クロサキはラグの部屋に続くドアのノブを握り、ゆっくりと回した。

 ラグがクロサキに呼ばれて部屋から出ると、長い通路に人があふれていた。
 数時間前まではひと気がなかったのに、同じスタジオとは思えないほどの賑やかさだ。
 クロサキに連れられて歩いていると、途中からフェニックステレビの幹部らしき背広姿の人間やら、警備の人間などが現れる。
 気がつけば仰々しく二十人近い集団の中央に取り囲まれるようにして、ラグはいた。
(うわー、帰ろうかな)
 場違いな状況に、ちょっと気弱になる。
 考えてみたら、シャワーを浴びてスタッフTシャツを分けてもらったが、はいているものは3週間洗濯をしていない汗とホコリだらけのGパン。
 周囲のほとんどが背広姿のため、悪いことをして先生に連れ出しを受けている生徒のような気分になる。
 大会議室と、隣接している特別なゲスト用の個室が、歌姫ケイリー・デイジー御一行の控え室として用意されていると、クロサキは上司から説明を受けていた。
 クロサキと話しているのは、フェニックス・テレビの専務だった。
 初老のロマンスグレーの三つ揃えの背広をキリリと着こなしたその人物から丁寧に挨拶をされたのは確かだった。
 だが、もうすでにラグは専務の名前を思い出せない。
 次から次へと人が現れ、合流するたびに紹介と挨拶とが繰り返されたからだ。
「ラグ・ミランを連れてきました」
 レンが使っていた控え室よりも、ランクがかなり高い控え室が目の前に広がっていた。
 毛の長い絨毯。高級そうなソファー、レースのカーテンに、床にちりばめられたクッション。
 お嬢様のお部屋に通されたのかと錯覚するほど。
 ラグが面食らっていると、ソファでくつろいでいた白いドレス姿のケイリーが優雅な動作で立ち上がりラグを出迎えた。
 衣裳ではなく、まだ私服の様子にラグはチラリと腕時計を盗み見る。
 本番まで1時間だ。
「あなたがカメラマンなの?」
 ケイリーは少し戸惑った様子で現れたラグを見つめた。
 美しいブロンドとリスのような愛くるしい瞳、透けるような肌、その姿が、天使の歌声をもつ彼女自体を天使と呼ばせる説得力を持つのかもしれないとラグは思う。
「ええ、と」
 ラグが困ったように帽子をとって、胸元にあて一礼をしてどうしたものかと思案していると、窓の外を見つめていた後姿の青年が振り返り、「おや?」と言った表情を浮べた。
「…………」
 青年は、無言でつかつかと靴音を立てケイリーを追い越して、ラグの前に立つと手を差し出した。
「ラグ・ミラン、君だったのか」
「どうも……」
 ラグは苦笑いを浮べて、差し出された手を握った。
 ケイリー・デイジーと恋人の話を聞いた時も、トラブル解決の写真協力をした時も自分の名を伏せていたのは、ライアン王子は自分のことなど覚えていないだろうと思っていたのだ。
 それに、出来る限り目立つように振る舞いたくない理由がラグには常に存在している。
 目立たず、穏便に、日常生活を過ごしたい。
 好きな写真を撮って、好きな場所に出かけられる日々を大事にしたい。
 秘密が守られる場所に関してだけは要求があれば旅行がてら撮影に出向くこともあるが、今の状態にラグは充分満足していた。
 自分は人波の中に思い切り埋没していたいとさえ、思う。
(ほとんどの人は覚えていないはず……なんだけど……)
 だが意に反して、王子は嬉々とした表情でラグの名を正確に呼び、握手まで求めてきたのだ。
 日本人スタッフが後ろでざわめき出す。
 一介の高校生がカメラマンというだけでも目立つのに、王族と知り合いというのは輪をかけて目立ちすぎる。
 背後から一斉に注がれる鋭い視線の束を感じて「やば…」と天井を仰ぎ見る。
 その表情の理由を一瞬で察知したライアン王子は、自分とケイリー、ラグを残して全員部屋から出て行くようにと命令をした。
 警備の都合が……と渋るスタッフやSPたちに、「では、帰りますか?」と、なかば脅迫めいた言葉で退散させたのだ。
「ラグ、二週間前に私の国に来ていたそうじゃないか? 陛下から聞いたよ。」
 人払いを済ませるとライアン王子は、ラグの肩を軽く叩いた。
「君と偶然にも別荘で楽しい時間を過ごせたことを、旅先の私のところにまでわざわざ電話してきたほどだ。そうか、やっぱり君の写真だったのか。見た瞬間に、国の空気と風と土の匂いを思い出して帰りたくなったはずだ。名乗ってくれればよかったのに……、ああ、すまない。君が王室撮影をしていることは口外できないんだったな」
