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第二十五章《 霧 の 中 の ア ン ナ 》

 漆黒の闇の世界で長い間、青年は瞬くこともせずにただ闇を見つめていた。
「ご心配事でも?」
 全身黒ずくめの男、イルアドが主人に静かに声をかける。
「いや」
 青年は妖魔の如き美しく妖しい笑みを浮かび上がらせる。
「おろかゆえに面白いとつくづく思ってな。《ユナセプラ》に向けて闇は深さを増し、人の世は乱れる。己が欲だけを欲し、争う。所詮、なにをしても、我が手の中にあるとも知らずに」
 果てしない闇の中に存在しながら、その眼差しは心地よさそうに闇を見つめ続けていた。
「イルアド」
「はい」
「人が絶望に陥るときは何だと思う?」
「……永遠の闇かと」
「そうだな」
 魅惑的な声はくすりと笑みを漏らした。
「だが最も心地好いのは、希望が闇に呑み込まれたと知った時のあの悲鳴。己が神の哀れな姿を見た時、その名を呼ぶことさえままならぬ苦悶に身を震わせるさま。転身人など、神々さえ、自分達の希望ではありえないと知ったときの、絶望に突き落とされし悶絶の叫び」
 青年はおかしそうに静かに笑い続けた。
「すべてを捧げ報われることなく、己がものを奪い取られ、傷を負わされ、己が力の無力さに泣く涙も涸れ、勝利者のあざけりを耳に、永劫の檻に捕らわれる」
 恍惚の表情が浮き上がっていく。
「《ユナセプラ》……。この全世界は私のものになる」
 イルアドは頭を深く垂れた。
「ゴラの進軍により、ナイアデス、セルグ、ゴラ、リンセンテートス、エルナン五カ国間の古の誓いが破られました。残りハリア、ダーナン、ノストールが戦渦に加わりし時、契約の神イルホは《ユナセプラ》への封印を解きます」
「そう」
 青年は闇の中、氷のように冷たく輝く美しい瞳で、眩しそうに彼方を見つめ続けた。
 《ユナセプラ》
 ただ、その時を迎えるために。 

 ゴラ国で内乱騒動が勃発し、王位がオルト王から甥のウルムートへと移り、体制が一変した。その噂が近隣諸国に広がるより早く、ゴラ軍がリンセンテートス国境地帯を急襲したという情報は、ダーナン帝国のロディ・ザイネスに、もたらされていた。
「リンセンテートスに牙をむけば、ナイアデス皇国が静観などしないことをわかっているはずです」
 軍議の間で、宰相のグラハイドが、気難しげに眉間に皺を寄せながらテーブルに座る一同を見渡す。
「もともと、ナイアデス皇国、セルグ、ゴラ、リンセンテートス、エスランの五国は、盟友として長い歴史があります。その関係を悪化させ、四面楚歌になることも覚悟の上で、隣国を襲うとはいささか奇妙かと。ウルムートなる人物に関してもこれまで表に出ることもなく、際立ったところのある人物ではないとの話しです」
 その言葉に困惑する一同の中で、褐色の肌と漆黒の瞳をもつ軍師のカラギが口を開いた。
「内偵からの報告では、ゴラの新王ウルムートは、ここ数年の間、何度もあのノストールを訪れているとの報告が届いています。もちろん、セルグやリンセンテートスからも、転身人であるアウシュダール王子の〈先読み〉欲しさに様々な理由をつけて、大勢の人間がエーツ山脈を越えているのは事実。もしなんらかの〈先読み〉を受けての進軍ならば、一見無謀ともとれる行動にも大きな力が関与している可能性もりましょう。実際に、リンセンテートス国境の砦城は落城した。そのままの勢いをもって、首都を陥落させるようなことにでもなれば、わが帝妃ミア・ティーナ妃殿下の祖国であり、盟友のカヒローネを襲わないという保証はありません」
 おお、というどよめきが起きる。
 それは、恐れからくる動揺というよりは、むしろ多くの戦を勝ち越え、領土を広げてきたダーナンの武将にとり、待ち続けていた機会がついに来たかといった勝どきのようなものであった。
 一度は、アウシュダールの天をも操る力にリンセンテートスに踏み込むことさえ阻まれたが、あの時の屈辱を晴らす機会を多くのダーナンの将校らは常に狙い続けていたのだ。
 悲願を果たすために、ノストールの動きを監視し、またノストールに出入りする人間に関しても力の及ぶ範囲で徹底的に調べ上げさせていた。
 皆の視線が、ダーナンの美しき君主であるロディに向けられる。
