〈ショート・ストーリー〉
「三〇七番、目覚めました」
白衣をまとった低い男の声が、白い部屋の中で響いた。
消毒液の匂いが染みこんでしまっている殺風景な部屋の中央には、まるで広い体育館の中央に跳び箱がぽつんとあるように、細長い半円柱型の透明ケースがひとつだけ置かれていた。
透明のケースは、いわゆる冷凍睡眠装置と呼ばれる旧時代の代物だった。だが、改良につぐ改良が施されれおり、何世代を経た現在も見ようによっては新型にさえ見える。
その旧時代の装置の中には、十五、六歳の一人の少年が横たわっていた。
いましがた覚醒状態に入った少年はその声に応えるように、ケースの中でゆっくりと琥珀色の瞳を開くと、すこし眩しそうな表情を浮かべた。
そして何度か瞬きをしたあと、しばらく微動だにせず、天井の照明装置を見つめていた。やがて、長いため息を吐き出すと、ようやくその視線を自分を先程から見下ろしている二つの顔に移動した。
「何年たったんですか?」
やわらかな声が、静かに問を発した。
だが、少年がこの問を発するのは、これが初めてではなかった。
彼は冷凍睡眠装置という名のベッドの中でこれまで何度も、不定期な目覚めと眠りを繰り返して来た。
目覚めるたび、彼を迎える人々の顔は、まるで魔法をかけたように、急激な変化を彼に見せつけた。目覚めるごとに彼らは、一気に年をとり、老い、そして消えていった。
それは、まるで跳ばし跳ばし見るアルバムのようだったが、現実は彼自身こそが時間を超越して生きる存在だった。通常の時間を生きる人々からみれば、彼は不可思議な存在と映るはずだ。
少年の表情がふっとゆるんだ。目の前の老人にほほ笑みかける。
「グッモーニン、ドクター・バハナンド。おじいちゃんが板についちゃったね」
「君にとってはな」
バハナンドは白いあごひげを撫でながら片目をとじて見せた。
少年にとって、バハナンドは今までで一番付き合いの長い相手だった。初めて出会ったときのバハナンドは、父親に連れられ訪れていたたまだあどけなさを残した幼い子供だった。それが次の目覚めでは新米助手になっており、父親の顔になり、老人になってしまった。
「七年ぶりの再会じゃな。カミル」
カミルと呼ばれた少年は、ほそい体を起こしながら右手でカプセルの蓋を押し開いた。
「最初に眠ってからは、どのくらいたちますか?」
カミルは軽いのびをした後、目をこすりながらバハナンドにたずねた。七年ぶりといわれても、彼とっては夜寝て朝起きたに過ぎない。少年は年老いた博士を見ながら、人間は老いるほど年をとる時間がゆっくりになるのかしら、と思う。
「君が最初の眠りについてからちょうど二百年たったよ」
バハナンドの言葉に少年は、まぶたを閉じて、しばらく一言も言葉を発しなかった。
「ラズナフ先生とシンディ先生、ローダイム博士、シェレフ博士たちは…?」
ようやく少年が唇を動かしたとき、出て来た言葉は、少年が“おやすみ”のあいさつを告げた時見守ってくれていた、見知った人々に関することだった。
老人は、どこか遠くを見るように静かに首を横にふった。
カミルは瞳を開き、うなずいた。
彼らはこれまで出会って来た人々のように、もう二度と会えない場所に行ってしまったのだろう。
カミルは、なんでもないことだと言い聞かせるように、再び瞳をとじた。これまでも、目覚めるたびに誰かが亡くなっていた。
それももう慣れたことなのだが、その度に慣れない感覚が胸のあたりに重くのしかかる。
自分だけが時間の流れから大きく軌道を外れ、取り残されてしまっているような疎外感。
ため息を漏らしそうになる口元を引き締め少年はもう一人の初めて見る人物―若い助手らしき青年―を見つめた。
物静かな風貌をもつ黒い瞳の青年は、少年の視線が自分に向けられたのを知って戸惑いの表情を浮かべた。
それに気づいたバハナンドがにこりと笑って、青年を紹介した。
「彼を紹介しよう。助手のリュウイチロウ・アーディ。君と同じコールド・スリープ状態から九年前に目覚め、現在私の右腕として働いてくれている」
少年の表情がパッと明るくなり、尊敬するような眼差しでリュウイチロウを見つめた。
