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第十三章 《 警 鐘  》


                      (イラスト・ゆきの)

 
 エリルがアンナとして足を踏み入れたテューラの町長の屋敷では、三日月が静かに輝きを放つ夜空の下、賑やかな宴が催されていた。
 町長の館とはいえ、多くの商人たちが行き交う交易の町だけあり、小領主の館にも引けをとらないほど広い敷地と立派な館をもっていた。
 二年間の砂嵐の間も、城への物資調達に尽力を尽くすなど、近郊の領主たちも一目置くほどの力がこの町にはあった。
 陽気な音楽に、華やかで美しい女性たち、この辺り一帯の有力者らしき人々、そしてリンセンテートス、ナイアデス、ノストール軍の中からそれぞれ招待されて宴を楽しんでいる兵士の姿に混ざり、ナイアデス皇国のイズナ・マイリージアの姿も大広間にあった。

 イズナは、リンセンテートスのクラン皇太子、テセウスとアウシュダールらとともに劇的勝利を祝う賓客として招かれていた。
 病み上がりのフェリエスに代わり、ナイアデス皇国からイズナが従えて来た部隊を指揮してきたからだ。
「気にいらんですな」
 にぎやかな宴の席を離れ、グラスを片手に涼しい風の流れるテラスへ出たイズナは、隣でぼやく副隊長のレイリングの言葉に苦笑する。
「独り言なら、俺にも聞こえないところで言えよ」
 テラスにもたれ掛かっているレイリングの隣で、イズナは頭上に輝く三日月を見上げながら乾いた声で苦笑する。
「しかし、あのような人智を超えた力を目にしてしまったら、もし敵に回すようなことがあったら勝つことなど考えられない……」
 吐き捨てるようにつぶやく部下の言葉に、イズナはため息を吐くかわりに、手にしたカカスという赤い液体の酒を仰ぐように飲み込んだ。
「まったくだ……な」
 月から視線を離して、大広間で町長や領主らと談笑するアウシュダールに視線を向ける。
 イズナの目に映るノストールの幼い王子は、大人びた表情で悠然とほほ笑んでいた。
 その隣には、テセウスが立っている。
 イズナは、月のない数日前の夜のことを一生忘れることはないだろうと思った。
 ダーナン軍と向き合い、刃を交えることなく勝利を迎えた不可思議な夜の戦を――。