「恐れ入ります。陛下とは、たまたま歩いているところを車中から声をかけていただいて、案内までしていただきました。その時の写真は今、ちょうど映像編集をしているところです。陛下の姿が写っているの写真は工房に留めていますので安心してください」
「ああ、出来上がったら送ってくれ」
「ライアン?」
 ケイリーは状況がわからないといった表情で、恋人を見つめる。
「私から紹介するよ。彼は、ラグ・ミラン。我が国をはじめ、諸外国の王室の、主に家族写真を撮影しているカメラマンだ。若いけれど、〈デイズ〉のメンバーなのだよ。信頼できる人物であることは私が証人となろう。今日君がホテルで目にした写真はおそらくすべて彼が撮ったものだ。君が知りたいことを知っているかもしれない」
 穏やかに恋人の腰に手を回し支えるように、やさしく微笑む。
 その言葉にケイリーの顔がぱっと明るくなる。
「教えて欲しいことがあります」
 ライアンの言葉に勇気をもらったように彼女は、ラグが撮影した中の1枚の写真をカバンから取り出した。
 ササヤマに無理を言って強引に手元にとどめた一枚の写真。
 それをケイリーは、ラグに見せた。
「これはミレドニアで撮影した写真ですか?」
 ラグは首を横に振った。
「ロシアナ共和国の辺境の村で撮影しました。知りたいのは、そこに写っているご婦人のことですよね」
 ラグのその言葉に、ケイリー・デイジーの両眼から前触れもなく大粒の涙があふれ、こぼれ落ちた。
「覚えているのね? なにかお話をしたの? どんな人だったの? 教えてちょうだい」
 おもわずラグに駆け寄り、その手をとる。すがるように覗き込んでくる大きな瞳がラグ自身を映した。
 身寄りのない人々を保護している施設で、ラグは一人の年老いた女性と出会った。
 ラグの問いかけに、十年以上前に、大洪水で打ち上げられた人々の中に彼女がいたことを職員は話してくれた。
 数年もの間、身寄りを探したがまったく手がかりもなく、記憶を失ったまま彼女はここで年老いたのだ、と。
 ラグが立ち寄った時、食堂のテレビにはケイリー・デイジーが歌う映像が流れていた。
 その姿を、静かに背筋を伸ばしてみつめている表情が印象的で、つい横顔をファインダーにおさめていた。
 ケイリーが目を留めた写真。
「母なの。ずっと行方不明になっていた母だわ。間違いないわ。だって、この写真が母を映し出しているもの」
 自分の揺るがない確信をどう伝えればいいのか、もどかしそうに彼女はつかんだラグの手に力を込める。
「母の体温が、声が、言葉が、この写真を通して伝わってくるの。見た瞬間から写真を手放すことが出来なくなっていたわ。本当よ。間違いないの……」
 感情が先走り、その先の言葉が出てこなくなる。
 ライアン王子は二人に近づくと、恋人の肩にそっと手を回して、優しくささやきかけた。
「ケイリー。ラグは正確に君の思いを理解しているよ。そして、私もだ。彼の写真は見る相手に真実を伝え、映し出すのを私たち家族は知っている。君の言葉は証明されるよ」
「ライアン……?」
 わずかな疑いも持たずに自分の言葉を受け入れてくれた恋人に、ケイリーは驚きとともに安心した表情を浮べた。と、そして「本当に?」と問うように灰色の瞳でラグを見つめる。
 ラグはただその瞳にうなずき返していた。
「詳しいお話は本番が終ったらさせていただきます。もう時間がありません。歌の準備をお願いしてもいいですか? せっかくの天使の美しい瞳が充血してたら僕が怒られます」
 ラグの温かな微笑が注がれて、ケイリーは自分が穏やかな空気に包まれるのを感じた。
 不思議な安堵感が心を満たしていく。
 ケイリーはラグから手を離した。
(この人は、裏切らない……)
 どうしてそう感じたのか、わからない。
 けれど、ケイリーはいつしか親しい友人にするように、優しい瞳でラグに微笑みかけていた。
「そうね。ありがとう」
 ラグはうなずきながら、微笑を返した。
 この人の寂しげだった瞳に大輪の笑顔が咲き誇りますように、と思いをこめて。
「いい写真を流しますね」
「ええ」
 ケイリーは、しばらくしてから強くうなずくと、気持ちを切り替えるように一度目を閉じて深呼吸をする。
 再び瞳が開いたとき、その顔はプロの表情に変わっていった。
「聞いていてね。最高の歌をプレゼントするわ」
「はい」
 ラグは、ケイリーと写真をつなく糸の正体に、やさしく微笑んだ。

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