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第十七章《 国境を越える時 》

 ブレアの町に戻ったエリルは、真っ先にネイのもとに駆けつけるとセルジーニに調合させた薬と護符を与えた。
 そして、自らは一刻も早くハリアへ帰国するつもりで動き始めた。
 だが、王都へ帰る計画を立てるうちに、大問題に直面した。
 それは、リンセンテートスとハリアを隔てる国境の役割を果たしている大河ミナラスを越えなければいけないという現実だった。
 エリルがハリア国を出た当時は、王女シーラのリンセンテートス王への輿入れ話も進んでいたことから、両国の間は友好的だった。
 商人らの出入りも活発に行われ、規制はあったものの、ミナラス河を越えることはさほど難しいものではなかった。
 だからあの時、エリルは商人たちに紛れて船に乗り、苦労することなく国から出ることができたのだ。
 しかし、今状況はまったく異なっていた。
 リンセンテートスは、ラシル王の側妃として入国したシーラを、ハリアに無断でナイアデス皇国のフェリエスの妃として差し出したのだ。
 当然ハリアは激怒し、国交は断絶してしまっている。
 港も国境も封鎖され、リンセンテートスとハリア間を行き来するというのは、今では至難の業だった。
 ダーナン帝国、リンセンテートス、ゴラ、ナイアデス皇国、いずれも大河を国境として隔てられ、ハリアは存在する。
 ミナラス河を越えずして故郷に帰ることは不可能だった。
 闇商人たちが漁師を装って両国間を行き来しているらしいという噂話は宿で旅人たちから耳にはしていたが、エリルはその闇商人たちを知るつてもない。もし運よく探し出せても、交渉する大金がなくては話にさえならない。
 それに、アンナと偽ったままては王家とのつながりを恐れられて、逆に警戒される。かといって、この姿を解く気にはなれなかった。
 アンナの一族としての身分は想像以上にエリルの身を守ってくれてる。
 ナーラガージュの杖をはじめ、エリルにこの装束を身につけることを許してくれたアンナの長ジーシュの強力な守りの術が施されているのを感じないことがないほど強い護りだ。
(アンナとして、ハリアに渡るべきか、それとも・・・。いや、その前に入国する途を考えないと)
 地図を睨んで、唸り続ける時間をすごしていた。
「今日も成果なし、って顔に書いてあるねぇ」
 薬を煎じて持ってきたエリルにネイが口元に笑みを作りながら声をかけた。
「わかりますか」
 エリルは思わず大きなため息を吐き出す。

 エリアが旅を続けたいと話を切り出したとき、ネイは淡白なほどエリルとの別れに驚いていない様子で「目的地はどこなんだい?」と、エリルにヨール羊皮に描かれた地図を広げさせた。
「ハリア公国です」
「ハリア?」
 エリルの予想に反して、大陸図に見入ったネイの顔をエリルは思わず覗き込む。
「少しは寂しいとかって、思ってくれています? 驚いてますか?」
「もちろんさ。あんたにはずいぶん世話になったし、いい旅仲間だし・・・ジーンも打ち解けていたし……。ああ、ここからだと結構、北上して、でっかい河をわたったところにある国なんだな。ミナラス河ってけっこうでかいんだ」
 国もでっかいんだなぁ、と視線は地図に釘付けになったままで、エリルは思わずネイから地図を取り上げて背中に隠す。
「なにするんだよ」
「ちょっとは寂しがってほしいと思って」
 真顔ですねた子供のように自分を睨みつけるエリルにネイは吹き出す。
「あんたを気持ちよく送り出してやるんだ。いいだろう。それとも、行かないでって泣いてすがっほしいのかい?」
「そういうわけじゃないけど」
 あまりに楽しそうに笑われてエリルはますますむくれた顔になる。
「一人残るのは寂しくないですか?」
「寂しくないとはいわないさ。でも、待っている人間がいれば、ジーンは生きようとする。あたしを置き去りにはしたくない奴だからね。灯台の役を味わうのもたまにはいいさ」
「ネイの中心にはいつもジーンがいるんですね」
「あたりまえだろう」