 すべては、イズナがリンセンテートスに到着した日から始まった。
 砂嵐が止み、イズナがフェリエスに再会したあの日だ。
 城に到着したばかりのイズナは、休む時間を惜しんでフェリエスの体調が良くなり次第いつでも帰国の出立が出来るよう部下に命じ準備をすすめさせ、逐次報告を受けていた。
 本来ならオルローの方が適任ではあったが、生気を失ったような顔と再会した後では、さすがに休ませてやりたい気分にかられたのだ。
 そうした中、フェリエスから呼び出され部屋に訪れると、魔道士ディルムッドから相次ぐ〈先読み〉を聞かされた。
――道を埋め尽くす大蛇の如き大軍が、この地リンセンテートスを目指し、カヒローネを通過してくる様が見えます。
――軍勢で埋め尽くされ、分断されたカヒローネの道。
――
 その場の誰もが言葉を失った。
 フェリエスは誰にともなく問いかけた。
「私がこの国に留まっていることを、知っての上だろうな。リンセンテートスもろとも、という宣戦布告か」
 フェリエスは、イズナとオルローに命じて、すぐにこの〈先読み〉をラシル王に直接知らせるようにと命じた。
 二人がラシル王と謁見し、話を切り出そうとした時、突然ノストール軍が間もなく城に到着する知らせが告げられたのだ。
 イズナは、フェリエスがアウシュダールに助力を求めた経緯を知らなかった為、何事かといぶかしんだのだが、すぐにオルローから砂嵐の終息を求めたラシル王とフェリエスが、シルク・トトゥ神の転身人であるアウシュダールにビアン神の怒りを静める力を貸してほしいと要請したこと。その求めに応じノストール軍がリンセンテートスに入国して間もなく、砂嵐がおさまったという話を、耳打ちされてふいに不愉快な感情が沸き起こった。
 ディルムッドの〈先読み〉は、アウシュダールの転身人としての力を前提にあったことを意味したからだ。
 使者はアウシュダール王子から、ロディ・ザイネス率いるおよそ十万のダーナン軍がリンセンテートスを侵略すべく進軍していることを、王に直々に伝えるように命じられたと、告げた。
 驚きおののくラシル王だったが、やがてテセウスとともに到着したアウシュダールから、自分が兵を率いて国境に行けば、ダーナン軍を壊滅できると約束したことで態度は一変した。 
 ラシル王は、アウシュダールの進言をすべて受け入れ、自国の皇太子を名目上の討伐軍の大将には立てたが、総指揮はアウシュダールに委ねた。
 砂嵐の為に、エーツ山脈の険しい山々を越え、リンセンテートスにたどり着いたノストールに対し、フェリエスもラシル王の決定に快諾した。
 そしてイズナ部隊に対しては、アウシュダールを中心としたリンセンテートスの援軍を務めるように命じたのだ。
 リンセンテートス城内の人々は従卒から王に至るまで、誰もがアウシュダールをシルク・トトゥ神の転身人としてその言葉に耳を傾け、畏敬の念をもって接した。
 城内に漂う空気がアウシュダール一色に染め上げられていた。
 砂嵐終息後、体力を回復したフェリエスがラシル王に、単独で話しの場を設けるよう求めたが、王は神の転身人という特別な存在に心奪われたようにアウシュダールのそばから離れなかった。
 フェリエスの実の姉であるセラ皇太子妃でさえ、アウシュダールのもとへ理由をつけては足しげく通っていると噂も流れ、フェリエスのもとへ訪れる回数が減ったほどだった。
 三国で編成されたダーナン討伐軍の国境防衛は、時を置かずして城を出立した。
 国境まではミゼア砂漠を通過しなければいけなかったが、砂漠の民達でさえ驚くほど天候に恵まれた。
 砂漠の激しい砂風や熱砂に阻まれることもなく、珍しいまでに曇天の空に守られ、時折雨に恵まれ、砂漠特有の灼熱地獄に苦しむことがなかった。
 軍は記録的な最短期間で、カヒローネとの国境地帯の山岳にたどり着き、国境防衛部隊と合流したのだ。
――一日でも遅れをとれば、国境は破られる。私の言葉の真実を証明する。猶予はならない。
 そう厳命をして出発を煽り立てたアウシュダールの言葉に嘘偽りはなかった。
 万軍を率いたダーナン軍が、平原のはるか彼方に姿を現したのは夕日の沈む刻限だった。
 高台で微動だにせず見張りに立っていた国境防衛兵は、地平線上から夕日を背景に湧くように続々と現れるダーナン軍の延々と続く隊列に度肝を抜かれた。 
「これは……」
 あらかじめ襲撃を知り、待ち構えることができたとはいえ自軍はわずか総勢五百余り。
 国境を守るなどということは絶望的な数だった。
 崖下に進み来るダーナン軍は、崖の上から自分たちを見下ろしているリンセンテートス軍に気づいた様子だったが、まるで挑発するように、対治する国境でもある河を挟んだ平地から奥まった森の中に陣営を張った。
