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第十章《 神 の 怒 り 》

 ネイは、比較的背の低い草が茂る森の中を馬を走らせ、小川の流れている場所にでると、はじめて馬の足を止めさせた。
「もう、ここまでくれば追って来れないね」
 馬から降りて、そう言葉をかけるネイの顔をルナは見ることができずに、うつむいていた。
「捕まったら、ロッシュは……殺される?」
「……大丈夫さ。あいつ、逃げ足早いし、そんなドジは踏まないよ」
「でも、だったら、ネイもここで帰って……馬は使っていいから……島に帰って……。一緒に来たらだめなんだ」
 泣きそうな表情で、ルナは懇願するようにネイの顔を見つめた。
 本当は、ネイが一緒に来てくれたことは嬉しかった。ずっとそばにいてほしいと思った。
 けれど、そう望むことは許されないのだと、思いはじめていた。
――一緒にいると……今度はネイが死ぬかもしれない……。
 ハーフノームの島のイリアの死、アルティナ城での父の死、父の守護妖獣イルダークの死、そしてラクスという少年から聞いたセレナの死。
 差し伸べられるはずの温かな笑顔を、大切な存在を予告もなく次々と奪っていった「死」。
 立て続けに起きた出来事は、いつ「次の死」が起きてもおかしくない予感をルナに感じさせる。
 その恐怖は、小さな心を言いようのない恐怖で締め上げていた。
「お願いだから……帰って……一緒にいたら……ネイが……」
 ルナはそこまで言うと言葉を詰まらせた。
 「死」という言葉を口にすることが本当に恐ろしい事態を引き起こしそうで、思わず口をつぐんでしまったのだ。
「あははははは!」
 突然ネイが大声で笑い始めたので、ルナは馬上からぼうぜんとした表情でネイを見下ろしていた。
「なーに、深刻な顔してんの!」
 ネイはおかしそうに笑うと、ルナに手を差し出してその小柄な体を馬から下ろさせた。
 次いで肩にポンと軽く手を乗せると、クスクスと笑った。
「それじゃ立場が逆だよ。普通はさ、幼い子が山越えをするなんて言い出したら、そんなことは危険だから里に帰りなさい。あたしが兄さんを必ず連れて来てあげるからって、説得してあんたを追い返す立場なんだよね」
 笑いながら言うと、ネイはきびすを返して、小川のそばですたすたと歩いて行った。
 そして、水際に両膝をつくと、顔を洗いはじめる。
「ほらジーン、あんたも顔を洗いなよ。気持ちいいよ」
 川のせせらぎ、風にゆられる木々や葉のざわめき、顔を水で濡らしたまま笑いかける楽しげなネイの姿。
 二人の周りには、静かな時間が流れていた。
 鳥のさえずりと、木々の香り。
 先程まで兵士たちから追われ、必死に逃げていたのが嘘のような光景。
――これも……夢……?
 その静けさが、ふとルナの心に不安というさざ波を起こした。
――また……夢を見てるの?
 現実と夢の境目が一瞬わからなくなる。
 奇妙な非現実感が広がっていく。
 その立ち尽くすルナの背に、馬が顔を擦りつけてくる。
 温かな感触とかすかに残るその荒い息遣いが、あの激しい逃走は夢ではないと教える。
 足をしっかり大地につけていないと倒れそうだった。
 本当に自分もネイも無事に逃げられたのだろうか……。
 また夢の中にいて、目が覚めると逃げ惑っている自分がいるのではないだろうか。
 ルナは急に自分の足元がぐらりと大きく揺れたような気がした。
――夢じゃない?
 けれど、こんな穏やかな時間の後には嫌なことばかりが起きた。
「ジーン?」
 ネイが不思議そうな顔で、自分を見つめていた。
――また、これも……夢?
 ルナは、自分の背中に顔をよせてくる馬の体温をどこか遠く感じながらも、目が覚めるとそこにはネイの死体があって、闇の中を泣きながら一人でさまよい続ける自分がいるような気がした。
「ネイ……死んじゃったの……?」
 ルナはそうつぶやいていた。
「?」
 ネイが碧い瞳を大きくして、自分を見ていた。
「ネイも、ルナといたから……死んじゃったの?」
 夢なのか、現実なのか、もう自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのかさえ、ルナにはわからなくなりはじめていた。
 風のささやきも、木々のざわめきも、恐怖心だけをあおり続ける存在と化していく。
 ルナは、体中の力が抜けて、今にも倒れてしまいそうだった。
「ルナといると……みんな死んじゃうんだ。ごめん……ごめんね……」 
 初めて声に出した自分の言葉に、ルナはそうだったのだと感じた。
「ルナといると死んじゃうんだ。だから、みんな……みんな……ルナと一緒にいちゃ、いけないんだ……!」
 ルナの大きな翠色の瞳に涙があふれ始める。
 ネイは無言のまま、すたすたと歩み寄ってきた。
 そしてルナの片手をとると強引に川岸まで引きずっていき、川辺に立たせると、その背中を思いきり突き飛ばしたのだ。
「?」
 気がついたときには、水しぶきの音とともにルナの体は川の中に沈んでいた。

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