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第十一章《 邂  逅 》

 気がつくと、ルナはそこに存在していた。
(あれ……?)
 何度も、何度も目を瞬かせながら周りを見回す。
 ルナはいつの間にか、同じ年の頃の少年たちに囲まれて雪の中を歩いていた。
(夢……?)
 最初に浮かんだのはそんな疑問だった。
「もう少しだからな。みんな頑張るんだぞ!」
 前方から、大人の声が励ますように呼びかける。
(ここは……?) 
 ルナは自分がなぜ、ここでこうして歩き続けているのかまったく思い出せなかった。
 夢というには、現実感が強すぎて、納得させることが出来ない何かがあった。
 吸う息は冷たく、身を切るような空気が顔にぶつかり痛みさえ感じる。
 だが、一方で別の意識が、それを当然のこととして受け止めているのを感じる。
――山を越えるんだ。歩かなきゃ……歩かなきゃ……。 
 心の中で、そう自分に言い聞かせるもう一人の自分を感じたとき、ルナは突然、自分が今まさにエーツ山脈を越えようとしているノストールの特別軍の一員として歩いているのだということに気づいた。
 だが、何が起きたのかは思い出せない。
 自分をここに存在させている力の存在があることを、ルナは心のどこかで感じていた。だが、そのことすら吹き飛んでしまう思いがわきあがる。 
(テセウス兄上と一緒に、リンセンテートスに行く友軍だ……)
 今、この軍の先頭にいるだろうテセウスがいると思うと、ルナはこみ上げる思いで、ほかのことは考えられなくなりはじめていた。
 低く垂れ込めた灰色の雲と、雪景色に染まった銀嶺の山々に囲まれ、膝近くまで降り積もった雪の中を、白い息を吐きながら少年たちは黙々と歩き続けた。
(兄上がいる……)
 心は今すぐにでも隊列から飛び出して、テセウスを探し会いたいと突き動かされた。だが、その一方でぼんやりとした意識が全身を支配し、体はただ前へ前へと歩き続ける。
 ルナは体が思うようにならないもどかしさに異常を感じはじめた。
 身体はルナの心など無視するように、隊列を乱すことなく歩き続ける。
 疲れさえみせない一糸乱れぬ、規則正しい行進。
 だが、歩き続ける疲れを見せない足取りとは裏腹に、疲労は蓄積し、雪の中を長時間歩き続けた足は重く、鉛のようになっていた。
 濡れた靴の中の足はすでに冷たく、指の感覚はすでにない。
 足に訪れるのは絶え間なく訪れる痛みと麻痺。
 顔も手も全身が冷えきっていた。
 息があがり、冷たい空気を吸い込むたびに、胸は悲鳴を上げ、苦痛でその場にうずくまってしまいたくなる。
 それはルナだけではないはずだった。
 なのに、誰ひとりとして立ち止まる者も、倒れる者も、泣き出すものさえいない。
(変だ……)
 ルナの脳裏に危険信号が点滅していた。
(こんなの、変だ……)
 やがて低く垂れ込めた雪雲から、白いものが舞い降りてきはじめた。
 それは風とともに増えはじめ、気がつくと周りが見えないほどの吹雪へと姿を変えた。
「もう少しで、今夜休息をとる洞穴だ! 前を見失うな! 声をあげろ!」
 突然、凜とした張りのある少年の声が響き渡った。
(……?)
