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第十二章《 嵐の終息 》

 二年前――。
 ハリア国の隣国であるラシル王の側妃として嫁いだその夜から、シーラの運命は思いもかけない方向へと転じた。
 初夜の寝室に現れたのは、なぜか夫であるラシル王ではなく、ナイアデス皇国のフェリエス皇帝だったのだ。
『あなたは、このナイアデスの皇帝フェリエスの后となるのです』
 当然のことのように告げられても、シーラはおびえるだけでどうすることもできなかった。
 フェリエスの側近であるというオルロー将軍から、皇帝が十八歳で皇帝の座に就き、既に八年の月日を経たこと。まだ正妃を娶ってはいないこと。ハリア国の王女であれば皇后として不足はないこと、等々、説明は受けた。
 しかし、それがハリア、リンセンテートス両国の同意のもとで決められた取り決めなのかをたずねても、それに対する回答はなかった。
(そういえば……)
 時間が経過するに従い、冷静さを取り戻したシーラはあることに気がついた。
 いや、もっと早く気づくべきだったのだ。
 王室の婚礼――という、神々に祝福されるべきその場に、アンナの一族が一人もいなかったことを。
 大国であれば、宮廷魔道士や占術士が結婚の儀の宣誓の儀式を行う。それ以外のリンセンテートスのような中国、小国では、アンナの一族が司祭士をつとめるべき人物として立ち会うはずなのだ。
(いなかったわ……立ち会うべき司祭士が……どこにも) 
 自分一人だけが何も知らされぬままの出来事なのか、リンセンテートスとナイアデス皇国との謀なのか、それともフェリエスの独断での行動なのかシーラは何ひとつ知ることができない。
 シーラの必死の問いかけに誰もが口を閉ざした。そしてそのまま、シーラは別の住まいへと身を移された。
 数日後、遂にフェリエスがナイアデス皇国への帰路につく日が訪れた。
 結婚式の後、一度もラシル王と対面することのないまま、祖国ハリア女王である妹のミレーゼに連絡もとれないまま、シーラとアインは砂嵐の中、連れ去られるようにしてフェリエスと同じ馬車に乗せられた。
 リンセンテートスが、シーラを完全に無視しているのは明確だった。
 あの寝室に一歩入った時から、リンセンテートスの者は姿を消した。
 シーラを助けにくる者はだれもいない。
 居城となる場所から連れ去られる時も、また強引とも言うような方法で馬車に押し込まれた時も。
 シーラが絶望のふちに立たされたとき、ミゼア砂漠で、ナイアデスの一行は突然何者かの襲撃を受けたのだ。
 馬車の外で何が起きているのか、砂嵐の吹き荒れる音と馬のいななきにかき消され、まったく知ることができなかった。
 時折、剣の激しくぶつかり合う音が聞こえてくるだけだった。
 シーラは、ハリア国からシーラの話し相手として付き従って来たアインと二人、震えながら身を寄せ合っていた。
 そこに突然、襲撃者が馬車に乗り込んで来たのだ。
 怯える二人を守るようにして、襲撃者と剣を交えながら馬車の外に飛び出していったフェリエス。
 馬車は走り出した。襲撃者たちから逃れるように、馬車は砂漠の中を走り続けた。
 どれほどの時間が過ぎたのか、気がつくとシーラはアインと抱き合ったまま眠ってしまっていた。
 馬車はまだ休むことなく走り続けていた。
 叫び声も、喧噪もない。砂を蹴る蹄と車輪の独特の音がどこまでも続く。
 襲撃者の手から逃れたことはわかったが、今度は別の不安が首をもたげ始めた。
 布でふさがれている扉の小窓を覗いてみても、見えるのは果てしなく続く砂漠の風景だった。
 馬車と騎兵で大勢いた隊列はどこにも見当たらない。
 シーラの乗った馬車だけが、砂漠を走っているのだ。
(どうして? 他の人達は……)