「はじめまして、ぼくカミルです。目覚めて、普通の生活ができる日がちゃんとくるんですね。すごいや」
リュウイチロウはカミルの無垢な笑顔に戸惑ったように、会釈を返した。
「彼は、目覚めの現場に立ち会うのが今回が最初なんでな。多少、緊張しておるんだろう」
バハナンドは笑いながら、少年がケースから降りるのを手伝う。
「来なさい、カミル。まず簡単なテストをしよう。今はなんともないね?」
「はい。なんだか今までで一番気分がいいです。頭痛もしません」
「いい子だ。検査室へ行こう」
バハナンドの言葉に、少年が一瞬不安そうな顔をしたのを、助手は見逃さなかった。だが少年は、横に立つ老人と、後ろを歩く男とともに素直に歩きだした。
三日間の検査の後、カミルは二人にともなわれて長い廊下を歩いていた。
「君の部屋へ案内しよう」
検査の後、老博士の口から出た言葉に、少年は大きな瞳を喜々として輝かせた。
「僕、もう大丈夫なんですね? もう、ケースの中に入らなくていいんですね? 学校に行って、友達をたくさん作って、遊んだり、勉強したり、好きなことを何でもできるんですね? もう普通なんですよね」
長い廊下をどこまでも真っすぐ進んだ正面にカミルの部屋があった。
スライド式の扉が開くと、家具一式と机、本棚など、日常生活に必要なひととおりの物がそろっている部屋が現れた。
十五歳の男の子の部屋らしいこざっぱりとした空間だ。
「すごいや」
カミルは、部屋の様子に瞳を輝かせた。
「ぼく、本当にこの部屋にいていいんですか? 前みたいに白い壁だけの部屋じゃなくていいんですね?」
博士は笑顔でうなずいた。
「もう大丈夫だ。今からここは君の部屋だ。自由に使うといい。ただし、しばらくはリハビリが必要になるから自由にというわけにはいかないが、そのかわりパートナーをあとで紹介しようと思う。そして君から、いろいろ教えてもらいたいことが私たちには山のようにある」
「ほかのみんな、は…?」
期待と不安が交差した表情で、カミルはうなずきバハナンドを見つめた。
「三〇七番。いや、今日からはカミルと呼ぼうな」
バハナンド博士は、少年の細い肩に両手をそっとのせた。
「最初の眠りから二百年たち、冷凍睡眠装置に入って今日まで生き延びた者は、このリュウイチロウと君を含め、三千百十五名中わずか三十七名となってしまった。その彼らともじき会えるだろう。そして彼らと話し合い、確認し合ってほしい。核シェルターの中に入り、スリープ状態に入る前の出来事と、核を使用した人類最終戦争の知っているすべてについてを。自分たちの記憶から思い込みや矛盾を取り去り、事実のみを記録し残すために」
「はい」
カミルは、今度こそ期待にこたえられるだろうという自信に満ちた瞳を輝かせて、うなずいた。
「その時までここで新しい環境に慣れ、リハビリをおこなってくれたまえ」
高まる緊張に息をのんで何度もうなずく少年を見つめながら、リュウイチロウは胸騒ぎを感じていた。
「博士…」
少年に部屋の説明などを行い、次に会う予定を確認して部屋を出ると、リュウイチロウはバハナンドに小声で呼びかけた。
「大丈夫だ。制御室で様子を見守ろうか」
年老いた医者であり科学者でもある老人は、リュウイチロウの背中をポンとたたくと、いま来た廊下とは、別の通路を選んで歩き始めた。
カミルは部屋の扉が静かに閉まり、部屋に自分一人だけになったことを確認すると、大きな深呼吸をした。そして、顔を真っすぐに向けて正面の壁と窓をじっと見つめた。
以前何度も入ったことのある部屋の壁の色も同じように白かったが、薄暗い病室の薬臭いはここにはない。
グリーンのカーテンとカーペット。木目調のベッドや机、本棚、クロークと、ブルーグレーのソファは昔、父親と過ごした懐かしい「家」の香りが漂っていた。
彼がこれまで目覚めのたびに、話してきた過去の思い出の空間がそっくりそのまま再現されていた。
部屋の状況をひととおり眺め、しばらく見守り確認すると、カミルはひとりうなづいた。
少年の頬は微かに上気し、琥珀色の瞳には期待の輝きが宿っていく。
「本当に、大丈夫みたい」