 そんな会話を交わしてから、数日が過ぎた。
 だが、ブレアの町にいたままでは、はるか先にある国境近辺の状勢や、ミナラス河の港の情報を得られない。
 町へ訪れる商人をつかまえてはいろいろと情報を仕入れるのだが、ハリアへ渡る手段は皆無に等しかった。
(まず国境まで行こう)
 そう決心をしつつ、地図を凝視するエリルにネイが声をかける。
「あきらめて、ゴラかナイアデスまで行ってから船に密航したほうがいいんじゃないのか? 封鎖されてちゃ船は出ないんだろう」
「時間がないのです。こうしているのももどかしいのに」
「?」
「ハリア国に厄災が訪れるのです。それを知らせなくてはならないのです」
「あんたはアンナの一族だろう。〈先読み〉やら、占術の力で、なんとかできないのか?」
「アンナは基本的に放浪民族のようなものですが、国境を封鎖している国から国に渡るのは、その身分をもってしても難しいのですよ。しかも、〈先読み〉できるアンナが敵国に渡るのを黙って見逃す国なんてないですからね。とくに一人旅ではいろいろ理由をつけて自国に留まらせようという力が働く。私の力はアンナでも下のほうです。〈先読み〉なんて・・・。一緒にいたのだからネイはわかっているでしょう」
 エリルは残念そうにため息を吐く。
「まぁ、ね。なんとなくそうかな、とは察してるけどさ。いろいろ。でも、その国に悪いことが訪れるのはわかってるんだろう?」
「仲間から……」
「ちょっと、貸しな」
 言いながらエリルの手元から地図を奪うように取り上げると、ネイは地図をまじまじと見る。
 動きも素早くなって、時折顔をしかめることはあったが、かなり体調も回復してきたようだ。
「何度見てもすごいねぇ。陸地も、海も、山も、国境まで詳しく書き込んである。こんな見事な地図があるなんて信じられないよ。本当すごい。これに海流を書き込めば完璧だよ」
 感嘆のため息をもらす。
 地図はハリアから出る時に持ち出したものだった。
「あたしなら渡れるけどな」
 散歩に行くような口調でそう言うネイに、少し呆れたようにエリルは力なく首を横に振る。
「現実を知らない人は簡単に考えるんでしょうけど。国境大河を越えるのは並なことじゃない。エーツ山脈を越えるのとはわけが違います」
「だから、でっかい河を渡る話だろう」
「そうです。アンナのわたしが難しいのに、ネイには無理ですよ」
「本当なら、賭けてもいいんだけどな?」
「え?」
反論するエリルを見て、ネイはニヤリと笑う。
「今まで黙っていたけどさ、実はあたしとジーンは海じゃちっとは名の知れた海賊だ」
「はぁ?」
 意表を突く言葉に、エリルは瞳を見開いてニヤニヤと笑う目の前のネイを、ポカンとした顔で見つめる。
「海賊なんて、そんなこと一度も話してくれたこと……ないじゃないですか。だって、ノストール出身だって言っていたし」
「ジーンの生まれ故郷はノストールだって本人は言ってる。それにランレイはノストールの村の子供だ。知ってるだろう。あたしは、今はダーナン帝国にのっとられた国で生まれた。でも、あたしとジーンの帰る場所はノストールの外海にあるハーフノーム島、海賊島だ」
 初めて聞く島の名前に、エリルは目を丸くする。
「ハーフノームの海賊……? だったんですか……」
 エリルも、名前だけなら聞いたことはある。内陸でも有名な大海賊だ。
 巨万の財宝を海で稼ぎ、自分達の島々を持ち、南の海を支配する。出会ったが最期、すべてを奪われ、忽然と姿を消す、と。
 なにやら想像してみるが、その噂と、目の前のネイやジーンとは重なることもなく、どうもピンとこない表情で首をかしげる。
「もっとも、あたしらはまだ半人前みたいなもんだけどさ。この地図で見る限り、問題はこの大河だろ」
 ネイは、リンセンテートスとハリアを分かつ河に指先を落として示し、ゆっくりとなぞる。
「小船でも盗んで夜に出港すればいい。それだけだろう。簡単な話じゃないか」
「夜……? 無茶を言わないでくださいよ」
 エリルは脱力したように、首をガクリと前に倒した。
「夜に船を出すなんてそんな話聞いたこともありません。ありえません。そんな危険なこと誰もしませんよ。海賊なのにそんなことも知らないんですか? 名案があるのかと思ったら出来ないことを言わないで下さい」
 船を操る者は、決して日の沈んだ海や河に出てはいけない――。
 それは当たり前のことであり、船乗りの掟だった。
 夜の水中には魔物が現れる。眠りについたミナラス大河の神を起せば逆鱗に触れると信じられているからだ。
「ミナラスの神は大河の神。けど、女神ドナは海の神だ。
「普通は掟に縛られる。けど、あたしらハーフノームの海賊だ。夜の海をこわいとは思わない。怪物も、嵐も、掟も恐れない。海の女神ドナを恐れない者が、どうして河の神ごときを恐れるのさ。嵐の夜に船を出したこともある。ちっちゃいグート船で月のない闇を抜けたこともある。数えたらきりがないほどだ」
 衝撃的な話にエリルは、ぽかんと口をあけたまま、ネイの自信に満ちたその表情を見ていた。
「あたしだったら、まず適当な船着き所を見つける。船はかっぱらうか、金で動くふきだまりの連中をひっかければいい。それで、月のない夜に出る。夜に船を出す奴はいないから警備は手薄だ。国境警備の奴らは夜はやることがないと信じてるから人数をおいていない」
「まるで見てきたみたいですね」
「言っただろう、あたしらは夜の海を恐れない海賊だって。港町のことなら手に取るようにわかる。でっかい河だって経験してる。この河の神様の名は知らないけどさ。追っ手のかかりにくい確実な方法はこれに尽きる。例え見つかっても相手は負ってこないからね。でも、それを実行できるのは、この広い世の中でも、あたしらハーフノームの海賊ぐらいだろうけどね」
「うーん」
「あたしとジーンが手伝ってやれないのが気の毒だけど。闇商人を見つける方法はいくつか伝授してやるよ。そのかわり失敗したら命は失う」