 シーラの心に、別の恐怖心が芽生えかけた。
 何度も御者に声をかけるが、声が届かないのか振り返りもしない。
 やがて陽が傾きかけた頃、馬車はゆっくりと車輪を止めた。
「シーラ様……ここは?」
 肩にもたれたまま眠っていたアインが目を覚ました。
 アインは、シーラの体が緊張でこわばっているのをすぐに感じ取ったのか、その視線の先を追う。
 ふたりの瞳の見つめるなかで、馬車の扉が開き、明るい光が差し込んだ。
「ここは……?」
 アインにそう問いかられ、シーラは厳しい顔をして首を横に振った。
 馬車の外には、御者らしき人影が頭を低くしたまま立っていた。
「無礼を承知の上で、長旅にお付き合いいただきました」
 帽子をとった長身の男の顔を見た瞬間、シーラの心臓は凍りつきそうになった。
 だがアインの反応は、別の意味でシーラを驚かせた。
「ガーゼフ!」
 アインは顔をパッと輝かせると、馬車から飛び降りた。
「助けに来て下さったのね?」
 長旅の疲れも吹き飛んだように、ガーゼフに歩み寄る。
 ガーゼフはそのアインに一礼をすると、シーラが馬車から降りるための介添えをするために、黒い手袋をしたままの手を差し伸べた。
「メイヴ妃殿下より、お二人をフェリエス皇帝の手よりお守りするように、との密命を受けて参りました」
「メイヴ妃が……」
 信られない言葉に、シーラは次の言葉を失った。
 そして一瞬、躊躇しながらも、一歩前に踏み出し、体を硬くしながらその手に支えられれて、シーラは馬車から降り立った。
 シーラに向き合ったガーゼフは一歩下がり、再び深々と頭を垂れ臣下の礼をとると、自分のとったこれまでの経緯を説明しはじめた。
「婚礼前の暴漢たちによる襲撃はもとより、ラシル王の非礼な態度にミレーゼ陛下は大変にご立腹されております。その上、リンセンテートスのラシル王は、わがハリアに一言もないままに、姫様をナイアデス皇国のフェリエス皇帝に差し出すという暴挙に及びました。メイヴ妃は、このままお二方をナイアデスへ連れ去られるのを看過するわけにはいかないと、密命として私に、お二人をお救いするよう命じられました。ただし、ハリア国がシーラ様を奪い返したと知られれば、友好の為の婚礼が争いと変じます。ですからこれはあくまでも私個人が行なったこと。ミレーゼ陛下にもお知らせしないこととなるとのことです」
 母国からの突然の救出劇に安堵しつつも、戸惑いながらシーラは、目の前の男の藍色の瞳をじっと見上げる。
――ガーゼフ伯爵。
 ミレーゼとエリルの母、ミディール妃と深い仲にあった男。
 ミディール妃の三番目の子供、グリトニル王子は、ガーゼフとの間にできた子ではないかと宮中では囁かれている。
 そのガーゼフは、ミディール妃の陰謀が露見する直前に突然行方をくらませた。
 そんな男が、一体どうしてメイヴ妃から密命を得て、自分を救いに現れたのか混乱してしまっていた。
 この状況をどう受け取ればいいのか、まったく理解ができなかった。
 だが、シーラの戸惑う表情を見て、二人の様子を見ていたアインがそっとその手をとる。
「心配なさらないで、シーラ様。ガーゼフ伯爵は、メイヴ妃の母国、ナクロ公国がまだあったときからの臣下です。信じても大丈夫ですわ。私もよく存じておりますもの」
 アインのガーゼフをかばうような言葉も、シーラの不安を静める効果はなかった。
(信用してはいけない男……)
 ハリアの王宮にいるときから、シーラはできるだけガーゼフと関わらないようにしてきた。
 ミディール妃とのおよそ穏やかでない噂話の主であることはもちろん、ミレーゼやエリルにとっては仇敵ともいえる存在だったからだ。
 だが、いまの自分のおかれている立場を振り返って見るとき、シーラはあまりに無力だった。