胸に手をあて、何度も何度も深呼吸を繰り返した後、レースのカーテンがかかった窓からこぼれる明るい光に誘われるように、カミルはそっと部屋の端にある四角いドアに近づいた。
カギを解除しドアの取っ手に手をかけ、もう一度深呼吸をして思い切って扉を押し開けると、心地の良い風が吹き込んで来た。
カミルは靴を脱ぎ捨て裸足のまま外へ走りだした。
澄み切った高く青い空。
サンサンと輝く太陽。
可愛らしい野花や飛びかう鳥たち。
広がる緑の野原、森と小川。
足の裏の土の感触が心地よい。
少年は草原の中におそるおそる寝転んで、その心地よさにほほ笑むと、空に浮いている白い雲を目で追った。
何度この光景を待ち焦がれたことだろう。 自分ですら気づかぬうちに、少年の瞳から涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
コールド・スリープに入ってから、これまで何度も目覚めはあった。だが、その度に原因不明の幻覚や幻聴といった異常に苦しめられて来た。
(最初の目覚めのときは、全身の震えが止まらなくてそのまま強制的に再び眠らされた。二度目は、暗い土の中にむりやり埋められる幻覚に襲われて、恐怖でぼくは自殺しかけた。そして三度目は……)
「こんにちは」
突然、なんの前触れなしに呼びかけられて、少年はギョッとしてバネのような俊敏さで起き上がり、声の主をさがした。
「こんにちは。びっくりしちゃった?」
草原の中に、白いワンピース姿の少女が立っていた。
カミルよりも年下に見える少女は、ぬけるような白い肌と、肩までのびた栗色の髪を風にゆらしながせ、翠の大きな瞳でカミルにほほ笑みかけていた。
「誰…なの? 君」
少年が近づくと、少女は意外なことを告げた。
「うふふ。十九回目のお目覚め、おめでとう。あたしはルミ、あなたの妻になるの」
「え?」
カミルは美しい少女から告げられた言葉の意味を飲み込めずに、ただ呆然と少女を見つめ返した。
「妻…?」
「そうよ。博士から聞いてない? 最初はパートナーだけど、あたしたちは夫婦になるの」
「待って。僕は君のことを何も知らない、わからない。今のこの時代のことも何もわからないんだよ」
「それでいいのよ」
少女は、カミルの言葉を遮ると、ほほ笑みながら少年の左手をとった。
「あなたには、この時代で生きて行くためにあたしが必要なの。目覚めた人達には、あたしたちが…」
「それは、どういうことなの?」
「うふふ」
少女は応えた。
「普通の生活の中で、あなたがもう本当に正常な感覚で生きられます。大丈夫という証人にあたしがなるの」
その言葉に、はっと息をのんでカミルは視線を野原にむけた。
その向こうから遠くに見える街に向けて伸びた一本の小道をじっと見つめ続けた。
少年は以前にも一度この部屋をくぐったことがあるような気がした。それは何度目の目覚めだったのか定かではない。
もう自分が実際に何度目覚めを繰り返しているのか、覚えてもいないのだから。そしてその間に、夢だとばかり思っていた記憶―ここへ来たこと―は事実だったのではないのかと…。
少年は少女の手を離すと、両腕で自分の体を抱き締めた。
あの時、すべてのものは目の前で溶けはじめた。木も、家も、壁も、道も、自分の体さえ溶けていく幻覚が悪夢のように彼を責め続けた。
そして、今は……。
もう、道は溶け出さなかった。
すべての風景は、何の変化も見せずにそこにあった。
「ね? 大丈夫でしょう?」
すべてを見通しているような少女の顔を、カミルはじっと見つめながら、今度はためらいながらも何かを確認しようというように自分からその手をとった。
「ちゃんと君の顔が見えるよ。幻じゃない。僕の手は君に触れることが出来る。体温を感じてる」
「おばけにもなってない?」
「うん」
少年は、つないだ手を強く握り返した。
もう、幻が彼を襲うことはなかった。
目の前で人が溶けることも、何もない空間から大勢の人々が現れて彼を殴りつけ、痛めつけることもなかった。
穏やかな空気が、体のすみずみまで染み込み、少年を支配していく。
目覚めるたび彼を襲った障害はもうとりのぞかれたように感じられた。永い眠りにつく前の健康な状態と同じだ。
(もう最終戦争なんて、遠い過去の幻影なんだ)
