第十一章《 邂 逅 》
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「ネイ?」
振り返った闇の中に、立ち上がったままルナを見つめているネイの姿があった。
いや、目を凝らしてみるとその姿は少し宙に浮いているようにも見える。
闇で見えないはずなのに、そこだけがまるで薄明かりがさしたようにつま先立ちをしたまま、両手を上に引き上げられ苦しげに顔をゆがめているネイの姿が見えるのだ。
――生キテイル者ガ、目ノ前デ死ンデイク……。怒リガ心ニ満チル。オ前ガ我ヲ選ブナラバコノ者ヲ助ケヨウ。我ニ『力』ヲ求メヨ。オ前ハ、ソレデ解放サレル………。死ンデイッタ子供ラノ為ニ復讐ヲ叶エテヤル。さとにノヨウニナ。弱キ存在ヨ……。
ヴァルツの声が耳元で響き、ルナに答えを迫る。
「ネイを放せ……!」
ルナは大声で叫んだ。
――ココハ、我ガ領域。光ノ神ルーフ、サエ、片目ヲ綴ジテ覗キ込マネバ見エヌ深淵……。興味ガアルノハ、オ前ノ心……。
「ネイをはなせと、言っているんだ!!」
――クククク……ソウダ……ソノ調子ダ……。
ヴァルツの声が嬉しそうに笑う。
ネイのいる場所から、ルナは離れ過ぎていた。
ネイを捕らえているのが父とイルダーグを死に追い込んだあの影、ヴァルツそのものなのか、闇が濃すぎてルナには見ることが出来ない。
まして妖獣に、ルナが闘いを挑んで勝ち目があるとは到底思えなかった。
それでもルナは、ネイに向かって猛然と走り出していた。
走りながら、斜め掛けをしている身につけた袋の中をまさぐり、唯一の武器である木製の短剣を取り出す。
ヴァルツが指したサトニという名があの少年ならば、その剣はサトニが父を殺した城の中で落として行ったものだった。
最初のヴァルツとの遭遇のあと、ルナは初めてこの短剣は刃の部分さえ木で作られた剣だと知ったのだ。
そうとは知らずに闘ったあの時、この木の短剣は確かに影の体に突き刺さった。
父カルザキア王の守護妖獣イルダーグさえ死に追いやった妖獣の体を。
妖獣と呼ぶべきなのか、異なるものなのか、それさえルナはまだ知らない。
唯一の武器であるその短剣の柄をルナは握りしめた。
「ネイを離せ!!」
暗闇の中、少年たちの死体を飛び越えて、天から覗く細い青空を頭上に、ルナは無我夢中でネイに向かって走った。
「ジーン!」
「ネイ!!」
ネイのもとへたどり着いたルナは、上昇していくネイの足に抱きつくと、必死に下ろそう力いっぱい引っ張る。
と背後の闇に向かって剣を突き付けた。
その手はむなしく空を切る。
――ククククク……。
ヴァルツのあざけるような笑いが闇に響く。
ルナはそれでも、あきらめずに何度も、何度も闇を切りつける。
「ジーン……」
ネイは自分の足に必死にしがみつくルナを見下ろしながらただ、その名を震えながら呼ぶことしか出来なかった。
「ネイを降ろせ! ネイはだめだ!」
――ソウダ……モット、モット……怒レ……。
声はルナの心を激しく揺さぶり続けた。
――我レニ、『力』ヲ授ケルト告ゲレバ、女ハ解キ放ツ。
「やめろ!」
――望ムナラバ、さとにヲソノ手デ殺サセテヤル。
「うるさい!」
声は、ルナが怒り、あがき、苦しみの感情を出せば出すほどそれを喜んでいた。
「ジーン、絶対にいうことをきくんじゃないよ!」
突然襲撃されて混乱しながらもそう叫ぶネイの声が、ルナの心を締めつけた。
「魂を売るのはだめだ。そんなことをしたら、イリア姉さんが悲しむ」
ルナはどうしたらよいのかわからないまま、ヴァルツの体を求めて闇を切りつけ続けた。
だが、やがてネイと、しがみつくルナの足さえ地面から離れ始めようとしていた。
