第二十章《 失 月 夜 》
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失月夜――月蝕――が近づくと、盗賊団《ルーフの砦》は一種独特な雰囲気に包まれていった。
いつもは豪傑を気取る男たちが、時折なにかを気にするように辺りを気にする様子をみせた。
出会う相手と声をひそめて言葉をかわしては、足早に散って行く。
見えない不安におびえるような奇妙な光景が目に止まるようになった。
「失月夜がくるんだ」
ルナに真剣な表情でギルックが教える。
が、そう話している当の本人が何が起きるのか理解していない様子だった。
「失月夜……」
カイトーゼ、ギルックたちと合流したルナは、盗賊団《ルーフの砦》の縄張り一帯を、ギルックの仲間とランレイを含めた数人で巡回していた。
カイトーゼはルナに出会うと、俺の役目は終了したといわんばかりにその場からいなくなっていた。
今日歩く場所は、《ルーフの砦》からやや離れているが何度か歩いた場所でもあった。
ルナにはいくつか気になることがあった。
その場所について、いくつかギルックに聞こうと思っていたのだが、「失月夜」の話を聞いて、ルナは何年か前に見た夜を思い出す。
それはハーフノーム島にいた時、それも海のまっただ中にいた夜の出来事だった。
父親がわりであり、頭領であるジルに海賊船に乗ることを硬く禁じられていた頃。
ノストールの家族の元に帰りたくて、こっそりと船に潜り込んでいたある夜の出来事だった。
煌々と輝く天満月の輝きが、突然闇に侵食されていったのだ。
ルナは甲板の騒ぎを耳にして、そっと人気のない階段から甲板と空の様子をうかがった。
蝕が始まり、真っ暗な闇に覆われはじめた甲板では蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「アル神が消えちまう!!」
この世の終わりだとなげく者。破滅の訪れだと叫ぶ者。寝所の大部屋の隅に我先に飛び込んで震える者。
その時、頭のジルが船全体を揺るがすような怒号で一喝したのだ。
『失月夜は、アル神の怒りの声だ!
アル神が我々の心に真の闇がなにかと問われる声だ!
失月夜の月に泣き叫ぶ臆病者はこの船から今すぐ飛び下りろ!
臆病者に、夜を恐れぬ我がハーフノームの海賊の資格はない!
怯えて、隠れて、悲鳴を上げるバカな臆病者は引きずり出して海に放り捨てろ!
我らが海の女神ドナ神の怒りを受けろ!
月の女神アル神の嘆きの声を、その姿を焼き付けろ!
俺たちは、ハーフノームの海賊だ!
アル神の帰還を信じぬ愚か者は怒りを一身に受けて、ドナ神の審判を受けに海底に沈めてやる!』
かつて聞いたこともない怒号に、海賊たちは一瞬にして静まり返った。
夜空の銀盤の輝きが、大きな闇にジワジワと侵され失われて行くのを、彼らは歯を食いしばって見守りつづけていた。
夜の空に重なるもうひとつの闇。
まるで、闇が月を食べているようにも見えた。
甲板に浮かび上がっていた月影が消え、あらゆるものは漆黒の闇に呑み込まれて行く。
天も、船も、海も、濃淡のない闇黒に消されていく。
月のない新月の夜も、雲に隠れた夜空も人々は当然知っている。
だが、そうした闇とは明らかに違った。
自分の指一本さえ認識できない深い闇。
夜と闇の神エボル神の、いつもの安らぎを与える闇とは異なる恐ろしさだけの闇。
夜空に美しく輝き浮かぶ銀盤が、闇に削り取られ、呑み込まれ、闇に満たされる光景は、巨大な神の実在を感じさせ、自分たちから月も太陽も、すべての光を奪って行くような恐怖を与えた。
たとえ、失月夜を何度か経験している者がいたとしても、前触れもなく美しく輝く満月を削りとりはじめる恐怖の光景に、冷静にいられるものはいないに等しい。
天も地も区別することの出来ない闇の中で、海賊達は恐怖に顔をゆがませ、床なのだとわかる甲板に身を伏せ体を押し付けた。
自分の居場所を決して離れないように、闇に飲み込まれないように。
そうして震えながら、ひたすらアル神の復活を祈ることしか出来なかった。