カミルは握り締めたルナの手の温かなぬくもりと、風の心地よさにつつまれて、ふりそそぐ太陽の光に目を細めた。
(この世界は、前の世界よりなんて美しく平和なんだろう。小さいころ父さんが描いて見せてくれた絵本と同じ光景がここにはある。確かに失ってしまったものは多かったけど、これから得るものはもっと多いはずだ。父さんの言うとおりにして良かった)
カミルは歓声を上げると、ルミの手を引いて野原を駆け出した。
少年の無邪気な笑い声が制御室のモニターを通して響く。
「博士……いいのですか? 本当に。彼に真実を知らせなくても……」
リュウイチロウは、少年の歓声に耳を傾けながら視線をおとす。
「彼に君のような強靭な精神があると思うかね」
バハナンドはカミルの検査結果を記した資料に視線を落としながら、問いにこたえた。
「君にはショックなことかもしれないが、彼らには現実を受け止めるだけの力はもやない。わかっているだろう。正常に覚醒した三十七名全員に、歴史の生き証人達に死なれることはならないということを」
助手は静かにうなずいた。
「わかっています。俺たちの時代の人々が起こした最終戦争が何をもたらしたかということを。戦争が残したものは、放射能で汚染された大気と、生き物の住むことのできなくなった大地。そして、地下深くに造られていたいくつかの核シェルターに逃げ込んだわずかな人類。核シェルターに生き残った人々の多くは、そのまま太陽のない世界で生き続けた」
若い助手は過去を思い出すように瞳を動かさない。
「でも、コールド・スリープには夢があったんだ。大気汚染が取り除かれる未来が、別の未来があると信じていた。コールド・スリープに眠る権利を得た者はみんなあのモグラの生活から逃げ出したかったんだ。けれど…現実はそんな甘いものじゃなかった」
リュウイチロウは頭を左右にふって大きく息を吐いた。
「残念ながら、君以外のコールド・スリーパー達は二百年を経た現在さえ、未来の地上へ戻ったのだと頑なに信じ込んで疑うことさえしなかった。いや、真実に気づいた君の存在の方が不思議なことなのかもしれんがね。だが、ここは地中。いまだシェルターの中だ。君たちの言う輝く太陽も、青い空も、海も、ここにはない」
助手は頷いた。
「この部屋は、コールド・スリープから目覚めたスリーパーたちの為の『自然な幻影』を見せる制御システム…」
リュウイチロウは手でコンソールパネルを無表情に撫でながら、広い室内を見渡した。
制御室と呼ばれた巨大な空間には、監視カメラが映し出す、核シェルター内の映像が壁一面の百を越えるモニターに映し出されていた。
少年の様子は、そのうちの十個のメインモニターのひとつに映っていた。
モニターの反対側には、スリーパーたちの深層意識にまでさかのぼった記憶を収めたデータ・バンクの扉があり、そこでは、彼らの脳に埋め込んだ受信機に、彼らが必要とする幻覚の送り込む装置が動き続けている。
ここに入り、記憶の送信をするには同じ模様を刻んだ“キー”が必要だったが、リュウイチロウは目覚めてから九年間まだ一度も足を踏み入れたことがなかった。
「宇宙を知り、風を知り、太陽を知っている者達だけの記憶から作り出される幻影。風の、土の、陽のあたたかさも、感触も、やわらかさも、全て眠る以前の過去の知覚がつかさどるイリュージョン。彼らは一生この地下のシェルターの中を、幻の未来―地上の世界―だと信じて生きていくのですか…」
リュウイチロウは悲しそうに目を閉じて、両手で何かに触れようとするよう空に差し出し、やがてその手をひざの上に落とした。
白髭の博士と呼ばれる老人はため息をつきながら、立ち上がった。
「だが、どうしたものか。現実に気づかぬように監視し、サポートをするはずのパートナーたちが、彼らの過去の思い出話と幻影にとりこまれ、自分にも同じ体験をさせろと言い出しはじめた」
「スリーパーたちが見ている現実は、誰ひとり同じものはない。それぞれが、自分の中の夢に生き続けているだけだと博士はおっしゃる」
