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第十一章《 邂  逅 》

12

(な……?!)
 銀色の輝きをうけ突如夜の砂漠に現れた乙女。
 テセウスは何度も瞬きをしながらも、引かれるように近づいて行った。
 長く風に舞う銀色の髪。
 白い長衣に身を包み、軽やかなしぐさで砂漠の風さえ心地好さげに受け、数歩あるいて立ち止まると煌々と輝く満月を見上げる。
 軟らかに波打つ長衣を纏う細くしなやかな肢体は、女性でも男性でもない中性的な存在にさえ思える。
 風の音。
 砂の流れる音。
 暗闇の中、頭上に煌く無数に点在する星々と月。
 そのすべての存在が調和したような神秘的な空間がそこにあった。
 顔がようやく見えるところまで近づいたとき、再び強風がテセウスを襲った。
 砂が全身を打ちつけ、あわてて砂漠衣で顔を覆う。
 一瞬なにもかもが見えなくなる。
(あの人は……?)
 風が止むのを待ちきれずに前へ進んだテセウスは、丘の上にたたずんでいる乙女を探す。
 さきほどまでの神秘的なまでに心を奪った空間はもう、見つけることはできなかった。
 かわりに乙女のいた場所には、なぜか別の存在がいて戸惑う。
(幻……だったのか……? 見間違うわけは……)
 混乱する頭の中、じっとテセウスはその人物を見つめた。
 丘の上に立っているのは、人間の子供の後姿だった。
 特別なものなど、なにも存在しない夜の砂漠の風景。 
 次第に現実感が戻ってくるのを感じる。
 砂漠では、そこにないはずのものを見るとのデューグ公爵の言葉を思い出した。
 あらゆる幻覚が旅人を悩ませ、死の淵へといざなうというのだ。
 自分の見たものが幻なのかどうかはわからなかったが、テセウスは二、三度小さく頭を振ると、大きく深呼吸をした。
 人間が砂漠にいるのは、当たり前ではないか、と。
 そして、子どもがいるということは、近くに家族や仲間がいるはずなのだ。
(水を持っているかもしれない。湖の場所も教えてもらえるかもしれない)
 目的を思い出して、自分でも驚くほど速い足取りで砂丘をかけ上る。
「ねえ、きみ……」
 テセウスは、まだ自分ま存在に気づかず背を向けている子供に、できるだけ優しく声をかけた。
 驚いて逃げられてしまわないように。
 突然声をかけられた子供が、一瞬びくりとした様子でゆっくりと振り返る。
 テセウスはほほ笑みながら、子供に近づいて行った。
「この近くに水のある場所はないかな?」
 大きな瞳に銀色の月を映していた少女が、驚いた表情で彼を見下ろしていた。
 テセウスは困ったように立ち止まった。
「驚ろかすつもりはなかったんだ。言葉が……通じないのかな……?」
 知っているいくつかの言葉でテセウスは話しかける。
 だが、少女は固い顔をしたまま彼を見ていた。
 テセウスは怯えさせてしまったのかと、不安になる。両手を広げて敵意のないことを見せるのが精一杯だった。

