第5章 〜もうひとつの想い〜 | ||
平穏に過ぎる日々の中で、舞踏会と彼を求める女性たちとの逢瀬に流されながらも、シャルゼルトの頭の中を占めていたのは、どうやってアンネリーゼと話をすることが出来るのか、ということだった。 ココ王妃と恋人の間にあった出来事が知りたかった。 一体どのようにして王妃と出会い、宮廷で暮らし始めたのか。どのような人物で、王妃とどのようにして暮らしていたのか。 会話の一端でも、小さな出来事でも、今まで誰も知ることの出来なかったココ王妃の人柄を知るエピソードすべて知りたかった。 だが、ココ王妃へのあふれる想いとは別に、もうひとつの想いが心の一角を占めはじめたのも感じていた 碧く美しく、そして影さす清廉な瞳。 アンネリーゼのあの瞳が、心に焼きついて離れないのだ。 二十四歳と教えられても、どう贔屓目に見ようとしてもその倍の年齢にしか見えない。 顔の皮膚は弾力をすっかり失い、小じわも目立ち、シャルゼルトの母親と同じ世代、いやそれ以上の世代を匂わせずにはいられなかった。 貴族の婦人たちのように化粧で飾っていないせいもあるが、顔立ちもお世辞にも美しいとは形容しがたい。 祖母世代の女性さえも持っている、女を感じさせる色気がないのだ。 まさに古木。古樹と形容したくなる。 それでも、思い出すのはあの鮮烈な碧い双眸。美しく穢れのない強い光。 当初の目的だったアンネリーゼの父親のことも、何度も家を訪ねては拒否されるうちに、本当はアンネリーゼの瞳を見たいと望んでいる自分を偽る口実になりつつあるのではと思うほどだった。 これまでは、たとえ百万人の女性から愛されても、シャルゼルトはそれが自分に与えられる当然の特権であり、なんら不思議に思うことはなかった。 それが、たった一人に相手にされないことが、自分に与える影響の大きさに困惑していた。 相手は女神でもなければ、絶世の美女でもない。 仕立屋の仕事をしている、平凡などこにでもいるだろう庶民の女。 しかも見た目は熟女とは到底いいがたい古木であり、色気さえ感じられない。 それなのに、あの青く鋭い瞳が心に焼きつき、会うことのない日々が苦痛を伴う悩みになっていた。 舞踏会に出ても、取り巻きの令嬢たちと過ごしていても、かつてのように幸せでも、楽しくもない。 大好きな神学を学んでいても、自然にため息をついてしまうほどだった。 「古樹の乙女ティナか・・・」 気を紛らわすようにシャルゼルトが取り組んだのは、王妃ココに関する資料と、太古の神々の物語を読み返すことだった。 王妃ココは、先々代の王を曽祖父にもつ王家の血筋の流れを組むデュマ一族の末娘として誕生し、当時一大権力を掌握していた祖父デュゼルの愛情を一心に受けて成長した。 その証に、デュゼル・デュマは、ココが誕生するとすぐに、当時の王オルムートの十八歳の息子オルトとココを婚約させてしまう。 当時、皇太子候補にはオルムート王の弟バーデントと、息子のオルトの二人の名前が上がっており、それを決めるのは名実共にゴラ国の影の支配者と言われたデュゼルだった。 オルムート王は、デュゼルの力で王位を得た傀儡王だったため、彼の言葉に逆らうことは出来ない立場にあったのだ。 デュゼルは、王の血筋を孫の代に、デュマ家に取り戻すために、ありとあらゆる方策を練り続けた。 ようやく、オルト皇太子に嫁いだ十四歳のココだったが、人前に姿を現すこともなく、オルトの愛人や取り巻きたちから「みにくい妃」と噂をたてられ、心を病んでしまう。 オルト皇太子はココと結婚した当時は三十二歳。 すでに妃のように振舞う何人もの公認の愛人たちがオルトのそばにはいた。 オルトもまたそれを許したのだから、幼い皇太子妃は居場所を失っても当然といえた。 しかも、後ろ盾だった祖父デュゼルは突然急死してしまい、デュマ家は徐々に勢力を失い権力の座から遠ざかっていくことになる。 奇妙なのは、ココが亡くなる数週間前の記述に、何故か、王妃の葬儀が行なわれる予定が書き込まれ、取り消されていることだった。 その証拠に、葬儀のためにアンナの一族を呼び寄せる親書が書かれたこと、葬儀のための準備に支払われた金貨の額が別の帳簿にも記載されて、その後塗りつぶされた記録があるのだ。 