バハナンドは、若い助手をしばし見つめた。現在、世界にシェルターがどれほど存在しているのかは未だ確定していない。そのなかで科学者として、医師としての立場にあるものも徐々に減少していた。特に、バハナンドらのように過去地球の表面で生活していた時代の記録を残し続けようとする科学者たちは少数派になっていた。コールド・スリープをしている人々への尊厳より、魅力ある過去の地球を自分自身が感じたいという方へ興味が移っていたのだ。
「来たまえ。君に見せたいものがある」
何かを決心したような口調に、若い助手はモニターからはなれると、黙ったまま博士について部屋をでた。
「僕たちは平和な地球で楽しく暮らしていただけだったんだ」
カミルは、芝生の植えに少女と並んで座り、真っ青な空を見上げた。
「戦争なんて起きていることさえ気づかなかった。気づいたときには戦争に巻き込まれていて、あっと言う間にシェルターの中で暮らしてた。十二歳のときだよ」
「パパとママは?」
「ふたりとも死んじゃった。シェルターの中で、ノイローゼになったんだ。太陽のないところで、生きられなかったんだ。そういう人がたくさんいたから、パパはコールド・スリーピングの申し込みをしていたのだけど、待てなかったんだね。やっと順番が来たときは家族はもう誰もいなかった」
少年の中では、半年もたっていない月日の出来事だ。
「僕は生きているんだね」
「うふふ」
少女はカミルの瞳をのぞき込んだ。
「お願いがあるの」
「なに?」
「あたしにあなたが今見ている風景を教えて」
「え?」
カミルはまたしてもルミの口から出た不可解な言葉に、言葉をうしなった。
「君は…目が見えないの?」
「あなたの姿は見えるわ。でも人の姿と太陽の光以外のものは見えないの。そういう病気なの」
「病気?」
「うん。だから、カミルが見ているものを教えてね。たくさんたくさん話してね」
ルミは無邪気に笑った。
「わかった。僕が教えてあげるよ。目の前にあるのはね…」
少年は戸惑いながらも自分を慕い、隣に並んで座っている少女を不思議な気持ちで見つめていた。
通常の生活スペースよりやや広く感じられる研究所の廊下を、バハナンドとリュウイチロウは並んで歩いていた。
「俺はたまに、スリーピングなんてしないで、いっそあのまま死んでいた方が良かったのかなと思うことがあります」
独り言のようにリュウイチロウはつぶやいた。
「コールド・スリープだって全員の分があったわけじゃない。たまたま死ぬ寸前の見知らぬ他人から、許可証をもらうことでもなかったら、もうとっくに死んでる人間です。中には核の恐ろしさ、戦争の愚かさを未来の人々に伝えたいと真剣に考えてスリープを選択した人もいるらしい。でも大多数は、土の中でモグラのように生きる苦しさから逃れたかっただけです。そして眠ったまま死ねるならそれでも良かったのかもしれない…」
「ふうむ」
バハナンドは、シェルターの更に地下へ伸びる階段を示し、おりはじめる
「核シェルターによって生き残った数百名の者達は、地中で暮らして行こうとすることを頑なに拒んで、自ら命を断ったものが続出したらしいからな。未来を夢見てスリープによって目覚めた彼らはなお、現実が土の中と知れば生きていけないかもしれん。事実、何人もの人々が真実を知ってすぐ自らの手で命を断っていった。君はなぜシェルターのいることに気づいたのかね。そしてそれでもなぜ平気だったのかね」
博士はこれまで何度もたずねても、かわされてきた質問を口にした。リュウイチロウは、照れたように笑った。
「そろそろ白状しましょうか。俺は生まれたときから戦災孤児だったんです」
階段をおりながら、博士はリュウイチロウの穏やかな表情を驚いたように見つめてた。
「破壊された街。路上に投げ出された人の死体の山。風にのって流れてくるさまざまな腐乱した匂い。空を飛び交う爆撃機やミサイル。あちこちであがる爆発音と煙り。絶え間無くやってくる飢え。安心して眠ることさえできず、平和な光景は何一つなかった。思い出したくなかったんでしょう。たとえ、現実逃避といわれても自分が生きていた時代から逃れたかったんです。きっと、俺の脳はこの地下暮らしを平和と認識したんでしょうね」
「なるほどな」
バハナンドは、自らが助手に選んだこの青年をいとおしげに見つめた。