恐怖に腰を抜かしそうになりながら、歯を食いしばり耐えるその男たちの姿も、圧倒的な恐怖につつまれながら、見えない敵と戦っているような壮絶な空間も、闇に溶け込んでなにも見えない。
誰も動かなくなった中で、ルナは階段からそっと外出て、甲板の上に出た。
「うわ…」
小さな声が微かに漏れた。
目を閉じていないのに、目を開いているのに闇があった。
けれど甲板の様子は手にとるようにわかっていた。
ジルの立つ場所も、仲間たちの位置も表情も。
ルナはアル神の戻ってくる場所に視線を向けた。
なぜわかっていたのか、という疑問は浮かばない。
ただ、わかっていた。
ルナは初めて見るその失月夜の光景を不思議な気持ちで見つめていた。
恐ろしくも怖くもなかった。
アル神はノストールの守護神で、ラウ王家とノストールの民を守ってくれている。
クロト兄上の「光の神リーフィス神に会いに行ってるんだ」という言葉を覚えていたから。
必ず闇の神と、光の神はすぐにアル神を返してくれると信じていた。
(会えるのがほんのちょっとだけなのは、寂しいから。少しでも長く会えているといいな)
ルナは自分の家族に会いたい気持ちを重ねていた。
(会って、笑った顔が見れるといいな)
ジーンとして生きるルナは、闇の中でそんな切ない思いに満たされていた。
「失月夜を見たことはあるけど、怖くなかったよ」
ルナは、失月夜を怖がっているようなギルックにそう教えた。
「え? 本当? みんなビビリまくってるんだぜ。蝕の夜は何度見たって奴も、次は絶対にアル神が消えちまってるかもしれないと思うと怖くて怖くて、絶対外に出ないって。なのに、怖くないのか? やっぱりすげーよ」
ギルックは感服した表情で両手を大きく広げてルナを賛嘆する。
そんなギルックを見ながら、ルナは疑問を感じた。
第一、失月夜に前触れはない。
なのに失月夜が来るという。
それがわかっているなら本当は心の準備も出来ていて余裕があってもいいくらいだ。
なのに、何日も前からこんなにも《ルーフの砦》の空気が張り詰めるように変化しているのは、なにか別の理由があるようで、違和感を覚えずにはいられなかった。
(他の理由?)
「失月夜は、ルージンたちも隠れるの?」
緑色の瞳にじっと見つめられて、ギルックはやや緊張したようにひきつり気味の笑顔を浮かべた。
「ルージンも『その日だけは俺たちはいい子になるんだ。日暮れと共に眠りにつくんだ』って言ってたから、だれも外へ出ないと思うぜ」
「そうなんだ」
(眠って朝になるのを待つだけなら問題ないはずなのに。変な空気が日ごとに大きく膨らんでいくのはどうしてだろう?)
ルナはひよっとしたらそれがディアードに関係することなのでは、と考えてみたりもする。
やがてルナは自分達がある場所まで着ていたことに気がつく。
「ギルック、あそこのことだけど」
視線の先に止まった石ばかりが円を描くように並べられている対面の山の崖下を指さした。
ルナの指差す場所は、どの位置から見てもひどく分かりにくい場所にあった。
最初は何度説明されてもギルックはそれがどの場所かわからないほどだった。
ようやく地形や他の地形を組み合わせて、どこを知りたがっているのかを理解する。
「あそこは何があるの?」
「墓場だよ」
「え? だれの?」
一瞬驚いたようなルナの表情に、今度はギルックが少し先輩顔をして笑みを浮かべる。
「はっきりとしたお触れは出ていないが、近寄らない方がいい場所だぜ。出る、って噂だから」
「出る? なにが?」
「死者の亡霊」
「ギルックは見たの?」
「俺は信じてないからな。けど、度胸試しで何人か行く馬鹿な奴っているだろう」
「うん」
「帰って来た奴は、いないぜ」
「…………」
「ギルックの知ってる人も?」
「俺の知る限りでも、三十人は下らない。もっともたどり着く前に体中を真っ赤とか、黄色とか、何色にも染まったような色になって死んでしまうらしい。結局、死体はその場に埋めていくから、どんどん墓場らしくなってるんだけど」
ルナは、いつも隣にいるランレイにちらりと視線を送ると、今の言葉は本気にするべきかと小首をかしげた。
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