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第十九章《見えざる手》

 暗闇だけが支配する空間。
 時間の流れという動きがあるという概念さえも、喪失させてしまうような虚無の世界がそこにあった。
 そこが、一体どこで、いつから存在しているのか。
 その存在すら知られることがない世界が確かにあった。
 永遠の静けさ。
 永遠の深い闇。

「あの世界は居心地いい。よすぎるぐらいだ」
 暗闇の夜。
 灯りのない部屋の中で彫像のように立っている美しい面差しをした青年は、足元にひざまずいている黒装束の男を見下ろしながらなつかしそうにそう静かに語りかけた。
 暗闇に浮かぶ陶器のような白い肌は透けるほどであり、血のように深紅の口元には、うっすらとした笑みが浮かんでいる。
「闇の中にある者は、光の存在を知る。だが、光の中にある者は、闇の存在に気づかない――感じもしない。愚かなことだ」
 青年は瞼を開き、その神秘的にして魅力的な美しい瞳で、足元の男に微笑みかける。
「人間は光を求めるが、時にそれを嫌う。そして、闇を嫌うが、時にそれを求める生き物だ」
 彼が言葉を発するたびに、二人のいる室内はさらに漆黒の闇を増していくようだった。
「イルアド。ナイアデスの王はまだ目覚めたばかりのひな鳥だ。己が空を飛べる鳥だと気がついたにかかわらず、まだ飛ぶことさえできない。せっかく翼をもっているのだからね。飛び方を教えてあげたいんだよ」
「ですが……。まだ鳥の種類が分かりませぬゆえ、危険かと」
「心配性ね。だから、育ててみたいのよ」
 会話に幼い少女の甘やかな、だが感情のない静かな声が割って入った。
「退屈しのぎに育ててみるかい」 
 青年は、くすくすと笑いをかみしめるように暗闇に存在する少女に視線を向ける。
「私が育てたのでは、弱点さえ知り尽くしてしまい面白みに欠けるだろう。お前ならきっと私を楽しませてくれる」
「強敵に育ってしまうわ。思惑どおりにはいかなくなって、後悔するかもしれなくても?」
 ひんやりとした波動が空間の温度を下げていく。
「それもまた我が願い。だが、私には見えてしまうのだよ。〈ユナセプラ〉を知らない転身人たちの末路が……」
「どうなるの……?」
 〈ユナセプラ〉という言葉に触れて、少女の声が少しだけ震えた。
「お前はすでに私の腕に抱かれている。安心して、私に対治できるほどの転身人を育て上げてごらん」
 青年の瞳は、見えないはるか彼方の世界を見ているようだった。 
「その為にきっかけを作ってあげよう。ハリアとナイアデスが動くようにね。女神エボルは誓約の破綻に怒りを覚えている。ハリアに二人の王が存在する。一人は誓いの指輪を得た王子。そして、もう一人の正当な血筋のハリアの新王は……興味深い色彩を放っているが……しょせんは人間。まずは、ナイアデスの王――転身人――が、このラーサイルをどうするのか、私はしばし静観していようと思う。お前が育ててごらん。私には倒せないほどの力をもつ存在になれるようにね。イルアドは、手助けを」
「御意」 
 青年は楽しそうな笑みをこぼす。
「見ていてごらん。お前たちにも想像がつかない世界を見せてあげよう。やがて人々はあの美しい世界を求めはじめる。〈ユナセプラ〉の時間が始まる。それ知る者だけが真にこの世界を統治しゆく者になる」

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