 金髪碧瞳、彫刻のように美しい面差しをした二十歳の若き君主は、全員の期待の中で意外な言葉を口にした。
「カヒローネの全部族長に使いを出す。同時にハリア公国のエリル公王と、ミレーゼ親王妃にも親書を送る」
「ハリア公国に、ですか?」
 グラハイドがゆっくりと確認の言葉を復唱するのを見て、ロディは少し面白そうに笑いながらカラギを見る。
「軍師殿の提案だ。説明を」
 カラギは一礼をした。
「リンセンテートスがゴラに進軍されてしまったということは、ハリアとて他人事では済まされないわけです」
「だが、あの国はみな知っているように、国が分裂状態ではないか。自国のもめごとで右往左往している時に、リンセンテートスの騒ぎなど二の次ではないか」
 グラハイドの言葉に誰もがうなずく。
「だからです。分裂したグリトニルのいる東側と、南から突き上げてくるかもしれないゴラの脅威に挟まれる危機が目前とあれば、わが国からの申し出を拒むことはさらなる脅威を生む」
「簡単にいくかな」
 グラハイドの問いかけに、カラギはうなずく。
「ゴラが万が一、リンセンテートスの首都セイルを落とした場合、隣国ハリアはカヒローネ同様臨戦状態におかれる可能性がある。逆に、もし我々が高みの見物をしている間に、ゴラがハリアと協定を結んでしまえば千載一遇の機会を失うかもしれません。ハリアはナクロ国を襲ったあと、リンセンテートスにも度々食指を伸ばした歴史があります。いくら転身人の〈先読み〉があっても、ゴラはすぐには大国ハリア相手に勢いだけの戦は挑まないでしょう。となれば、やはり協定をもちかける可能性があります」
「その場合のハリアだが……」
 腕を組んで目をつぶっていた海軍大将フィゴの、かすれた野太い声が響いた。
「西のハリア、東のハリア。さて、ウルムートはどちらを相手に選ぶのか」
「その通りです」
 カラギは静かにうなずく。
「逆に、グリトニル王太子側がウルムートに協定を働きかける恐れもあります。東のハリアは正統性を訴え自国の領主たちのみならず、諸外国に対しても手を打っています。もっとも、エリル公王を王と認めない国が存在するとも思えませんが」
 その場の誰もが、どちらと手を組むべきかをすでに判定している静かな笑みを浮べた。
「周知のとおり陛下は、前女王であるミレーゼ親王妃と信頼関係を築かれていられます。時間をおかずに動くのが賢明かと」
「リンセンテートスへは使者は出さないのか?」
「…………」
 グラハイドの言葉に、誰もがハッとした表情を浮べる。
「首都セイルはまだ無事なのだろう」
「ええ。国境各地で交戦状況に陥っている様子ではありますが。詳細に関してはまだ」
「わがダーナンとハリアがリンセンテートスに援軍を送り、ゴラを追い払うということではない、と?」
 カラギはグラハイドの矢継ぎ早の問いに、一瞬ためらいをみせる。
「追い払っただけでは、わが国の利益はありません」
「ゴラに襲われ弱ったリンセンテートスを奇襲すると?」
すると、それまで言葉少なにやりとりを見守っていたロディが口を開いた。
「ルキナが言っていた。あの国はすでに守護神であるビアン神から見離されてしまったと。ハリアのシーラ王女と婚姻の儀式を行ないながら、他国の王へと引き渡した。それが結果的に、わが妹フューリーを目前にして他国へ連れ去られることとなった。ハリアのミレーゼ親王妃は、フューリーを取り戻すために今日まで様々尽力してくれた。だが、ナイアデスはフューリーが私の妹と知らないとはいえ、ハリアの申し出を拒み、一向に返す気配がないというのは許されぬ行為だ。このまま指を加えて見ていれば、またナイアデスがリンセンテートスの援軍を仕立てて乗り込んでくるだろう。そして、ゴラ共々リンセンテートスを自国領にしないといえるだろうか。あの男は、わがダーナン帝国のように敵国に対して宣戦布告し、堂々と戦で勝敗を決めるのではない。神をも恐れない盗人だ。国を守りし諸国の神を冒涜して平然としている詐欺師同然の男だ」
 淡々と澄んだ声で語る姿に、誰もが吸い込まれる。
 決して激情しているのではないのだが、ロディの思いを誰もがわが思いとしてきただけに、フェリエスへ向ける怒りはその静かな表情から読み取ることが出来ないほど深いのを皆が知っていた。
「いまさら、リンセンテートスに温情をかける理由は見当たらない」
 カラギがロディの言葉にうなずき、その後を引き継ぐ。
