第10章(完) 〜 別離 〜 | ||
アンネリーゼは自宅の扉を開けようしとしていた。 「え?」 状況が飲み込めないず、ドアの取ってを掴んだままぼう然と立ち尽くしていると、頭の上から男の声がする。 「どうしたの? アンネリーゼ」 驚いて振り返り見上げると、彼女の真後ろに立って親しげに呼びかけたのはシャルゼルトだった。 背後には、馬車が止まっている。 「あなたどうしてここにいるの? いえ、そんなことより……」 アンネリーゼは混乱しながらもこの状況を考えようとした瞬間、足から力が抜けたように立っていられなくなり、その場に崩れるように座り込んだ。 「アンネリーゼ! 大丈夫かい?」 M公爵邸からペンダントの妖獣の力で逃げ出したことは覚えている。 でもその後の記憶はない。 目が覚めたときシャルゼルトがそばにいたことは覚えている。 けれどスープを取って来ると出て行った後姿を見送ってからあと、一体自分の身に何が起こって、こうして家の前にいるのかわからなかった。 妖獣がアンネリーゼを家まで移動させたのならば、シャルゼルトも馬車もいるはずがなかった。 「あなたが私を助けてくれたと話してくれたことは覚えているわ。でも、目が覚めたらこうして家の前に立っている。どうして? 何が起きたの? 知っているんでしょう?」 シャルゼルトが片膝を折ってかがみこみ、アンネリーゼの長い前髪を片手で優しくすき上げながら困惑する碧い瞳をなだめるように見つめ微笑む。 「きっと魔法がかかったんだ」 「どういう意味?」 「花の神王フォンハーと、古樹の女神ティナの物語を知っているかい?」 アンネリーゼの体を両手で支えるようにして立ち上がらせると、扉を開けて、家の中に導く。 まるで恋人のように背中に回された腕があまりに自然で堂々としていて、アンネリーゼは何故か払いのけることが出来なかった。 軽薄で詮索好きな他国の旅行者程度にしか最初は思っていなかった。 命を助けてくれた恩人なのは彼自身の口から聞いた。 それでも明らかにアンネリーゼに対する態度が変化していた。 まるでそうすることが当然の権利のように、アンネリーゼに対して振舞っていた。 エスコートするようにテーブルの椅子に座らせられた時も、アンネリーゼはただただ不思議そうにその様子を見ていた。 「神話の世界の話?」 シャルゼルトはうなずく。 「ゴラの守護神のサラバンティ神や、光の神リーフィスは知っているけど、神々の物語はあまり……」 「僕は神学を学んでいると以前話したよね」 機織用の椅子に座ると、シャルゼルトは少し照れたように横顔を向けたまま微笑み、開け放たれた窓の外に見える空を見上げながら話し出した。 遥か太古の神々の時代から天空を貫くようにたたずんでいる大木があった。 齢一万年とも言われる古樹は、涸れ果てた大地に木々を蘇らせるための生贄として、乙女ティナがその身を大地に捧げて誕生したといわれていた。 ある時、世界中の花々を愛し、花の神々を統べる花の神王フォンハーがティナを見つけた。 しかし、人から樹へと変化したティナにはフォンハーの姿も声も届かない。 ティナは、ただ天空の神を求めて腕を遥か高みに向って差し出すだけ。 その日、フォンハーは最初のくちづけをティナに与えた。 一年後の同じ季節、フォンハーは二つ目の口づけを別の場所に落とした。 翌年も、そしてその翌年も、少しずつ位置を変えながらフォンハーは口づけを落としていった。 最初の百年が過ぎたとき、ティナは初めてフォンハーの存在に気がついた。 けれど、それは閉ざされた家の壁の向こうに、誰かがいる気配を感じているに過ぎなかった。 次の百年が過ぎたとき、それは扉をノックする音だと気がついた。 三度目の百年を過ぎたとき、ティナはそっと窓からその人物をのぞき見た。 美しく逞しく凛々しき花々の神王がティナをじっと見つめていた。その姿を見た時、ティナは驚いて目を塞いで心の奥に逃げ込んだ。 四度目の百年。 フォンハーは古樹を両腕を広げて抱きしめるようにしながら、ティナの名を呼んだ。 けれどティナは応じない。 美しく輝き続ける花の神王が、変わった古樹を哀れんで、一年に一度気まぐれに立ち寄っているに過ぎないと思っていた。 