 ガーゼフが譬えどのような男であったとしても、ハリア国の廷臣であり、しかもメイヴ妃の意向でシーラたちを救いに現れたというならば、今はその言葉を信じてみるほかはなかった。
(ミレーゼ……エリル……)
 シーラは心の中で、半分だけ血のつながった妹と弟を思い浮かべながら、出来る限り毅然とした態度で、ガーゼフに問いかけた。
「私は、これからどうなるのですか?」
「本来であれば、出来る限り早くハリアにお帰りいただくのが、最善のところではありますが、たとえどのような事情があったとしても表面上はシーラ姫は、ラシル王の側妃。勝手にリンセンテートスを出るわけにはまいりません。メイヴ妃殿下は今回の件をを内密にラシル王に問いただされる意向です。それまでは、ハリアの国境近くのこのベーリント城に身を隠していただくつもりです」
 ガーゼフに言われて、シーラは初めて今いる場所が古い城の前だということに気がついた。
 狩場用につくられた貴族の館のように、こじんまりとした造りの建物だったために、城だとは思わなかったのだ。
 そんなシーラの様子に、ガーゼフは片手を上げて城を示す。
「この城は、はるか遠い昔、忘れられし太古の神々が、新しい神々に祝福を与えるために集ったという伝承が残っている城です。ハリアとリンセンテートス、そしてセルグという三つの国の境に位置するミゼア山嶺のふもとに建てられた城。それぞれの国がミゼア山嶺を居軸に戦さを行うことが絶えて久しいのは、このベーリント城に住む太古の神々の眠りを覚ますことを恐れるためともいわれています」
 端正な顔立ちに浮かぶ微笑からは程遠い、瞳の奥の無表情な光が、その伝承を素直に信じている訳ではないようにシーラには思えた。
「リンセンテートスの城なのでは?」
「すでに遥か昔に人々は去り、ここに城があることさえ知っているものはおりません」
 シーラは、古城に視線を向けるガーゼフの背中を怪訝そうに見ていた。
「ご安心を」
 まるでその表情を見ているかのように、ガーゼフはゆっくと振り返りシーラを見る。
「シーラ様をいつでもご案内できるように、城の中は狭くはありますが心地好く過ごされるよう修繕し、整えました。警護の兵、執事、侍女たちもおります」
「他国でそのようなこと」
「亡国ナクロ国の血筋の姫、と信じております」
 シーラは顔をこわばらせる。
「ここにいる者たちは、ハリアに滅ぼされ、リンセンテートスに落ち延びたナクロ国に縁ありし者。メイヴ妃と私が信頼をしている者たちばかりです。が、シーラ様がハリア国のお方だとわかればお命の保証はございません。絶対に、口外なされませんように」
「…………」
 シーラの震える琥珀色の瞳を、穏やかな瞳で受け止めるかのようにガーゼフは魅惑的に微笑んだ。
「私はシーラ様のお味方です。祖国に戻られる日までご不自由とは存じますが、しばしのご辛抱です。許可が出るまで、この城にご滞在いただけますようお願い申し上げます」
「いつまでなの?」
 シーラは、再びベーリント城を見つめた。
 ハリアの王女として生まれ、リンセンテートスの側妃として生きるのだと信じていた自分の運命が、途切れてしまった気がした。
 今は助けられたが、相手は警戒をするべき男であり、古城の中にいるのはガーゼフの息のかかったものたちばかり。
 シーラの本当の味方は誰もいない。
 寂しく惨めな自分の状況が、この人々から忘れ去られた古城と重なり、気がつくと一筋の涙が頬を伝わっていた。
「私は、すぐにメイヴ妃にシーラ様を保護出来ましたことをご報告にあがります。内密に動きますので、すぐには難しいでしょうが、そうお時間はかからないと思います。おそらく半年ほどで状況は動き出すでしょう」
 ガーゼフは、感情の読めない表情でゆっくりと一礼をした。

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