「リンセンテートスにはカヒローネの部族長の名を使って、偽の書簡を送ります。内容はカヒローネがリンセンテートスに対してはまったく関与しないこと。その代わり難民も受け入れない。国境封鎖を行なう、と。カヒローネが動かないことでリンセンテートスはゴラとの戦いに集中してくれる。もちろんその内容はナイアデスのフェリエスにも筒抜けになるでしょう。カヒローネが動かなければ、ダーナンも動かない、と思わせるのが目的です」
 そしてカラギは、どのように動くのか策を説明し始めた。

 リンセンテートス進軍へ向けて念入りな打ち合わせが終る頃、海軍大将のフィゴルが手を上げた。
「では、われわれ海軍は待機でしょうか」
「ああ。イーリアのノアル海洋、特にノストール海軍の監視を任せる」
 ロディはうなずく。
「ただし、フィゼルは今回私の幕僚として参加させる」
「息子を?」
 フィゴルは意外そうな顔でロディを見た。
「海しか知らん奴です」
「海以外も知ってもらわないと私が困る。剣の腕が立つことは耳にしている。賢く聡明で、立派な好青年だという話しも」
 美しい笑みがフィゴルに向けられ、五十代半ばの元イーリア国海軍中将は顔を赤らめた。
 イーリアは海洋国家として長い歴史を持った国であり、フィゴルの一族は初代王の系列にあったが、長い間、他の臣下と変わらない扱いを受けていた。
 ロディは、ゼルバ、ハスラン、イーリア、キルルーサらを統合後、優秀な人物を次々と登用し、場合によっては以前よりも高い地位を与えた。
 フィゴルもその一人だった。
「末の子だろうから手元に置きたいだろうが、私も年の近い優秀な側近が出来ると安心できる」
 時折みせる寂しげな表情に一同は思わず、突如失踪したジュゼールを思いだす。
 ロディとリリアの説明では、ボルヘス王を殺害した犯人を追跡して城を出たというのだが、その後まったく音信不通となり消息がわからないのだ。
 安否を気遣いながらも、ロディがその名を呼ばなくなってからは、不安げな様子を察知して誰もがジュゼールの名を呼ぶことを控えるようになっていた。
「そういえば例の件はどうなっている?」
「奴隷商人の件でしょうか?」
 フィゴルの言葉に、ロディの目がうなずく。
 ここ数年、ダーナンの民と思われる人間が数千という単位でさらわれ、奴隷として他国に流出していると言った報告が寄せられているのだ。
「てこずっております。国内に協力者がいなければこうも多くの人間を国外に出すなど不可能。出来るはずがありません。」
「まだ、わからないのか?」
 ロディは静かに、グラハイドを見る。
「ノストール、エルナンには奴隷制がございませんので、奴隷自体は存在しません。ナイアデス皇国の奴隷はレジーと呼ばれる赤い髪や赤い瞳をもつレジディア人ですので、こちらも違うかと。そうするとおそらくリンセンテートス、ゴラ、セルグの奴隷市場へと運ばれているようです。ハリアという線もなくはございませんが……。ただどのようにして、誰が関わっているのかは、いまだつかめていないのが現状です」
 ロディの顔が険しくなる。
「早急に手を打てと言ったはずだ。私の民が、勝手に他国に奴隷として売られているのだぞ。この国の人間がさらわれ、辱められていることをもっと私の身になって考えろ」
 ロディは荒々しく椅子から立ち上がった。
「もしフューリーが同じ目にあっていたらと考えると身の毛もよだつ。そうした苦しみにあっている民を一刻も早く救い出し、取り返したいという私の思いをわからないお前達ではあるまい」
 テーブルに両手を叩きつけ、いつになく声を荒げたロディは唸るように叫んだ。
「一刻も早くその盗人を捕らえよ。そして、その者を皆の前にさらし、どのような善人の仮面をかぶっていようと剥ぎ取り、隠したすべての罪を洗い出し、述べ上げ、わがゼナ神の御力のもとすべての理より、円環の輪よりその者を追放し、未来永劫苦しみにのた打ち回る極刑を与える」
 全員がロディに続いて椅子から次々に立ち上がる。
 そして、右の拳を左肩上胸に当て、靴の踵を鳴らし、誓う。
「わがダーナン帝国の名の下、帝王のご命令を実行いたします」
 彼らの美しい君主は一人ひとりの顔を見つめて静かにうなずいた。


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