シャルゼルトは、いつもこの部分が気になっていた。 「王妃は、一度死んで、息を吹き返したのか?」 王妃の葬儀ともなると当然国葬となり準備には時間がかかる。 なのに、死因に関する記述はどこを調べても存在しない。 葬儀が決定し、すべての準備が滞りなく進んでいたのに、突然中止された。 さらに不思議なのは、あれほど蚊帳の外に置かれていた名前だけの王妃は、この葬儀の記録を境に、大勢の人々の関心の的になっていく。 ココ王妃に面会を求める名簿には一日に何百人もの名前が綴られた。 そして数週間後、国王主催の舞踏会に王妃が姿を現した翌日、ココは亡くなる。 今度は病名が記載されていた。 二十四歳の短い人生が幕を下ろしたのだ。 王妃の恋人が存在したならば、その登場は間違いなく一度は準備された葬儀の後だと、シャルゼルトは考えた。 おびただしいまでの、王妃ココに面会を求める数。 綴られている名前はほとんどが女性の名ばかり。 その中には、彼女をおとしめてきたはずの王の愛人たちの名前も列挙されている。 目的はおそらく、彼女のそばにいた美しい恋人に会うため。そう考えれば説明もつく。 では実在した恋人は何者なのか。 調べれば調べるほど、謎は増えていった。 どんな人物だったのか。 ココ王妃と、どのように知り合い、真実どのような関係だったのか。 最初のココの死因はなんだったのか。 あの取り消された葬儀に関する真相を知りたかった。 玄関前で追い払われることが、かなり不本意ではあったものの、若干馴れてきつつあったこの日、「神学所」の帰りに数日ぶりにシャルゼルトはアンネリーゼの家を訪ねることにした。 時間はすでに夕刻に差し掛かっていた。 シャルゼルトは、御者に命じて馬車をいつもよりも少し遠くの目立たない場所に止めさせて、従者とともに裏路地に入った。 いつも使う道は、昨夜の雨ですっかり水浸しになり、大きな水溜りがあちこちに出来ていて不便だったからだ。 水溜りを避けながら足元のよい道を探して迂回をしているうちに、ひどく遠回りになってしまい、気がつくと陽は暮れて、すっかり暗くなってしまっていた。 家々の窓からこぼれる薄明かりと、従者が足元を照らしてくれる手提げランプの頼りない灯火が頼りだった。 あとで振り返ると、なぜか後日出直そうという考えは思い浮かばなった。 もうすぐアンネリーゼの家までという場所まで来た時、シャルゼルトの数歩先に、突然マント姿に大きなつばのある帽子をかぶった後ろ姿の人物が出現した。 「!」 シャルゼルトは心臓が止まるかと思うほど驚いて立ち尽くした。 さきほどまで人気のなかった路地だ。 屋根か、空から飛び降りてきたとしか思えない。 それほどに唐突だった。 息を呑み、従者と無言で立ちつくしたシャルゼルトは、そのマント姿の人物が、自分がまさに向かっているアンネリーゼの家の方向へ走り去るのをぼう然と見つめていた。 ――怪盗・メイハーナ。 なぜかその名が浮かんだ。 嫌な予感に、アンネリーゼの家の前向かう足が自然と早くなる。 玄関の前に立ち、扉を叩こうとしたその手が動きを止める。 なぜだかわからないが奇妙な思いに駆られた。 (メイハーナと、アンネリーゼと関係があるのか?) 細い路地だが家は数件立ち並んでいる。近辺で消えただけで、通り過ぎただけかもしれない。 けれど、説明のつかない衝動にも似た思いがシャルゼルトの心を動かす。 ノックをする。 「誰?」 背後から声をかけられて、シャルゼルトがぎょっとして振り返る。 大きな荷物をひとまとめにして胸の前で抱えているアンネリーゼがいた。 「アンネリーゼ」 暗闇に立つ彼女に、シャルゼルトはキョトンとする。 「あなた……」 あきらかに声に不快感が込められている。 「私だ。シャルゼだ。こんなに遅くまで出かけていたのかい?」 少しほっとして、シャルゼルトは長い前髪のせいで表情の見えないアンネリーゼに向って穏やかに返事をした。 「何度ももう来ないでと言ったでしょう。探しているのは別人。