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第二十章《 失 月 夜 》

 ルナは日没を見ていた。
 美しい夕焼けが山河を染めていく。
 いつも見ている光景なのに、今日はまた特別な黄昏の中にいるようで、しばらく魅入られたように立ち尽くしていた。
「気が済んだか?」
「うん、ありがとう」
「昨日も見ていたが、そんなに夕日が好きか?」
 ラウセリアスに問われて、ルナは不思議そうな顔で答える。
「夕日も朝日も、夜も昼も全部好きだよ」
 洞窟を出てから二日目の夕日だった。
「ラウセリアスは?」
「私は全て嫌いだ」
「見えないから?」
「違う」
 ラウセリアスの右手には杖が、その左手は隣にいるルナの肩におかれていた。
 歩き続けながら小声でのやりとりが時折続く。
「嫌いなんだ……」
 その声に怒りが含まれているのが伝わってきて、ルナの脳裏に突如、忘れかけていたアウシュダールの叫び声が響いた。
――お前なんか死んでしまえばいいんだ。
 ルナはぎゅっと目を閉じた。
 憎悪を込めた叫び声が自分の中に刻印として刻み付けられていることを改めて気づかされる。
 同時に、ノストールの子供たちが死んで行くのを笑ってみていたあの顔を。
 忘れたふりをしても、避けようとしても、アウシュダールの怒りはルナの中から消えることはなかった。
 たとえアウシュダールに対する憎しみがあったとしても。
 急に黙り込んだルナに気づきながらもラウセリアスは、ただ先を急いだ。
 ランレイとヨルンもその後ろを歩き続ける。
 しばらく無言のまま、三人と一匹の足音だけが続く。
 昨日の朝から歩き続け、休み休みは来たものの、眠らずに歩き続けてきたのだ。
 目の見えないラウセリアスが敵に対してどのような用件があるのか、ルナはわからなかった。
 また、ラウセリアスに聞いても答えてくれそうにないこともなんとなくわかっていた。
 ただ、一歩踏み出すたびに嫌な予感が膨らんでいくるのをルナは感じていた。
 日はとうに没し、空には星々と月がその姿を現していた。
(天満月だ……そして、多分今夜は……)
 その時、ヨルンが小さく唸った。
「人がいるな。近くか?」
 耳を澄ますと、人の声と馬の嘶きがほんの微かに風に乗って届く。
「もっと下の方からかも」
 少し斜面になった草むらを、ランレイと両方からラウセリアスを支える格好で下りながら、三人は徐々に大きくなってくる喧騒に近づきつつあった。
 複数の男達の怒号が響き渡っている。
「先を越されたか……」
 ラウセリアスが舌打ちをする。
「ジーン、見えるか?」
「よくわからない。でも近くなのは確かだと思う」
 耳に届いてくる剣のぶつかり合う音、馬のいななきがすでに交戦状態に入っていることを知らせる。
 だが、高い木々や生い茂る草が行く手にいくつもあり、また山々が声を反響する為、どの方向で争いが起きているか特定しにくいのだ。
「いいか。ジーン、ランレイ」
 ラウセリアスはおもむろに立ち止まると、両手を後頭部に回して、鉄の仮面を外し、それをルナに手渡した。
 手渡された仮面はずしりと手に重かった。
「ここから先の決め事だ」
 いつもにまして低い声が、ことの重大さを言い聞かせるかのようにルナとランレイの耳に響く。
「私が指笛を吹いたら、目を閉じて地面に伏せろ。私がいいというまで、いや……日が明けるまでは絶対に顔を上げるな」
「どうして?」
 ラウセリアスはルナたちから顔を背け、残った目隠しの布の目隠しを結び直す。
 その後姿がひどく悲しげに見えて、ルナは不安な気持ちに揺れた。
「ラウセリアスは戦うの?  だったら僕らだって戦える。世話になってる分は役に立つから」
「違うんだ」
 冷静に感情を抑えた言葉が帰ってくる。
 だが、ルナの心に届いたのは血を吐く苦しげな声だった。
「夜の戦いは敵味方の区別がつきにくい。戦いに入れば私はあらゆるものを殺す。巻き込みたくはない」
(……どうして?)
 ルナは手にしたラウセリアスの仮面をじっと見る。
 仮面からは、悲しさと苦しさだけがあふれているようだった。
(心にする仮面だけじゃ足りないから?)
 二人を巻き込みたくないとラウセリアスは言った。
 ルナはハッとして顔を上げる。
(それって……たくさんの人を巻き込んできてしまったから……?)
――死なないで! もう、誰も自分のために死なないで!
 ルナがすがるように心の奥底から悲鳴を上げ続けてきた言葉。 
「失月夜を越えて……」
 そんなルナの思いに気がつかないまま、ラウセリアスは口調を明るく切り替えようと努めた。
「お前が私にその仮面を返してくれたなら、ディアードのことを教えてやる。この仮面の意味も……」
 だが、最後の言葉が途切れたまま沈黙が流れた。
 短くて長い一瞬。
 ルナはただ黙っていた。
 ラウセリアスの背負うものには多くの人の死があることを見たような気がしたから。
 そして、失月夜がこの人物にとっては簡単には越せない夜であることを。
「行くぞ……。今からは決して私の顔を見るなよ」
 そう言いきった厳しい声は、寂しげにルナの耳朶に響く。
「うん。わかった」
 ラウセリアスは再びルナの肩に手をおくと、《ルーフの砦》の仲間と、そして多分ナイアデス軍が争っているだろうその場所へ向うようにルナを促した。

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