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第十七章《 国境を越える時 》

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 その時、声が響いた。
「闇に似せし存在よ。影なる存在よ。すぐにこの場の戒めを解き、私の前に膝をつき、頭を垂れ、服従の意を示せ! 闇にあって闇ではなく、神の衣に隠れし影よ! わが前に伏せよ!」
 凜とした声が室内に響き渡り、その場のまがまがしい空気を光を放って突き破った。
 舞踏会に集い、この騒動に騒然としていた人々は、衛兵らが開け放ったままの扉の前にたたずむ二人の人物に目を向け息を呑んだ。
 一人は薄紫のアンナの装束に身をまとった女性、そしてもう一人は――。
 青味がかった髪、澄んだ蒼い瞳の青年がミレーゼを襲うように渦を巻いている黒い霧を威圧するように強い眼差しを向けて立っていたのだ。
 それは、六年前に宮殿から忽然と姿を消した少年の成長した姿だった。
「エリル!」
 叫んだのはミレーゼだった。 
「エリルなのね!」
 ミレーゼは、突然の出来事に身動きの取れないレイドリアンや兵士らを強引に押しのけて、エリルに向かって走り出そうとした。
――貴様……
「ヴァルツ」
 エリルがその名を呼ぶと、黒い霧は嫌がるような意識を見せる。
「やはり、お前はヴァルツだな。エーツ山脈で出会い、ブレアの町を襲った妖獣。お前とはやはり縁があった。その《エボルの指輪》の正当な後継者こそはこの私だ。お前は知っている」
 エリルは手にしていたナーラガージュの杖を、霧から獣に変化しようとしているヴァルツに向けた。
 途端に、変化は解かれ霧が薄れていく。
「指輪に取りついているお前は何者だ? 指輪の守護妖獣か? 否か? 答えよ!」
――チッ……。
 ヴァルツは舌打ちを残すと、現れたときと同様に黒い渦を巻き起こして消え去った。
 同時に、その場からはサトニとグリトニル王子、そしてメイヴ妃の姿もかき消えていた。
「しまった……」
「逃げられちまったよ。エリル」
「うん……」
 エリルがアンナの装束をまとったネイと視線を合わせる。 
 その装束はずっとエリルが身にまとっていたものだった。
「エリル!」
 ミレーゼの声が響く。
 その声を耳にして、エリルは顔を上げてネイをいざなうと歩き始める。
 人々は突然のエリルの帰還に、ただただ驚愕の表情を浮べながら二人のためにその場をからさがり、道を作った。
「姉上様」 
 ミレーゼの前に進み出ると、エリルは右手を心臓に当て、深々と頭を下げた。
「長らくの留守。ご迷惑をおかけしました。姉上様にはご健勝のようでなによりでございます」
「エリル……」
 ミレーゼのこわばっていた表情がエリルが近づくに連れて、徐々に安堵したものに変わっていく。
 いつしか自分よりずっと背の高くなった弟の姿を、唇を噛んだまま、懐かしそうに見つめる。
 ガーゼフに命を狙われてからは、狂態を演じることでしか生き延びる道がなかった幼い弟。
 六年前に突然姿を消し、ずっと安否を心配をしてきた弟。
 エリルが帰ってくるこの日が必ず来ると信じて、ミレーゼは己を殺しながらただ待ち続けてきたのだ。
 本当は玉座になど座りたくもなかった。
 メイヴ妃の正体に気がつき、民の憎しみを引きうけ、操り人形のような役回りを演じ、本当の自身を殺してまで欲しい場所ではなかった。
 なにも告げずに姿を消した弟が、笑顔で帰ってくる今日のこの日が来ることを信じて、ミレーゼは玉座に座り続けたのだ。
「顔をあげて、エリル」
「はい。姉上様」
 震える声に顔を上げたエリルの目に最初に映ったのは、怒りに満ちたミレーゼの顔だった。
「エリル。あなた……今までどこをほっつき歩いていたのよ。だいたいあなたがいなくならなかったら、私はこんな目にあわなくてすんだのよ! 毎日毎日食事もできないくらいの書類に目を通して、サインをして、会いたくない人に会って、笑顔を作って、何の自由もなくなって、毎日毎日腹の立つことばかりで、あげくの果てには危うく母上のように殺されるところだったのよ。なんで、もっと早く帰って来なかったのよ!なんで……もっと……」
 だが、言葉とは裏腹にミレーゼの瞳には後から後から真珠のような涙がこぼれ落ちていた。
「申し訳ありませんでした」
 エリルは、自分が気ままに旅をしていたときに姉に想像以上のつらい思いを背負わせていたのだと初めて実感し、自然に手を伸ばす。
「本当に、殺されるところだったのよ。エリル……」
 ミレーゼは広げられたエリルのその胸にしがみつき泣き続けた。
 そして、そのミレーゼを抱き寄せたまま、エリルの突然の帰還と、後継を名乗りながら消えてしまったメイヴ妃とグリトニル王子に、混乱した表情を浮かべている人々に対し、エリルは振り向き呼びかける。
「私はこの六年、ハリア公国から過去に持ち去られた《エボルの指輪》を探して旅を続けて来た。あの少年がもっていた指輪は多分本物の《エボルの指輪》だと思う」
 おお……と、人々の間でざわめきが起こる。
「けれど、指輪はすでに傷つき効力を失っている。あの妖しの獣も、真に指輪の守護妖獣なのか、神の手から離れたただの妖獣なのか、それとも禍々しい力に魅入られた妖獣なのか、今はまだわからない」
 よく通る声が、この王子が聡明な資質を備えていることを充分に知らしめた。
「ただ一つだけ言えるのは、あの妖獣はわたしがいる限り、ハリアの王の座を脅かすことはできないということだ。あの者は私には近づけない。なぜなら、わたしがこのハリア公国の真の後継者であり、ハリア公王となる者だからだ」
 人々の前に立っていたのは、六年前の無知で奇妙な振る舞いをする少年ではなかった。
 知的な表情に凛々しさをたたえた理想的な王太子……いや、統治者の姿だった。
 王座に触手を伸ばした邪まな者を一瞬にして追い払い、困窮しているハリアを救うために現れた彼らにとっては待ち焦がれていた王の姿そのものだったのだ。

第十七章《国境を越える時》(終)

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