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第十七章《 国境を越える時 》

 ハリア公国の首都モルカの王宮では、このところまことしやかに囁かれる噂があった。
『数年前から、ミディール妃の亡霊が王宮のあちこちに現れるらしい』
『王宮内の人気のないところに碧いドレスを着た女がいるので見張りの兵が声をかけたら、スーッと目の前で消えたんだと』
『夜ごと、行方不明のエリル王子をさがして城下をさまよっているらしいぞ』
『エリル王子も亡くなったとか……。生きておられれば十九歳だったのに……』
 いつのころからかそんな噂が広がり、兵士たちは不安を募らせていた。
 しかし、それはハリア国内の現在を象徴する出来事の一部にすぎなかった。
 六年前の内乱に伴うヘルモーズ王の退位と、王太子エリルの失踪、暫定王としてのミレーゼの即位、王女シーラのリンセンテートスのラシル王との突然の結婚解消と失踪、その後のナイアデス皇国での婚儀にともなうリンセンテートスとナイアデス皇国との不和、国交断絶、近隣諸国との緊張関係、国政の乱れ、地震と農作物の不作に伴う飢饉など、国中が不安と緊張と、不満の渦に包まれていた。
 さらに二十一歳となった若き暫定王ミレーゼ女王の統治に対する国内外の評価は悪評を極めた。
 わがまま女王が国を危険な状態にさらしており、このまま婿をとって結婚し、そのうち暫定王ではなく事実上の王位を継承するといいだすのではないか、そうなれば国は疲弊し、自滅していくとの見方をする者も多かった。
 そして、王太子エリルがいない今は、翌年十五歳を迎えるグリトニル王子に王位を継承させてはいかがなものかという意見まで水面下でささやかれる事態となっていた。

「そのようなつまらない噂など気になさってはいけませんわ」
 午前の国務を終え、怒りに満ちた形相で食卓の間に現れたミレーゼを見て、メイヴ妃は物静かで冷静な家庭教師のような表情で女王をなだめる。
「陛下が激務に耐えて、国を支えられているのはこのメイヴがおそばでしっかりと見て存じております。民は、王家に不満をぶつけることで個々の怒りを解消しているのですから」
「怒りは次の怒りを生むわ。民の怒りは、私の怒りを呼び起こし、次の怒りを生み出すわ。とめどもなくね。解消なんてするものですか。今日のお茶の様子伺いはだれなの?」
 メイヴ妃が食後の午後のお茶の時間に同席するダルクス大臣や貴族諸侯の名をつげると、ミレーゼはありありと不快な表情を浮かべ、座ったばかりの椅子から立ち上がった。
 部屋の空気が張り詰めたものに変わる。
「気分がひどく悪すぎるので午後の接見はすべてとりやめにするわ。ダルクスには日をおいて別の日にでも出直すように伝えて」
 同席したお付きの貴族達の顔色がみるみるうちに色を失っていく。
「陛下、お待ちください」
 食事に手もつけずに扉に向って歩き出し、立ち去ろうとするミレーゼに側近のレイドリアンが駆け寄り、行く手を遮るように立ち塞がった。
「おどき!」
 叱咤するような声に息をのみながらも、ミレーゼの側近となって二年足らずの長身で体型も大型の貴族の青年は、真剣な瞳で主を見つめて小声で諌めた。
「ダルクス大臣は確かにうるさ型の諸公の中に属されておりますが、陛下にとっては必要な方です。どうかご気分をおなおしになってお会いください」
「誰にものを言っているの? たかが護衛のくせにでしゃばらないで。私は気分がすぐれないといっているでしょう。早くそこをどきなさい」
 叱責と、大きな碧い瞳から放たれる強い視線を向けられて、大の男はたじろぐ。
 それでも、何度も息を整えながら片膝を絨毯につけて、頭をたれる。
「陛下がおかれております現在の状況を考えると、お止めしないわけにはまいりません。これ以上の……」
「レイドリアン」
 ミレーゼではなく、背後からメイヴ妃の穏やかな声が言葉を遮る。
「陛下は本当にお加減がよろしくないのですよ。それなのに臣下のあなたが気をつかわずにいかがするというのです。ミレーゼ陛下、どうぞ午後の接見はお気になさらずにお休みください。わたくしがいつものように代行を努めさせていただきます」
「よきにはからって」
 ミレーゼは振り返ることもせずに、そのまま食卓の間を去って行った。
 片膝をついたままのレイドリアンは背後の貴族達の失笑を背に受け唇を噛み締めた。
 こうして若き女王ミレーゼを甘やかし続けるメイヴ妃の心境が理解できなかった。
「陛下……」
 無常に扉が閉まる音を聞きながら、立ち上がる気力も沸かずレイドリアンはそのまま頭を垂れているしかなかった。

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