第8章 〜 湖面の影 〜 | ||
数週間後――。 シャルゼルトは父親の代理で郊外の領地に赴き、首都ドクホへの帰路の途中にあった。 馬車の中で、シャルゼルトは一人アンネリーゼのことを考えていた。 何故だか気がつけば考えていた。 どうして気になるのかその正体を知りたくて、その後も何度か彼女の家を訪ねたが、その度に追い返された。 一方で、習慣のようになっている女性たちとの逢瀬や、愛の言葉を交わす日常は変わらないものの、そうしたことが徐々に色あせ意味のないものに思えてきたのだ。 「シャルゼルト様」 御者が馬車を止めてドア越しに声をかけてきた。 ちょうど市街を見下ろせる山道に差しかかったところだったが、どこかで火災が起きているらしいと街の方向を指差す。 シャルゼルトは馬車から降り立った。 夕陽が傾きつつある時刻。美しいオレンジ色に染まっている街の一角から黒い煙がもうもうと空に向ってのびているのが見えた。 「あれは・・・」 M公爵邸のある場所だった。 遠くからでもわかるのは、M公爵の邸宅が城の半分の敷地を有するからだ。 その建物の、どこかが燃えているに違いなかった。 シャルゼルトの家は、M公爵家の少し先にある。このまま帰路についてもおそらく大通りは消火にあたる部隊と野次馬で混乱していて足止めをくうはずであり、なにより近くにいたのに消火に参加しなかったことであとあとM公爵から不敬をこうむるのはごめんだった。 不在ならばお咎めはない。 「面倒なことはごめんだ。少し戻ることになるが、近くにあるミッシーナ伯母上の別邸に向ってくれ」 シャルゼルトはそう命じると、馬車は来た道を引き返した。 父の姉である伯母は年の離れた夫を亡くしてからは別荘として利用していた別邸にひっそりと暮らしており、社交界からも離れてひさしい。 シャルゼルトのことは可愛がっていてくれているので、突然の訪問も快く向いいれてくれることは間違いなかった。 しかも、伯母のところに泊まる分には、一日帰宅が遅れたとしても父に対して言い訳が充分たつことも計算ずみだった。 気がつくと 馬車が止まっていた。 いつの間にか少しうたた寝をしてしまったようだ。 「着いたのか?」 窓の外を見ると、馬車は山道の途中に止まっていた。 「返事をしろ。どうした?」 何度か声をかけるが御者からの返事はなく、外に出てみると、御者が地面に倒れていた。 二頭の馬は、心配そうにただ御者を見下ろしている。 「おい、どうした」 あわてながらも呼吸があることを確認して、声をかけて、体をゆする。しかし、意識を失ったまま動かない。 急に具合が悪くなったのかもしれないと思ったシャルゼルトは御者を馬車の中に入れると、体を横たえた。 そして自らは、御者台に上ると馬の手綱を握り締める。 空はまだ青空を残していたが、急がないと日が暮れて闇に包まれてしまう。 夜の山道はすべての意味で危険だった。 「お前たちがいい子で助かったよ」 二頭の馬の首筋を優しく叩くと、馬車を走らせ始める。 道はなんとなく覚えているが、いくつもある分かれ道で何度も迷った。 子供の頃から山道は苦手だった。 馬で遠乗りに来たときなど間違わないようにとわかっているのに、いつも間違った道を選んで進んでしまい、引き返すのだ。 そして、今回も同じ過ちをして湖畔に出てしまった。 名前も覚えていない湖。 闇に包まれはじめたまだ青い空に天満月がすでにあり、湖面に映し出されていた。 「…………」 いつもなら、またやってしまったと引き返すのだが、この日はあまりの美しさに動けなかった。 夜に近づきつつある空に浮かぶ月は、美しく湖面に映し出され、水面に揺れる。 一瞬、眩い光が湖の上空に出現した。 「?」 馬が驚いて暴れそうになるのを、手綱を絞って力で抑え込む。 直視できない程の眩い光は大きく発光し、消えた。 同時に何かが落ちる水音が響いた。 瞼に焼きつく光の残像を何度も瞬きをして取り払いながら、シャルゼルトは目を細めて湖面を凝視した。 「何かが落ちた?」 湖面に映る天満月が姿を乱していた。その場所に大く白い波紋が幾重にも現れ、広がっていたからだ。 シャルゼルトは嫌がる馬を強引に水際付近まで歩かせると、大木に手綱をしっかりと縛りつけた。 流れ星が湖に飛び込んだのかとも思ったのだが、黒い幅広の帽子らしき影が浮かんでいるのを目にした時、シャルゼルトは湖に向って走り出していた。 |
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