五度目、六度目、やがて十度目の百年が過ぎたとき、ティナはフォンハーの訪問を待っている自分に気がついた。 「もう、来ないで下さい」 ある季節、口づけをしようとしていたフォンハーの耳に、ティナの声が初めて届く。 「私は古びた木に過ぎません。あなたにとってはおたわむれに過ぎなくても、なにもお返しすることは出来ません。どうぞ、お見捨ておき下さい」 フォンハーは微笑んだ。 「声が聞けただけで報われた」 口づけをひとつ落として去って行った。 これでもう会うことも、待ち焦がれてしまうこともないとティナは思った。 安堵の思いの一方で、枝が裂けるように、心が裂けてしまいそうだった。 もともと花を咲かせない木は、花の神とは無縁の存在。 美しい花の女神や妖精たちと季節を過ごすのが花の神王。その微笑みを受ける資格は自分にはないのだ。 ティナは、フォンハーと出会う一万年もの間、ただそこにいてひとりぼっちだった。ただ天を見上げて果てしのない時間を過ごしてきた。 だから、これでいいのだと自分に言い聞かせた。 これまでも、そしてこれからも、天だけを心の支えに見上げ続ける。 それが古木として命を捧げた自分の定めなのだと、ティナは自分の心を抱きしめてきつく目を閉じる。 「ティナ」 フォンハーは次の年にも訪れて、ティナに口づけを与えた。 「どうしてですか?」 もう会うこともないと思っていたフォンハーの口づけを受け、ティナは嬉しさと同時にその感情を覚えてしまった自分を後悔する。 「花ではないのに・・・」 「千年の間、共に生きてきただろう」 フォンハーは優しく囁いた。 「でも、私は花を咲かせられません」 「一度だけ」 花の王はティナに手を差し出した。 「私の手をとっておくれ。そして私の願いを叶えておくれ」 フォンハーの真剣な求愛を受けて、ティナは震える手をそっと差し出した。 千を越える口づけを与えてくれた王に抗えなかったことと、これが最後となるだろうというあきらめを自分につけるために。 フォンハーはティナの手をとったまま、古樹に溶け込んで来た。 驚くティナに花の神王は、優しく微笑む。 「私は花のために生きる。君に花を見せてあげよう」 翌年、古樹の天高く伸びた枝にかぎりなく白に近い薄紫の可憐な花が咲いた。 いつもより早い季節にティナのもとを訪れたフォンハーは彼女をそっと抱きしめ、口づける。 そして、ティナもまたフォンハーを美しい微笑みで迎え両手を広げて抱きしめた。 古樹の乙女ティナは、やがて古樹の女神、そしてフォンハーの妻として神話史に名を残す。 「花の神王でなければ咲かせられない花がティナの古樹だった」 アンネリーゼが気づくと、シャルゼルトは彼女の傍らに立っていてその表情を見ようと首を傾けていた。 「僕らは千年目のフォンハーとティナになった。それだけだよ」 「どういうこと?」 「あのペンダンとの、金貨のコインの光の洗礼は強烈だった」 クスクスと楽しげに笑うシャルゼルトに、アンネリーゼは少し腹立たしく感じる。 「頭の中がぼうっとしているの。記憶が途切れていてすぐに思い出せそうにないの。わかるように説明して」 アンネリーゼはもどかしかった。 あたりまえにわかるはずのことが霧がかかったように思い出せないのだ。 「明日になれば思い出せるようにお願いしてあるから、安心していいよ。それより、話しておきたいことがあるんだ」 シャルゼルトは真剣な眼差しをアンネリーゼに向けた。 あまりにその視線が強くて、アンネリーゼはつい視線を外す。 「しばらく会えなくなる。少し時間はかかると思うけど、出来るだけ早く、必ずまた会いに来るから待っていて欲しい」 語りかけながらアンネリーゼの両手をとる。 「君が怪盗メイハーナだということは他言しない。ペンダントの妖獣に与える宝石は定期的に届けさせる。だからもう盗みはしないでほしい。君は、この家で、今までどおりに変わらず仕事をしていてくれればいい。君が自由になり、君を取り戻す方法を僕がきっと調べ出してみせる。だから少しの間会えなくなるけど待っていてほしい」 シャルゼルトがペンダントの秘密を知っていることに、アンネリーゼは驚いた。 しかも、宝石を彼女のために届けると言う。なのに、「会えなくなる」と言う言葉は別離を意味する。 