「やめろ―! もう……やめろー!!」
ルナの声が悲鳴に変わった。
――我ニ誓エ。スベテヲ与エル、ト。
「う……」
ルナの言葉が詰まる。
もうこれ以上、自分のせいで誰かが死ぬのは見たくなかった。
怒りと、絶望で心に迷いが生まれたその時、
「誰かいるのですか――?」
何者かの声が響き渡った。
「?!」
ルナが声の方を振り返ろうとするよりも早く、ネイが大声で叫んでいた。
「ここにいるよー! 誰でもいいから、早く助けてよー!」
振り絞るような絶叫に、あわてて駆けてくる足音が響き出す。
「どうしたのですか―?」
男とも女ともとれる声が呼びかけた。
「あたしはいいから、この子を受け止めてよ!」
声がすぐそばまで近づいて来たのを確認すると、ネイはしがみついているルナを振り落とそうとするように体をよじり始めた。
「ネイ、だめだよ! 絶対に離さない!」
ネイが、ルナの身だけでも助けようとしているのを感じて、ルナは驚きながら振り落とされないように残る力を出してしがみつく。
「命じます!」
突然あらわれた人物は、ルナたちを危険に陥れようとしているヴァルツに対し、まるでその姿が見えているかのように毅然と言い放った。
「闇に似せし存在よ! すぐに戒めをときなさい! 影なる者よ! 深淵と暗闇の神の眠りを盗む者よ! いますぐこの場におり伏せよ!」
朗々と響く力強くも、澄んだ美しい声が叫んだ瞬間、
――……!
急にヴァルツの持つ力が弱まった。
「わが祈りにその力を閉ざせ!」
――な……?!
次の瞬間、突然ルナたちを吊り上げていた力が消滅し、糸が切れたようにネイとルナは落下し、勢いよく地面にたたきつけられた。
――……邪魔が……
苦しげな声が確かにそうつぶやいたかと思うと、ヴァルツの気配が一瞬にしてかき消えた。
「大丈夫ですか?」
思ったよりも遠くにいた人物は、駆け寄って来ると心配そうに二人を交互に抱き起こそうと手を差し伸べる。
ルナはその人物を確かめなくてはいけない気がして、地面に打ちつけられた痛みとショックに耐えながら、起き上がろうと地面に手をつけ力を込める。
そのルナの目に飛び込んで来たのは、意外なことにアンナの一族の装束だった。
「……?」
緑色の瞳を大きく開きままポカンとした表情のまま、動かなくなってしまったルナに、その人物はほほ笑みかけた。
「私は、ソル・アンナの一族の者で、エリルといいます……」
エリルはそう名乗りながら、涙と泥で汚れ切っているルナの頬にそっと触れた。
暗闇の中なのに、心配そうに見下ろす瞳がはっきりと見えたような気がして、ルナの張り詰めた気持ちが落ち着きを取り戻していく。
エリルと名乗った人物は、ルナの横で苦痛に声を上げながら身を起こしたネイに心配そうに声かける。
「お怪我はありませんでしたか?」
「うん……ちょっと、あちこち打ったけど…平気……助けてくれてありがとう……」
ネイは感謝の言葉を口にした後で、しばらくじっとエリルを見つめた後、不思議そうに質問をした。
「でも、あんた一体どこから来たの?」
ネイは、サトニのことがあって間もないことから、この崖底に突然現れた人間に対し、思わず警戒をする口調になっていた。
「私はずっと、この場所を求めて今日まで旅をしてきました。そして、やっとたどり着いたこの地で、子供の悲鳴を耳にしました」
思わずルナとネイが顔を合わせる。
その悲鳴――サトニの声――がふたりをこの場所へ導いたのだ。
「ですが、どこにも声の持ち主を見つけることができませんでした。あきらめ機種依存文字かけていた時、わたしの目の前に一頭の馬が現れたのです。その馬が私を、この死の谷へと続く洞窟の入口へと導いてくれたのです」
