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《第十六章 封 印 》

「ルナ様を罰する者なんておりません。次はご自分が忘れられる番だというのは変な気がします」
 エディスは月を見つめながら、何かを感じているかのようにその光りに目を細める。
「月の光が弱くなっています」
「光?」
 ルナも月を見上げるが、エディスの言ったようには感じない。
「いつも優しくて、母上が見守っていてくれるみたいな光だよ」
「そうですね。ラマイネ様はルナ様を覚えていてくださっているのでしょう?」
 エディスの言葉に、ルナは母とのつかの間の出会いを思い出す。
 しかし、今ノストールから遠く離れたこの地にいると、それさえも夢の中の出来事だったような気さえする。 
「それに……ルナ様のことを忘れて苦しんでいる方もいらっしゃいます」
「そんなことないよ。忘れてるのに、苦しいなんてことないよ」
 エディスの意外な言葉に、ルナは思わず反発するように叫んでいた。
「だって、テセウス兄上は『砂漠の子?』って聞いた。ルナのこと忘れてた。覚えていないのに、忘れているのに、どうして苦しむの? どうしてそんなことわかるの? アルクメーネ兄上だって忘れてる。クロト兄上が覚えていたらダイキと一緒にエーツ山脈をあっと言う間に越えて探してくれる。だれも覚えてない。忘れてて、苦しいわけない」
 エディスの言葉ひとつひとつに敏感に反応を見せるルナを、切なそうにエディスは見つめる。
「大切な人を忘れた人の心も、とても苦しいのですよ」
 数日前出会ったテセウスの苦渋に満ちた顔が蘇る。
 雪山でノストールの幼い少年たちの命を守れなかったこと。
 その記憶を失っていたことを思い出した時の様子は、見ているエディスの心さえ押し潰されそうだった。
 そして、いまだ思い出せない記憶があることをテセウスは気づきはじめていた。
 その思い出せない「なにか」を懸命に思い出そうとしている。
「そんなことないよ! だって」
「ジーン」
 おもむろにそう呼ばれて、ルナは言葉を呑んだ。
 エディスから別の名で呼ばれた。
 その衝撃に声が詰まる。
 急に不安が訪れ、顔がこわばった。
「ルナ様の名は、しばらく封印いたしましょう」
 ルナの翠色の瞳が大きくなる。
 思いがけないエディスの言葉に、ルナは呆然とした。
「封印……って、何?」
 名の封印という、初めて耳にする言葉にルナは戸惑う。
 意味はわからないがとてつもない恐怖が襲い掛かり、心臓が突然早鐘のように鳴り出す。
「封印を行なった後は、ルナ様ご自身の口からルナ・デ・ラウの名を名乗ることは出来なくなります」
「そんな!」
 悲鳴に近い声が、ルナの口から飛び出した。
「どういうこと? ルナって言っちゃいけないの? 今、怒ったから、エディの言うこと違うって言ったから、怒ったの? ごめんなさい。謝るから……エディス。ごめんなさい」
 エディスの両方の腕をつかんで懇願するルナを、紫の美しい瞳が苦しそうにみつめる。
「違うのですよ。ルナ様。怒ってなんておりません」
 エディスはルナの感情を落ち着かせようと、静かにほほ笑みかけた。
「よく聞いてくださいね。もしも、テセウス様と砂漠で出会ったのがハーフノームの海賊の頭の子ジーンなら、逃げ出しましたか?」
「?」
 混乱するルナには、エディスの問いかけの意味がわからない。
「もし、あなたがルナ様ではなくて、ジーンとして出会われたなら、テセウス様ともっとお話しができたのではないでしょうか?」
 ゆっくりと一言一言区切るようにエディスはルナに語りかける。
 ルナが理解できるまで、二度、三度、エディスは繰り返した。
 やがてルナは、瞳を潤ませながらもコクリと頷いた。
「うん……。でも……」
「広い砂漠でお会いできたのは意味のあることです。何がお兄様方の身に起きたのかを知る機会でもあったはずです。ジーンの名をお伝えできれば、ノストールへ戻られた際にお会いする機会を、次のお約束を残すこともできたのではないでしょうか?」
 ルナは、徐々にエディスの言葉の意味がわかりはじめて、自分を見つめる眼差しをしっかりと受け止めた。
「ジーンとして?」
「お兄様方との新しい絆を、ジーンとして、ルナ様ご自身がつくってください。そのためにも、今のルナ様には、『ルナ・デ・ラウ』の名がご自分を苦しめているように思われます。亡きカルザキア王とのお約束を果たすためにも。そして、これから兄上様方にお会いするときが巡り来ても、ルナ様が逃げ出す必要がないためにも。『ジーン』としてディアード様をお探しになる旅をお続けください」
 どうして自分は逃げ出すのだろう……と、ぼんやりとルナは思う。
「エディス。海賊の頭の息子のジーンは、兄上方には近づけないよ」
「ルナ様」
 エディスは静かにその名を呼ぶ。
「テセウス様と出会えたこと。私とこうして出会えたこと。その出会いは偶然ではないと信じてください。もっとご自分を信じてください」
「でも、いつまで? 封印って……いつまで?」
 エディスの言葉の意味がわかっても、ルナはもう二度と名乗ってはいけないと宣告されたようにしか受け取れず、震える声で問いかけた。
「三人の兄上様のどなたかが、ルナ様の名を、ご自身の意志で呼ばれるときまで」
「自分で、ルナだって名乗れなくなるの?」
「はい」
 絶望の闇が全身に襲いかかってきそうだった。
「嫌だ。やっぱり、名前の封印は絶対いやだ」
 エディスは唇を結んで、首を横に振る。
「だって! そんなこと無理だよ。忘れちゃってるのに、覚えてないのに、ルナのこと忘れてるのに! 兄上と会えないかったら、ずっとジーンのままなの? リューザもいなくなって、ルナの名前もなくなったら、どうやってノストールに帰ればいいの? アウシュダールがお城にいたら、母上にも会えない。エディス、待って!」
 だが、エディスは両の手の平を胸の上で軽く交差させ、ルナを見つめながらその桜色の唇をひらいた。
「エディス・ラ・ユル・アンナの名の下、ここにルナ・デ・ラウの名を封じます。そして、エディス・ラ・ユル・アンナの名のもとジーンの名に、しばしの〈祝福〉を与えます。この名が、あなたを守ってくれますように」
 エディスの切なげな紫色の瞳から涙があふれ出た。
 ラウ王家の一員としての名を封じられることは、その身を失うに等しいことをエディスは知っている。
 だが、エディスは封印を行った。
「…………」
 ルナは放心状態のまま、名を封じられた衝撃に言葉さえなくしていた。
「ジーンの名に〈祝福〉を」
 エディスは、ルナをやさしく抱き締め、輝く月を見上げた。
「時がまいります。それまでどうか、ジーン様をお守りください」
 声には出さない言葉がその唇にかたどられていたが、ルナは知ることもなかった。

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