人違いだし、話すことなんてありません」 シャルゼルトと従者の前を通り過ぎて、アンネリーゼは扉の前に立つと、荷物を抱きかかえたまま鍵をロングスカートのポケットから取り出して玄関扉の鍵穴に鍵を差込み、開錠をする。 「二度と来ないでと、何度言っているでしょう」 そう言い捨てると、扉を開いて家の中に入り、そのまま扉を閉めようとした。 シャルゼルトは、咄嗟にその扉に手をかけて、取っ手をもつアンネリーゼの手を解き、体を家の中に滑り込ませませる。 「なんのつもり?」 「メイハーナだ」 たった今見たばかりの怪盗と思しき人物がまだ近くにいるかもしれない。 シャルゼルトは、そう説明をしようとした。 「違うわ」 「え?」 しかし、返ってきたのは思わぬ反応だった。 「メイハーナなんて知らないわ。関係ない」 「…………」 シャルゼルトは表にいる従者に声をかけて、ドア越しにランプを受け取る。 アンネリーゼが止める間もなく、部屋の中に入って行くと、作業場となっている部屋の端にある木のテーブルの上に静かに置き、彼女に向き直った。 「手に持っている荷物を確認させて欲しい」 頬がこわばったように見えた。 「これは仕立ての生地よ。あなたに見せる必要はないわ。それより、勝手に家にまで入ってきて何のつもり? 出て行って」 「さっき、マントに身を包んだメイハーナが、僕の目と鼻の先にあらわれた」 これは賭けだった。 アンネリーゼがはじめて見せる動揺した様子に、ひょっとしたら彼女がメイハーナを知っているのではないのかと直感したのだ。 もしその推測が間違っていたとしても、近くに怪盗が現れたのは事実である以上、注意を促せるし、これをきっかけに上手くいけば少しは心を開いてくれるかもしれない、と。 様々な思いがシャルゼルトの頭の中を駆け巡る。 この機会を逃せば二度と彼女には近づけなくなるかもしれない。 彼女は、手にした荷物を抱きしめたまま、立ち尽くしている。 「でも」 シャルゼルトは、美しく微笑んだ。 「メイハーナの正体自体は、僕には関係ない。しょせんは他国の人間だから」 「え……?」 「祖国に帰ったら、そうだな美人の乙女が義賊をかくまっていたという物語を書くきっかけにはなるかな」 脈絡のない言葉に、アンネリーゼの戸惑いが伝わってきてシャルゼルトはこの好機を逃してなるものかと自分に言い聞かせる。 「僕はナイアデスの人間だからね。メイハーナが誰なのかという話には興味はない。仮に、万が一、君が盗賊団メイハーナだったとしても、メイハーナをのをかくまっていても、どうでもいいことなんだ。僕のものが盗まれたわけじゃないからね」 「何を言っているの?」 「通報の義務は負っていないし、宝石泥棒団に興味もない」 アンネリーゼの口元がわずかに開き、緊張がゆるむのを感じる。 「だから」 シャルゼルトは願いを込めて最後のチャンスに賭ける。 「僕と話しをする機会を与えてほしい」 「え?」 「いや、その、僕が興味を持っていることを知るために協力してほしいんだ。最初からその為に君を訪ねた」 アンネリーゼは、唇を固く結ぶ。 「君の父親の話を聞かせてほしい。君の言うとおり人違いかもしれない。それでもいい。アンネリーゼ、君の父親の話しを聞かせてほしい。君が知っている、君にしか出来ない父親の話でいいんだ」 「それは脅迫?」 別の警戒感が、アンネリーゼの顔に浮かぶのをシャルゼルトは見逃さなかった。 父親の話しをするのに、普通はこれほどまでに警戒をしない。 シャルゼルトは自分の左手を胸に置いた。 「肖像画のココ王妃が僕の初恋の人だ」 まるで目の前のアンネリーゼに告白するようにそう言葉にすると、シャルゼルトの鼓動は自然に早まり、吐息がこぼれた。 「幼い頃に初めて出会ってから、今日まで彼女のことを知りたくて、あらゆる資料を読み、彼女と出会った人物がいると聞けば直接会いに行った。どの国の誰よりも、僕は彼女のことを知っている。そう自負していた」 語る言葉が熱を帯び、あふれる想いが声となってアンネリーゼに注がれる。 「ところが最近になって、ココ王妃の幻の恋人が実在の人物だと知った。それまで恋人の話は、短く幸薄い人生だった王妃を哀れんで作り上げられた架空の物語だとばかり思っていた。