「やはり、君には見せておかねばなるまい。君はシェルターが本当は何層からなっているか知っているかね」
「地上部分と名称される一層から八層まで…じゃないのですか?」
誰も人がいないとわかっていても、二人の声は自然と小さくなる。
「九層目があるんじゃ。これからわしらが向かう場所だ」
助手は、信じられないと言った表情で、バハナンドを見つめた。
「もう一つの制御室。そして、目覚めなかった者や、目覚めに失敗し正常な精神に戻らないスリーパーを永眠させた事例があるが、それら永遠に目覚めることのないものたちの墓場のようなところだ。冷凍処理されたまま保存されている。知っておるのは、わしと限られた者だけだ」
「待ってください」
リュウイチロウは思わず足を止めた。
「それじゃ、過去コールド・スリープから目覚めた者たちの、精神障害を取り除くために行われた治療というのは…」
「目覚めに失敗した者の脳を部分移植したこともある」
リュウイチロウは、博士のこともなげなセリフに思わず声をあらげた。
「スリーパーたちへの尊厳を博士は提唱してきたでのはないのですか? それに、知らない間に他人の脳を勝手に移植されていたと知れば、目覚めた者だって正常ではいられないはずです。それは許されない行為だ」
「君ははまだ若い。わしも若いころはそう思った。だが、いまの我々人類が知らねばならないのは、人類が起こした過去の正確な歴史の記憶だ。われわれにはそれを未来に残し伝える義務がある。精神に病んだコールド・スリーパー達の幻覚や幻聴の記録を残したいわけではない。わかってくれるだろう? リュウイチロウ」
若い助手は気力がなえたように肩を落とした。
「もちろんです。正しい歴史を残すのが、我々の努めでもある。でも…、博士。例えそうであっても、それはやはり間違った行為なのではないでしょうか。他人の脳を移植したり、正常に戻らないからと生きているスリーパーを殺してしまうのは行き過ぎとしか思えない」
過去十九回目の目覚めを迎えても、正常に回復しなかった者は二十回目のスリープが最後となるということ以外、リュウイチロウは知らなかった。
だが現実は、二十回目を限度に永遠の眠りを与えられた者は、正常な者への生きた内蔵バンクとして保存される。逆に正常に死んでいった者たちは、精神的障害が出た目覚めた者への治療のために脳や体を移植され続けていた。
「このシェルターにも年間食料の限界がある。所詮彼らは本来の時間を歩んでいればとっくに死んでいる人間だ。価値がなければ、やむをえんだろう。我々が生きていくのを妨げる行為になっては彼らも本望ではあるまいて」
リュウイチロウは心の中で、長く深いため息を吐き出していた。バハナンドは、横にいる助手が彼らの仲間だったということを忘れているようにすら見えた。
ドクター・バハナンドは、目的の場所につくまで彼の肩を抱きかかえ、片腕と自慢する助手に説得を続けた。
やがて、八層目の何もない場所まで降り立ったとき、博士は階段の裏に回って側面の壁に手をついた。すると手を着いた場所は、発光ををはじめ、次いでバハナンドの手が壁の一角を押すように沈んで行った。
カチリ、という小さな音がかすかにリュウイチロウの耳に聞こえた。
「行こうか」
バハナンドが床を親指で示した。見ると、音もなく床がスライドし、下へと続く秘密の階段が現れた。
「は、はい」
喉を鳴らしながら、リュウイチロウがバハナンドの背中に続いて階段を降りはじめた。だが、ふいに足元から少年と少女のの弾む声が聞こえて来て、彼の足を凍りつかせた。
「スピーカーじゃよ。この奥には制御室があるといっただろう。全シェルターの制御室に異常が発生したとしても、ここが自動的に作動する仕組みになっておる。あの子らの様子もここから見ることができる。出る前にわしがセットしておいた」
その言葉どおり、現れた広い空間には子供の姿はなく、透明なコールド・スリープ・ボックスがロッカーのように列をなして幾重にも重なり、並んでいるだけだった。
壁には、制御室と同じように、シェルター内の様子を映し出すモニターが、壁一面に映し出されていた。そのメイン・モニターのひとつに、カミルとルナの様子が映し出されていた。