 少女に、彼の言葉は届いていた。
 意味も理解していた。
 だが、何が起きたのか少女……ルナには理解できなかった。
(テセウス……兄上……?!)
 砂漠の幻が、輝く月が、ルナに兄の姿を見せてくれているのではないかと、ルナは思った。
 まるで時間が止まっているような長い間、心臓が止まったようにルナは目の前に立つテセウスを茫然と見つめていた。
「きみは、砂漠に住んでいるの?」
 テセウスはルナの驚きを知る様子もないまま、ただこのきまずい沈黙をなんとかしなければと優しく話しかける。
 なんとか少女の警戒心をやわらげたかった。
「旅の途中で、弟が熱を出して倒れてしまったんだ。水がほしいんだ」
 そのテセウスの言葉で、ルナははっと我に返った。
 目の前にいるのが、まぎれもなくルナが捜し求めてきた大好きな兄の姿なのだとわかったのだ。
 全身に鳥肌がたち、頬が紅潮してくるのが感じられた。
 やっと会えたという感激と、驚きと、安堵感が、乾いていた心を潤していく。
「兄上……」
 そう呼びかけようとした時、テセウスの後ろにたたずむ獣の瞳が赤く輝いたのを見て、ルナはその言葉を呑み込んだ。
――ザークス……だ
 ザークスはルナが口をつぐむのを見ると、その瞳を緑色へと変化させた。
 それは、ルナが城にいたときルナとザークスの間でかわしていた合図のようなものだった。
 ザークスの緑色の瞳は、あきらかにルナを認めていた。
 だが、それはすぐに赤へと変化し、静かな警告をうながしていた。
 ルナは兄の名を叫びながらその胸に飛び込み、抱き締めてほしいという気持ちをこらえて、テセウスにゆっくりと近づいた。 
「きみはこの砂漠の子なの?」
 そう話しかけてくるテセウスの言葉を耳にして、ルナは心が締め付けられた。
 泣き出しそうな自分を押さえて、大人になった兄の顔を見つめていた。
 会えなかった時間がどれほど長かったのかを感じずにはいられない。
――国の人々は銀色の髪の王子のことは忘れ去り、アウシュダール様を末の弟王子と信じています……
 イルダーグの言葉が心の中に思い出された。
 信じたくなかった。
 そんなことはないはずだと、ずっと自分に言い聞かせて来たのだ。
 会えば絶対に自分を思い出してくれる。笑顔で、抱き締めてくれる、と信じて追いかけてきた。
 だがいま目の前にある笑顔は、見知らぬ子ども、他人に見せるほほ笑みだった。
 ルナは唇をかみしめながら、助けを求めるようにザークスを見つめた。と、その瞳が金色に輝く。
 その闇夜に輝く双眸が、ルナに忘れてはいけないことを思い出させた。
(指輪……を……)
 ルナは、身につけている袋をあわててまさぐると、大切に指輪を包んだ布を取り出し、テセウスに差し出そうとして、手を止めた。
 父、カルザキア王から託されたこの継承の〈アルディナの指輪〉を、なんと言って兄に渡せばいいのか、わからなくなったのだ。
――ザークス……。
 ルナが目に涙をためてザークスを見つめると、テセウスの守護妖獣は金色の輝きを徐々に落としていく。
 そして、ついとテセウスの前に歩み出たのだ。
 守護妖獣の出現に気づいていなかったこともあったのだが、ザークスの突然の行動に、驚いたのはテセウスだった。
 たとえテセウスが命じても、両親や兄弟の前にさえ、ザークスは必要がなければ己の姿を見せることはまずない。
 ましてや初めて会う異国の人間に守護妖獣が己の存在を明かすなど、ありえないことなのだ。
「これ……」
 ルナは、近づいて来たザークスに指輪を見せてそう言うと、もう喉がつまって言葉が出なくなっていた。
――父上が……兄上に届けなさいって……
 言葉に出せない思いを、目の前に立つザークスに告げる。
――兄上……どうして父上が亡くなったのに、母上のところに帰らないの? どうして……ルナのこと忘れちゃったの? ザークス……父上と……イルダーグ……死んじゃった……。
 涙があふれて声にならなかった。
「ザークス……?」
 テセウスはザークスが、なにかをしたのではないかと突然なき始めた少女にうろたえた。
 いや、突然現れた妖獣におびえてしまったのかもしれないと思っていた。
『今……必要なのは、その指輪のみ……』
 ルナは、初めて聞くザークスの言葉に驚いて、緑色の瞳を瞬かせる。
 驚きすぎて涙がひいたのに、自分では気がつかない。
 ルナを見つめるザークスの瞳が青色に光り、眼が細くなった。
『時が来るまで……』
 その言葉は、なぜかルナの中に重くのしかかった。
 ルナは、目の前で困った顔をしているテセウスに、ポツリとつぶやいた。
「これを……渡すように頼まれました」
「わたしに?」
 ルナが差し出した布を、ザークスが口にくわえてテセウスの前に突き出した。
 これまでにしたこともない、犬のような行動であったが、テセウスはなにかしら不思議な空気を感じていた。
「それと……湖はこの丘の先にあります……」
 布を解こうとしたテセウスは、ルナの言葉に顔を上げて、その小さな指の指し示す方角を見た。
 テセウスは慎重に自分がいた場所と、今いる場所を星を見上げながら確認する。
 その時、また強風と砂塵が二人に襲いかかった。
「だ、大丈夫かい?」
 強風がやんで、テセウスが少女に問いかけたとき、そこにはもう誰もいなかった。
 ザークスもまた姿を消していた。
「………」
 半ば夢を見たような気持ちで、テセウスは少女から渡された布をといた。
 そして、そこにあるものを目にした瞬間、テセウスはあわてて何度も姿を消した少女を捜し求めた。 
『アルディナの指輪』
 ラウ王家の後継者の証し、それがテセウスの手の中に収まっていた。
 黄金色に輝く王の証。
 テセウスはその指輪を目にしたとき、恐ろしい事実にその場に立ってられず、砂漠に膝をついた。
「父上が亡くなられた……」
 まるでたった今訃報を告げられたかのような衝動に、テセウスは滂沱として流れる涙に顔を濡らした。
 自分が父の死すらさえ忘れかけていたという恐ろしい事実こそが衝撃だった。
(わたしのなかで……何かが狂っているのか……?) 
 テセウスは震えながらその指輪を右手の中指にはめる。
 すると同時に、頭の中に常に漂っていた濃い霧が散っていき、冷たく清廉とした力が注ぎ込まれてくるのを感じた。
「ザークス……」
 そばにいるはずの守護妖獣につぶやく。
 どこかで新たな時を告げる瑞獣の鳴く声が聞こえたような気がした。
「アル神が……あの少女に身を変えて、この指輪を届けてくれたのだろう……」
 テセウスはいとおしそうに指輪をはめた手を月にかざした。
 そして、銀色の指輪がかけていることに気づき、いつも父の指にあった『アルディナの指輪』を思い描く。
 〈アルディナの指輪〉は金と銀の二組の指輪が一体となるようにつくられている。
「銀の指輪は、この手で捜し出せということですね……父上」
 金の指輪をはめた瞬間、銀の指輪は自分が見つけるべきものなのだと、そう思えたのた。
 それは確信に近い不思議な確信だった。

ノストールの新王テセウス・デ・ラウは、見守る者もない異国の地で〈アルディナの指輪〉継承の儀式を一人行い、その宣誓を月の女神と亡き父に捧げた。 
 第十一章《邂逅》(終)

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