シャルゼルトにしつこく付きまとわれて迷惑していたのだから、よかったと思えるはずなのに、アンネリーゼはひどい言葉を突きつけられたようで思わず立ち上がってシャルゼルトの手を放す。 「ナイアデス皇国に帰るのね?」 「あ……いや……」 シャルゼルトが何かを思い出したかのように、うろたえた表情を見せた。 「それは説明するのを忘れていたというか……。いや、親にも話しをするという点ではそう、かな……」 目が挙動不審に動き、言葉もしどろもどろになる。 その表情に、また来るといった言葉はやはり嘘なのだと、とアンネリーゼは思った。 彼はフォンハーではないし、自分も古樹ティナではない。 彼はナイアデス皇国の人間だと改めて気づかされる。 アンネリーゼは表情を消した。 「そう……。さようなら」 けれど、そう言葉にして改めて、アンネリーゼは心が裂かれるような胸の痛みを感じていた。 シャルゼルトと別れた翌日。 朝、目覚めたアンネリーゼは二人で過ごした長い時間を思い出した。 湖で助けられたという話し。 そして、熱を出して悪寒に震えてうなされ続ける自分を、ずっとシャルゼルトが付きっ切りでそばにいて看病をしてくれたこと。 シャルゼルトは長い時間と日にちをついやして、アンネリーゼの心をほどき笑顔をくれたこと。 ペンダントからの逃れなれない苦しみを受け止めてくれたこと。 アンネリーゼの胸元のコインが、デュマ家に長く伝わる家宝だと気がついたシャルゼルトが、館にある宝石をかき集めてきて、神々の言葉を使ってペンダントの妖獣メイハーナと交渉をしたこと。 そして、いつしか心と体を許していたこと。 「どうして、思い出せなかったんだろう」 彼が去っていったドアを見つめてアンネリーゼは立ち尽くした。 まるですべてをわかっているからというように、切なげな瞳で寂しそうに微笑んで去っていったシャルゼルトの顔が思い出されて、涙があふれ出た。 「ごめんなさい」 どうしていつも自分はこうなのだろうかとアンネリーゼは泣き崩れた。 父の時も、シャルゼルトの時も、気がついたときにはつまらない自分の意地がすべてを失わせた。 注がれる愛情に背を向け、振り返ったときにはもう間に合わない。同じ過ちを繰り返すのはもう嫌だった。 家を出る父の後姿と、シャルゼルトの後姿が重なる。 アンネリーゼは震える心を抱きしめ、シャルゼルトの言葉を信じて待つことを決めた。 次にノックが聞こえたときは、笑顔でシャルゼルトを家に迎い入れようと。 ゴア国王室で世間を驚愕させる事件が起こった。 内紛が起き、数日間で国王の交代劇が起きたのだ。 オルト王を殺害した甥のウルムートが、突然即位を宣言した。 現王を殺し、その一族、自分の血族に至るまで粛清、追放し、強奪と呼ぶにふさわしい即位。 当初、長きに渡ってオルト王の治世に浸かりきっていた貴族や民たちはウルムートが王位に就いたという話に、耳を疑り、誰もが信じようとしなかった。 王位継承から常に遠ざけられていた変わり者のウルムート。 最低限の礼は失しないようにはしていたものの、彼を存在すらしない人間のように、関心すら持たなかった貴族諸侯は天と地がひっくり返ったほどの衝撃を受け、恐怖に震えた。今後の自分たちの運命はウルムートの手中に握られたのだ。 ウルムートは、オルト王を擁護した自分の実の父さえその手にかけた。 残忍ともいえる新王の誕生に誰もが血の色を失い、国境が封鎖される前にとばかりに、国を脱出する貴族たちが続出した。ところが、M公爵が事前にすべてを把握しウルムートの手を煩わせることなくそのほとんどを捕らえ、新王の名の下に厳罰を与えた。 しかも、即位からわずかしかたっていないにも関わらず、リンセンテートスへの進軍を開始したのだ。 そしてその間にも、盗賊討伐隊がM公爵の私設軍によりされていた。 国境が封鎖されたという噂は庶民にも広がった。 戦が始まったことで人々は混乱をしていた。 アンネリーゼのもとにもシャルゼルトからの手紙と宝石が一、二度届いたが、それきり音信は絶えた。 やがて、アンネリーゼは体の異変に気がつく。 新しい生命がその体には宿っていたのだ。 盗賊メイハーナが捕らえられたという噂が世間に流れ始めたのはそんな頃だった。 [終] |
第9章 | 目次 |