「彼の体には七人のスリーパーたちの、脳の組織が埋め込まれている」
満足げにほほ笑むバハナンドの姿が、彼の目の前にあった。
「博士…」
リュウイチロウは唇をかんだ。
「わかってくれるな。君にはわしのもっているすべての知識と情報を受け継いでほしいのだ」
その瞳は真剣であることを、若い助手は痛いほど感じていた。
『ねえ、海はどんなものなの?』
少女の楽しげな問いかけが、広い室内に響く。
『ここにはないけど。電車に乗れば見に行けるよ。青くて空の青と同じくらいきれいなんだ。海水はしょっぱいけどね』
『太陽もあるの?』
『海の中に太陽はないよ。太陽は空にあるからね』
たあいもない幼いふたりの会話が、リュウイチロウの心を揺さぶった。
「ここには、奥の部屋まで含めて二千百七十八名が死の中で眠っている。だが、正常体はもはや五割をきった。すでに残りは内蔵ぐらいしか役に立たなくなっているのだよ。」
(博士は狂っているのかもしれない…)
リュウイチロウは、尊敬して来た科学者を冷めた目で見はじめていた。
『ねぇ、太陽はきれいよね。キラキラ輝いてるわよね』
少女の念を押すような言葉に、少年はルミが“太陽は見えるの”と言った言葉を思い出した。
『うん、同じだよ。大丈夫ちゃんと五つ見えるから』
カミルの言葉に、説明を続けていた老博士の動きがとまった。
「太陽が五つだと?」
バハナンドの疲労に沈んだ声が悲しげに響く。
「あの子も、だめか…。大丈夫だと思ったんじゃが…。あの子もなおらんかったか…」
その言葉に、リュウイチロウは思わず、バハナンドの腕をとって揺さぶった。
「博士、どうしてだめなんですか。もう一度チャンスを。あの子は若い、体力もある。何故あきらめるんですか? 何度だってチャンスをあげてもいいはずだ。殺すことはない」
「わしだけが規定に背くことはできん。太陽はひとつのはずだ。五つに見えるなど幻覚作用がとりのぞけん。これ以上は何をやっても無駄なんじゃ」
バハナンドは、がっくりと肩を落として長い息を吐き出した。
「あれでは、ほかの目覚めた者たちと会わせるわけにはもういかん。正確なデータの障害になる。かわいそうだがあの少女にも引き上げさせよう、あの子の役割は立派に果たした」
助手は、どこへともなくつぶやく老人から手を離して後ずさった。
「彼を助けては下さらないのですか?」
「あの子は、直らなかった。我々のデータの役にはたたない。わかってくれるな? それが人類のためには一番いいことなんじゃ。未来の人々に間違った歴史を伝えることはできん。我々人類の……残…さ…」
だが、バハナンドの言葉は最後まで語られることはなかった。
リュウイチロウの右手の銃が、その心臓を音もなく撃ち抜いたのだ。
驚いたように大きく目を見開き、彼を見つめたまま老人の身体が、音をたててゆっくりと崩れ落ちた。
「あなたは狂ってしまった…」
リュウイチロウは、嗚咽をもらしながら入って来た道を戻ろうときびすを返し、立ち止まった。
彼の目の前に一人の女が立っていた。
「殺したのね」
金髪の美しい女性の唇から、感情のない言葉がこぼれた。
「狂った科学者は、許せなかった…」
女は右手を差し出して、リュウイチロウから銃を受け取った。
「俺は、目覚めてからずっとあいつらを観察して来た。何が行われているかを君に教えてもらえた日から、仲間を助けるために今日までこの場所を探ってきた。そしてバハナンドが俺たちの味方になれる人物かを調べ続けて来た…。彼を信じたかった。殺したくはなかった…」
女は妖艶にほほ笑みうなずいた。
「そうね。でも、太陽がひとつだけなんて言い続けてたのだから、もうとっくに狂ってしまっていたのよ。それに、これであなたと同じ風景を私も見ることができるようになるわ。太陽が五つという共通点だけじゃ、パートナーとして寂しいものね。リュウイチロウ」
女の胸元に揺れるペンダントの裏には、記憶ボックスの扉と同じ模様が描かれていた。
だれもいなくなった部屋には少年の笑い声だけが響き、モニターには全シェルターを照らし出す天井に備え付けられた五つの巨大な照明塔が映し出されていた。