 大部隊であるだけにその森をはみ出した街道にまで人馬が埋め尽くされているのがわかる。
 ダーナンは本気で、リンセンテートスを侵略し、支配をするために来たのだ。
 無敗を誇る、ロディ・ザーネスがカヒローネさえ支配下に治めたのだろうかと、リンセンテートス兵は恐怖で震え出した。
 その様子に、イズナ部隊でも動揺が広がる。
 あの大軍が堰を切ったように一気に向かって来たら、大海に揺れる小舟のように自分たちは戦いさえできぬまま、のみこまれ海底に沈められてしまうだろう。
 イズナもまた死を覚悟せずにはいられなかった。
 魔道士ディルムッドは、「大いなる力が勝利だけを運ぶ」と言って送り出してはくれたが、目の前の敵を見て、これでどう勝算がたてられるのか教えてほしいものだと本気で思った。
(異郷で死ぬためにわざわざ来たわけじゃないんだ……)
 睨み合うこと数時間、その日は、互いの様子見といった状態で空は闇に包まれ、一日が終えようとしていた。
 時間が経過するにつれ、兵たちは落ち着きを失いった。
 クラン皇太子までが恐怖に蒼ざめ全身を小刻みに震わせているのを、兵士たちが目撃してからは、その恐怖が伝染し、リンセンテートスの兵の中には脱走をする者さえ出るなど異様な空気が影を落とし始めていた。
 幸いイズナの部隊は冷静さを保ってはいたが、イズナもなんとか自分たちの部隊だけでも撤退できないものか真剣に考えていた。
 このままダーナンの侵略を許すことがあれば、フェリエスの身が危険になるのは自明の理だった。
 最悪自分の部隊が壁となりこの地で果てるようなことがあっても、フェリエスだけはナイアデスに無事送り届けるのが自分の役目だ。
 イズナはその機会をうかがい始めていた。、
 だが、張り詰めた空気の中、軍議の場でアウシュダールが軽やかにほほ笑んで言った。
「心配はない。明日にはすべて終わるよ。リンセンテートスへは一歩も踏み込めない」
 言葉はそれだけだった。
 やがて松明だけが唯一の明かりと、すべてが闇に包まれたとばりの中で最初の異変が起こった。
 真っ黒な空に光の亀裂が走ったのだ。
 次の瞬間、空を裂くような大轟音が響き渡った。
 陣営にいたイズナたちは、突然の閃光と大地を震わせる轟音に、驚いて外に飛び出した。
 見上げた闇夜には暗雲が立ち込め、生あたたかい風が肌にからみついた。
 大粒の水滴が数滴、イズナの顔を打ったかと思うと、それは瞬く間に地面を激しく打ちつける豪雨となった。
 遥か彼方まで空を埋め尽くした灰色に広がり続ける暗雲からは、稲光が閃き、地上に向かって光の矢を放ち続け始めた。
 突然、空が明るくなっては次の瞬間、大地を揺るがすほどの轟音が響き渡る。
 稲光と轟音が止むことなく繰り返した。
 空は立て続けに起こる閃光のために昼間のように明るくなり、鳴り響く轟音に誰もが身をすくませた。
 ただでさえ怯えていた兵士達を、最大の恐怖に陥れるのには十分だった。
 松明の火が消えると、兵士たちは一斉に浮足立った。
 突如、意味のわからぬ悲鳴のような叫び声を誰かが放った。
 集団恐慌状態に陥いろうかというまさにその時、突然、アウシュダールの声が陣営中に響き渡った。
「心配はない! これは勝利の雨だ」
 兵士達の動きが止まる。
 そして、声のする方を誰もが迷うことなく振り向いた。
 稲光を背に、一頭の馬の背にまたがったアウシュダールがそこにいた。
 落雷と激しく打ち付ける雨の音だけがあった。
 はるか遠くにいるはずの人間までが、アウシュダールを見ていた。
「風雨を司り神ドルドアーガイア」
 闇の中で、だれもがアウシュダールの微笑みを自分の目に映していた。
「ドルドアーガイアはどの国にも属せず、誰の支配も受けない。だが、シルク・トトゥの転身人たる私が招きよせた。リンセンテートスを守る天の援軍だ」
 さきほどまで、イズナたちとともにいたアウシュダールは、突然鳴り響く轟音にさえピクリともせず、人差し指を頭上高く差し向けた。
「天は」
 その指がゆっくりと弧を描いてある方角を指し示す。
「ダーナンに断罪を下す」
 それは、ダーナン陣営のあるカヒローネの方角だった。
 耳を澄ますと、ダーナン軍の陣営のある方角から、轟音と雨の音に混じり、悲鳴のような音が確かに聞こえていた。
 人の叫び声、馬のいななきのようにも聞こえる。
 だが、暗闇と激しい雨が視界をさえぎり、何が起こっているのかまったく様子はわからなかった。
 それでも、先ほどまでの自分達の陣中同様のただごとではなにかが起きていることは確かだった。