 ネイとの話のあと、エリルは旅支度を整えながら様々に思いを巡らした。
 エリルもこれまでの旅の中で、様々な経験は積んで来た。だが、さすがに船を盗むという発想は思いもつかなかった。
(船ってどうやったら盗めるのかなぁ…。でも、わたしは操縦できないから、やっぱりだめだ)
(密航させてもらうにも、どんな相手を信じていいのか。それに、闇商人と出会うまでが危険すぎる)
(一か八か、天運にかけてみるか?)
 考えれば考えるほど、いかにハリアへの帰路が困難であるかがわかって来て、エリルは頭を悩ませた。
 そして、ついに考えに考えたあげく、エリルはネイに同行を頼み込んだのだ。
「ハリア国に渡れたら、絶対に安全にハリア国からリンセンテートスへ送り届けますから、お願いです。一緒に来てください」と。
 もちろん、ネイは断った。
 自分の怪我がまだ治っていないことや、自分はジーンの帰りをここで待つと決めた以上、動くわけにはいかないと、冷たいまでにきっぱりと断ったのだ。
 だが、「だったら、あたしならできるとか、期待を持たせるようなことを言わないでいてくれたら良かったのに」とか「本当は名のある海賊だっていうのは、冗談だったんですね。暇つぶしの相手にちょうど良かったんでしょう」「別に自分が行くわけじゃないから、夜に船を出せるとか、いいかげんな話ができるんですよね」と、町にも出ないでネイのそばで一日中、繰り返した結果、「行けばいいんだろう」と苦痛に根をあげたネイの口から、ハリア行きに同行する言葉を引き出すことに成功したのだ。

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