第十一章《 邂 逅 》
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青空の下、壮大な姿をたたえるエーツ山脈。
なかでも、そこにたたずむ美しくも険しい山々とは一線を画す最高峰の山をエーツ・エマザーと、人々は呼んだ。
一年のうち三分の二を、頂に白銀を冠した美しい姿をたたえるエーツ山脈の象徴的存在。
ノストールの人々は、自然の砦として国を守り続けるこの山脈を愛し、時に畏怖心をもって仰ぎ見、そして祈った。
月の神アル神が息子のシルク・トトゥ神を宿したと伝えられるエーツ・エマザーに向かって。
だが、いまその美しい銀嶺のエーツ・エマザーの山裾に、まがまがしい空気が漂っていた。
「だれかいないの―?」
ルナのそばで、ネイが大声を張り上げる。
「おーい、どこにいるのー?」
少し前に聞こえた子どもらしき悲鳴。
ネイは、その声の持ち主を求めて呼びかけ続けていた。
そのそばにいるルナは、ネイが大声を出すたびに身がすくみ、自分の耳を押さえたい衝動に駆られていた。
――ネイ、早くここから離れようよ。
本当はそう言って、一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。
馬の奇妙な行動と暴走。
一瞬聞こえた、聞き覚えのある妖しい影の不気味な笑い声。
雪景色の中で雪も草一本すら生えていない、地表がむきだしになった熱をもった場所。
そして、どこからともなく聞こえた子供の悲鳴。
「ひょっとして、ノストールの軍からはぐれた子供がいるんじゃないのかな」
その言葉に、悲鳴の持ち主を探す行為を反対すべき言葉を失い、ルナは唇を噛み締めた。
ノストール軍が、アウシュダールの意のもと特別軍として行軍に加えた八歳の少年たちの数は、三百人とも四百人ともそれ以上とも言われている。
ネイが言うように、行軍に加わっているうちの中の何人かが山の中で迷子になったとしても、不思議ではなかった。
親恋しさに軍から逃げ出すものがいないとも限らないからだ。
――でも……いやだ……。
ルナの心はそれ以上前へ進むことを拒む。
だが、どんどん先へ歩いて行くネイから離れることも出来ずに、馬の口輪をとったままついて行くしかなかった。
崖沿いに続く雪のない地表を歩いていると、先を歩いていたネイが何かを見つけたように、振り返りルナに声をかけた。
「ジーン、いたよ! あそこに誰か倒れてる!」
ネイの指さす前方に、崖からはい上がって来たような体勢のままうつ伏せに倒れている少年の姿があった。
ルナは高まる不吉な予感に思わず足を止めた。
足が動かなかった。
子どもに駆け寄るネイの後ろ姿を見ていることしかできなかった。
ネイは少年の倒れているそばに走り寄ると、ひざまづいてその子供がケガをしていないかを確認する。
衣服にも破れたような部分もなく、見た目には傷のような部分もなかった。
口元に耳を寄せると、規則正しい呼吸をしている。意識を失っているだけのようだった。
ほっとしたような表情で、立ち尽くしたままのルナに向って大きくうなづいて見せた。
「大丈夫。息があるよ」
「…………」
ルナもつられてうなずき返したが、逃げ出したい不安な気持ちがさらに増していた。
体が石になったように動けない。ネイのいる場所まで数歩の距離だが、そこへ向う気持ちが起きないのだ。
「大丈夫? あたしの声、聞こえる?」
ネイが呼びかけると、意識を失っていた子供の口元がかすかに動いた。
「え…? なに……?」
ネイが再び口元に耳を寄せる。
「……った……の……に……」
「何か言ってる?」
だが次の瞬間、ネイの表情が凍りついた。
「ネイ?」
全身が一気に鳥肌立つ感覚に身を震わせた。
ネイはルナを見る。
「『あのまま……馬ともども谷底へ落ちれば、よかったのに……』って……」
ルナの顔が青ざめた。
「ネイ、離れて! こっちに来て!」
ルナは大声で叫んだ。
ネイをあの少年のそばにこれ以上いさせてはいけないという直感が働いたのだ。
「ネイ! そいつから離れて!」
「ああ……」
さすがにネイも気色悪くなったようにうなずく。
「ネイ! 離れて! 早く!」
だが、ネイは立ち上がりかけたもののその場から動こうとしない。
「ネイってば!」
「ジーン……」
ネイの驚いたような小さな声に、ルナはさらに声を振り絞って叫んだ。
「早く!」
「手が……」
ネイが困惑したように、自分の右腕を目で示した。
手が、少年の手がきつくネイの手首を握りしめていたのだ。
「…………!」
しまった……と、ルナは言葉にできずに叫んでいた。
それまで石のように重かった足を、自分の気持ちで振り切るように一歩前に踏み込む。
二歩目は地面を蹴り、そして走りだした。
「ネイ! 早くこいつから離れて」
ネイにかけ寄ると、ルナはネイの手首を掴んでいるその手を引き剥がそうとその手に触れようとした。
まさにその瞬間、ネイの手首を掴んいた少年の体がゆらりと身を起こした。
「あ……!」
青くやつれた顔、くぼんだ生気のない瞳がルナの顔を真っ直ぐに見つめていた。
無表情なその少年の顔をルナは知っていた。
いや、決して忘れまいと心に刻んだ顔がそこにあった。
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