 翌朝、見事な朝焼けの中で、一睡もすることのなかったイズナたちはダーナン軍に何が起きたのかを知ることになる。
 ダーナン軍が陣営を張っていたその平原一帯が湖に変貌していたのだ。
 リンセンテートスとカヒローネを隔てる大河が、昨夜の豪雨で氾濫し大地を呑みこみ、陸地がわからないほどの巨大な湖と化していた。
 昨日まで、万軍を従えていた陣営は影も形も失われているようだった。
 奇跡的に助かったダーナンの兵士もいるようだったが、腰や肩まで水に浸かっているものは平地を目指して歩き続け、浮き木や背の高い木々に身をあずけたままの者は呆然とした様子で周囲を見ていた。
 ダーナン軍の陣営は一夜にして壊滅状態となったのだ。
 戦うことなくしてリンセンテートスは勝利を手にした。
 そして、アウシュダールはその名、その力をリンセンテートスとナイアデスの兵の目に焼き付けたのだ。


 イズナはあの夜のことを回想するたびに全身に鳥肌が立つのを覚えた。
「まぁ、覇王とうたわれるロディ・ザイネスの初撤退、初敗北の相手が我々だったこと。こうして命を永らえているのが、せめてものなぐさめっていうやつですかね。それも転身人様の存在のおかげ。帝王は生きてますかね」
「時期にわかるだろうな」
 イズナの返事に、レイリングは大きなため息を吐いた。
「砂嵐の件、あの戦の件。すべてが転身人のあの王子の力。ナイアデス皇国は、小国ノストールに助けられたとすでに揶揄する者もおります。腹立たしいやら、はがゆいやら。悔しくてなりません。我々の国に、転身人は現れないのでしょうか」
 イズナは、黙ったままレイリングの言葉にうなずいてはいたが、その言葉にディルムッドの言葉を思い出す。

『陛下……転身人はシルク・トトゥ神だけではございません』
 ディルムッドとフェリエスが初めて出会い、そう告げた場面。
『ナイアデスの守護神はユク神。その座に列する光の守護者リーフィス神の転身人は……あなた様でございます』
 突然告げられた予期せぬ重大な言葉に、フェリエスは微動だにせずじっとディルムッドの目を見つめていた。
 長い沈黙が訪れた。二人の時間が止まってしまったかのようだった。
 やがてフェリエスがゆっくりと閉じていた唇を開いた。
『その神の力は、シルク・トトゥ神に対治できるものか?』
 他人事のような口調だった。
『おのが力に目覚め、おのが心を取り戻し、おのが目的を見いだしたときに……』
 フェリエスはさらに問いかけた。
『アウシュダール王子には、そのこと……わたしが転身人だというなら……そうしたこともわかるのか?』
『人の身である私が、神の心まで察することはできません』
『もし、わたしなら……』
 フェリエスは、ディルムッドから視線を外すと、部屋にいるイズナ、オルローら一人一人の顔を生気をとりもどしつつある黄金の瞳でゆっくりと見つめていった。
『わたしがシルク・トトゥ神なら……自然さえ自由に操れる力を持っているのだとしたら――自分以外の神の転身人の存在をどのように感じるものなのだろうか。手をとるべき友人と考えるのだろうか、それとも……』
 フェリエスは最後まで言葉にはしなかったが何かを感じとった目をしていた。
『砂嵐を起こし、その御身をある場所に縛りつけ、力を失わせようとすることも可能でしょう。あくまでも凡人の推測に過ぎませぬが』
 ディルムッドは歯に衣着せぬ言葉で、その場の誰もがぎょっとするような言葉を口にした。
『ですが、救出されました。それも二度。凡人には計れませぬ』
『確かに』
 そう言ってフェリエスは口をつぐんだまま、しばらく一人になりたいからと全員を下がらせた。

 イズナはアウシュダールの自然を思いのままに操る恐ろしいまでの力を実際に自分の目で見た時、いつか自分の王も同様の力を現すのだろうかと考えると、複雑な気持ちにかられた。
 それが嬉しいことなのか、畏怖の為に感情が混乱しているのか、自分ではわからなかった。
(フェリエス陛下が……転身人……)
 カカス酒を飲もうとグラスに口をつけたとき、視線を感じてイズナは、ふと二階の回廊を見上げた。
 しかし、そこは暗闇の空間で人のいる様子はなかった。
(気のせいか……?)
 イズナは視線を戻すと、考えるのが面倒と言わんばかりに一気にそれを飲み干した。
 エリルがあわてて闇に隠れたのにも気がつかないまま。
 

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