 ルナは声の主を探した。
 だがその姿は、吹きつける雪に阻まれてどこにいるのか、どこから呼びかけているのかわからない。
 なのに、声だけはどこにいるだれよりも近く、鮮明に聞こえるのだ。
 その時、ルナは自分の体に不思議な異変が生じたことに気がついた。
 声が聞こえたと同時に、全身を包んでいた苦痛と疲労感が一瞬にして消え去ったのだ。
 まるで今までの疲労が嘘だったように苦痛は取り払われ、体温が上昇し、全身に活力がみなぎっていく。
 期せずして、少年たちの間から歓声がわいた。
――これを、待ってたんだ。
 ルナのもう一方の意識が、思い出したようにつぶやくと、それに連動するようにルナも思い出す。
 そう、これまでもこうして苛酷な険路を乗り切って来たのだ。
――アウシュダール殿下の不思議な力が、ずっと守ってくれる。
 自らの別の心の声に、ルナは震え不安を覚えた。
 アウシュダールの与える力が、この隊列に満ちあふれていた。
 恐怖感も感じず、隊列を乱すことさえなく少年兵たちが、何度も死地をかいくぐって来たのはすべて、この力があればこそなのだ。
 ルナはそれを知り、感じながらますます不安を募らせた。
 あの声が子供たちを、兵士らを励ますたびに、ノストール軍は生気を取り戻し活気づき、すべてを乗り越える力を得ていたのだ。
 山越えがはじまって以来、少年兵は誰一人として荒れ狂う吹雪に怖じけづくことなく、脱落者さえ出さず、果敢にここまできた。
 長い夜も、少年たちの間では王子の不思議な力や、その勇姿を間近で見た者たちの話でもちきりだった。
 親元を離れた寂しさなど微塵も感じることのない、興奮と楽しい日々が過ぎるだけ。
 だから、いま吹雪は目の前にいる少年たちは互いの姿をかき消すほど苛酷な状況のなかに身を置いていても、だれも歩みを止める者はいない。
 ルナは自分にどれほどの身体の自由がきくのか試すように、首に巻き付けた緑色の厚い布でできたマフラーを鼻の上まで引き上げ、同じ色の帽子を目深に被った。
 針のような雪が、露呈した顔に突き刺さるのもこれで多少は防げる。
 全身はすでに真っ白く雪に染まり、衣服に降り積もる。
 一面の白い世界。視界はないに等しい。
 前を歩く少年の足元だけを追って行くのだけが、精一杯だった。
 ふと見上げると、周囲は徐々に暗闇へと変じていった。
 日が暮れたのかもしれない。
 吹雪はさらに強まり、白銀の世界をただ黙々と歩き続けるルナの意識もぼんやりとしはじめていた。
 どこかで何かを考えることを放棄しようとしている心があった。
 考えること自体が面倒になる。
 その中で、ルナはいくつもよぎっていく疑問に心を集中しようとした。
(どうして、誰も歩くのをやめないんだろう……。どうして、ぼくは兄上を探しにいかないんだろう……なんだか……心が、消えちゃいそうなのに……)
 人形のように歩き続ける少年たちの中で、ルナは一人、雪を降らせる暗闇の空に垂れ込める灰色の空を見上げた。
 あの励ましを送るアウシュダール王子の声を聞いてからは、雪の中を歩いていることに心地良ささえ感じていた。
(本当に……なんだか夢の中にいるみたいだ…………)
 ルナが、ほほ笑みさえ浮かべてそう思ったとき、突然目の前を歩く少年の体が消えた。
(え……?)
 ルナは驚いて顔を上げた。
 しかし、次の瞬間ルナの体もその場からかき消えたのだ。
(な……に……?)
 歩いていたはずの地面が消えていた。
 体は反り返り、両手は投げ出されていた。その手の向こうに細長い白いものが見えた。
(空……?!)
 支えになるものが何ひとつない中、体の自由が効かないルナは闇の中にいた。
(どうして……?)
 自分の身に何が起きたのか、夢見心地のぼんやりとした思考と、視界がきかない漆黒の闇の中では、何が起きたのかさえわからなかった。
 だが、呼吸ができないほど体に加えられる圧迫感と耳元で叫び続ける轟音が、突然ルナの意識を鮮明にした。
 過去の記憶がいきなり蘇ってきたのだ。
 五歳のとき、メイベルに追い込まれ崖の上から飛び降りたときの感覚――五感に刻みつけられた恐怖の記憶が、「落下」を知らせた。
 その先には、ただ死が待っていることを。

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