美の神と見まごうほどの容姿を持ち、名前も、身分も、すべてが謎の人物。しかし、実在した人物だと知ってからは彼を知りたくなった。ココ王妃を間近で見守った人物。知りたくて、知りたくて、探し続けた、そして、君にたどり着いた。どうか教えて欲しい。知っている限りの、彼のこと。いや、君の父親のことを。人違いであったとしても構わない。このままでは苦しくて、ずっと君にまとわり着いてしまいそうだ」 アンネリーゼの表情が徐々に驚きから和らいだものに変化していく。。 シャルゼルトはそんなアンネリーゼに対して、無意識のうちに彼女の腰に手を伸ばしかけている自分に気がつき、あわててその手を止めた。 いつも女性を口説く時に手が自然に相手の腰回り、抱きしめるので、その癖が出そうになったのだ。 「人違いかもしれないのに」 アンネリーゼが、長い前髪をかき上げる。と、薄明かりの中、美しい瞳が冷ややかに彼に向けられた。 シャルゼルトの心の奥深くのひどく乾いた部分が大海に飲み込まれるように潤され、満たされていく。 何故かわからないが、ようやく目の前でその瞳に再会でき、見つめられてシャルゼルトはほっとして微笑んだ 「それでもいい。違ってもいい。話が聞ければ」 アンネリーゼはシャルゼルトとは反対に疲れたようにため息を吐く。 「考えておくからとにかく今日は帰って。疲れているの」 「わかった」 シャルゼルトは、木のテーブルに置いたランプを持ち上げ、室内にある別のランプに火を移すと、玄関まで歩き、外で待っていた従者にそのランプを手渡す。 しかし、彼は室内に残ったまま、扉を閉めてしまった。 アンネリーゼは帰るとばかり思っていたシャルゼルトが戻ってきたことに動揺している様子だった。 シャルゼルトはあっけらかんとした口調で、明るく笑う。 「やっぱり帰るのはやめた」 「どういうこと?」 「ここで君の返事を待つことに決めた」 「あなた……自分が何を言っているのかわかってるの?」 「明日、僕が来たら君はいなくなっている可能性もある」 「…………」 「否定しないんだね」 違うと答えないアンネリーゼの瞳にシャルゼルトは穏やかに余裕のある表情を向ける。 ここはひとつ年下の余裕と情熱で勝負をかけるしかないと感じたのだ。 「君が消えてもきっと僕は追いかける。どれだけ時間を費やしてでも必死で君を探し続ける。きっと、今ここで帰ってしまった今日の自分を呪いながら、後悔しながら、罵倒しながら。そんな無駄な時間は使いたくない。話を聞くまでは、君から離れない」 シャルゼルトはまるで愛を告白するようにアンネリーゼに歩み寄る。 「なら、話すのを断るわ」 「話してくれるまで、付きまとうだけだ。それに……」 アンネリーゼの顔が困惑に曇る。 その顔を見て、シャルゼルトは思わず少しだけ苦笑いをこぼす。 「何?」 「この僕にこれだけ見つめられて、顔を赤らめない女性は珍しいからね」 今の状況にふさわしくない感想と、思わず漏れた本音に、アンネリーゼは呆れたように小さく笑った。 唐突に、その碧い瞳を、彼女の海のように深く美しい瞳を手に入れたいという衝動がシャルゼルトの心の深い部分から湧き上がった。 同時に、手に入らない輝きがこそが美しいと知った、幼い日の感情と重なっていく。 恋のような発作的で情熱的なものではなく。愛のような狂おしいほどに包み込みたくなる甘さでもなかった。 王妃ココを知りたいという思い以上のものが、自分をを支配し動かす衝動に戸惑う。 「君も、いつまでも不愉快な男に付きまとわれたくないだろう? それとも、付きまとわれたくてわざと拒否しているとか?」 できる限りのやさしい声で愛を囁くようにそう問いかける」 「わかった。話すから座って」 ほとばしるシャルゼルトの感情を止めるように、アンネリーゼの感情を消した声が長い沈黙のあとそう告げた。 そして、手にした荷物を棚に置き、ランプを置いていた木のテーブルの椅子に座るように言うと、アンネリーゼ自身は横を向くように機織の前にある椅子にゆっくりと腰をおろした。 |
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