「死の谷……?」
「馬が私の背を押して、洞窟に入れと言うように背中を顔でグイグイ押すものですから、早く行けと命令されてる不思議な気分でした。でも、その洞窟はここにつながっていました。リンセンテートスの国境で聞きました。エーツ山脈には死の谷と呼ばれる巨大な裂け目があると。そして、その谷底に通じているいくつかの洞窟がある。あの馬にはそれがわかったのでしょう、あなた達がここに迷い込んで危険な状態にあることを」
小川が流れるような静かに語られるエリルの透き通ったような声と言葉に、ルナとネイは言葉を信じられない話しに互いを見るだけだった。
「主人思いの良い馬をお持ちになられましたね」
ほほ笑まれて、ネイは頭上彼方にある空を仰いだ。
――村から盗んで来た馬だとは……言えないよなぁ……。
「あ、あたしはネイ。この子はジーンっていうんだ。ありがとう。助けてくれて、本当にありがとう」
ネイはエリルの両手をとると、心底ほっとしたように笑った。
その笑顔がけっしてネイ自身が襲われて助かったことに対する喜びではなく、ジーンに向けられたものである様子に、エリルは不思議な思いで二人を見つめていた。
「とにかく、早くここから出ましょう」
エリルが立ち上がると、ルナははっとした表情で少年たちの骸のある場所を振り返った。
「いいよ。待ってるから……あんたの気が済むようにしてきな」
ルナの心を察するようにネイが声をかけると、ルナはエリルにペコリとお辞儀をして、身軽に起き上がるやいなや、そのまま闇の中に走り出していってしまった。
「あの?」
戸惑うエリルにネイは目を伏せた。
「あの先には、この崖の上から落ちて死んだ子供達の死体がある……」
「……?! まさか……あの……夢。幻じゃなかった?」
「え? あんたも見たの? あの化け物が見せた何時間も前の、落雷が落ちたときの……」
ネイの問うような表情に、エリルは悲しげにうなづいた。
「私はここへ降りてくる途中で、起きているにもかかわらず、ずっと幻を見続けていました……。雪の中を歩き続ける少年たちが、崖下へ落ちて行く光景……そして、落光。夢なのか現実なのか……、あまりの悲惨さに震えが止まりませんでした……」
ネイはそう語るエリルの顔をじっと見つめると、声を詰まらせながら言った。
「あたしも……あの子も……その幻を見たんだ。でも幻なんかじゃない。現実に起こったことだったんだ……なのに……」
ネイは何度も何度も唇をかみしめ、深呼吸を繰り返してから次の言葉を、やっと口にした。
「あの子は、全員の死を確認するまでここから出ないと思う……」
その言葉に驚いたように、エリルはルナの去って行った暗闇を見つめた。
「誰か生きているかもしれないって、そう信じてるんだ。一人でも生きている子がいるかもしれないって。だから、その思いを残したまま立ち去ることは出来ないらしい。けど……あたしには出来ない。あの死体を見るのが、怖くて怖くて……一緒に……一緒に探してあげられないんだ……」
ネイはそこまで言うと、ひざを抱えたままうずくまるり、声をこらして泣きはじめた。
「手伝ってやりたいのに……」
ネイの言葉に、エリルは信じられない表情で立ち尽くしていた。
深淵で出会った少女と少年の素性も、雪深いエーツ・エマザーのふもとにいる理由も、なぜ妖しの者に襲われていたのかも、そして生きている可能性などない死体へ向かう少年の思いも、いまのエリルにはすべてが謎だった。
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