《第十六章 封 印 》
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自分の部屋に戻ったアルクメーネは、窓辺に近づくと夜空を見上げた。
宵闇の空高く、遠い異国にあってもノストールの民を見守り続ける守護神・アル神の銀盤の姿が輝いていた。
「今日は天満月でしたね」
アルクメーネは途方に暮れたように、月を見上げたまま、深いため息を吐き出す。
イズナの言葉はもっともだった。
適切な処理だということは痛いほどわかっていた。
王家の人間は、たとえ肉親であっても流行病を患っている者の病床には一歩たりとも近づくことは許されなかった。
感染し次々と病人や死者が出れば王家の存続はもとより、国の安定を揺るがすことになるからだ。
「わかっています……でも……」
アルクメーネは、自分の体を両手で抱き締めるようにしてきつく目を閉じた。
しかし、心の奥底から自分をつき動かす激しい感情にあらがうことは不可能に近かった。
「あの子のそばにいてあげたい……助けたい……死なせたくない……」
ただの通りすがりの存在のはずなのに、アルクメーネの心はひどく動揺していた。
その理由を何度も考える。
亡き父王が夢で示した場所にあの子たちがいたからなのか?
死にそうな子供だったからなのか?
いくら考えても説明はつかない。
それ以上に説明のつかない激しい感情が自分を突き動かすのだ。
そばにずっとついていていてあげたい。離れたくない、と。
高熱に苦しんでいた少女を馬車の中で抱きかかえながら、アルクメーネはあらゆる感情が沸き上がり心を支配していくのに戸惑った。
嬉しさと喜び、悲しさ、辛さ、怒り、悔恨。
腕の中のぐったりとした少女の顔を見つめていると、心が苦しくなった。
見知らぬ国で病になり、あの暗い小屋で倒れたまま心細くはなかっただろうか。
熱で苦しくはないだろうか。体力はあるだろうか。
ひょっとして、このまま死んでしまうのではないだろうか。
そう思うと、屋敷に運び、薬師がそばにいる今も、いても立ってもいられなくなる。
「どうしたら……」
そう言葉に出したとき、アルクメーネは今と似たような出来事が幼いころにあったことを突然思い出す。
遠い記憶の中で、アルクメーネは、やはり今日のように病気の誰かに会うことを堅く禁じられたことがあったことを。
(あれは……誰だった……?)
濃い霧の中で、微かな記憶が蘇る。
小さな小さな手がアルクメーネの差し出した人差し指を堅く握り締めたことを。
その手があまりにも熱くて、アルクメーネは次に額に触れ、頬に触れ、燃えるような熱い肌に驚き、叫ぶように兄の名を叫んだのだ。
「すごい熱がある。セレに知らせよう」
テセウスの声がはっきりとよみがえる。
その後、アルクメーネたちはその部屋に近づくことを許されなかった。
「冷たすぎます。どうして父上はそばにいてあげたいという気持ちをわかってくださらないんですか?」
父カルザキア王にどれほどそばにいたい、顔が見たいと、訴えても聞き届けられなかった苦しい日々。
早く会いたいと祈り、願い、静寂に城中が満ちたあの時。
アルクメーネにとっての衝撃は、そのあと知ったある出来事だった。
病気が回復し、もう会ってもよいと父から告げられ喜んで部屋に飛び込み、小さな寝床をのぞき込んだ時のことだった。
まだ言葉さえままならない小さな弟が、なぜか父と母の守護妖獣の名を何度も何度も楽しそうに呼んでいるのだ。
あとで、父と母の守護妖獣、イルダーグとネフタンが夜の間ずっと付き添っていたのだと知って、アルクメーネたち兄弟はひどく怒った。
それが許されると知っていたら自分たちも同じことをしたのに、と。
(あの時は、悔しくて、悔しくて眠れなかったな……)
自らの守護妖獣を、自分のそばから別の人間のもとへ付き従わせるというのが、容易なことではないと知ったのは間もなくだった。
守護妖獣にも意志がある。主人のそばから離れる必要がないと判断した場合、命令であっても決して受け付けない。
逆に、その命令が主人にとり必要性が生じたとき、守護妖獣は自らの意志で行動を決めることもあるのだと。
だから、その後両親の真似をしようとカイチにいろいろなことを命じたものの、無視されたことが幾度もあった。
それがある時、自分が知らない間に弟がカイチと言葉を交わしていたことを知った。
「嬉しいのにとても複雑な心理でした」
月に語るようにアルクメーネはそうつぶやいた。
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