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第十章《 神 の 怒 り 》

「ジーン! しっかりしてよ、ジーン……」
 誰かが呼んでいた。
 夢……だったのだと、意識の遥か彼方で、もう一つの名前が悲しげにそう告げる。
「ジーン!」
 気がつくと、ルナは口元に注がれる冷たい水を呑んでいた。
 何が起きているのかわからなかったが、ただ、カラカラに乾き切っていたルナの喉は、与えられた水を一気に呑み干していった。
 熱をもった体が、染み渡る水の冷たさに少しだけほてりを静めていく。
 水をすべて呑み終えると、ルナは大きく息を吐き出し力無く重いまぶたをゆっくりと開いた。
「ジーン? 大丈夫かい?」
 そこには、心配そうにのぞき込むネイの顔があった。
「ネイ……?」
 ルナは自分が歩き続けていたことを思い出す。
 エーツ山脈を越え、兄テセウスにあって指輪を渡さなくてはいけないのだ。
 ハッとして肩から下げていたはずの袋のある場所を手で探る。
 父から渡された〈アルディナの指輪〉の金の指輪を布で包んでいれてあったのだ。
 自分の指にはめるにはまだ大きすぎる指輪。あとで何があっても失くさないように身に着けなければいけないと思っていたが、それを考える余裕はなかった。
 それに気づいたネイが、ルナの傍らにおいて置いた袋を持ち上げて見せた。
「大丈夫。みんながくれた金貨はちゃんとここにあるよ」
 ルナは手をのばして、中の物をまさぐると、安心したように大きく息を吐いた。
 そして、思い出したようにつぶやく。
「歩く……」
 だが、上半身を起こそうとしたその瞬間、ルナの全身が悲鳴を上げた。
 腫れ上がった皮膚が、化膿した傷口が、筋肉が、腰が、腕が、背中が、足が、火がついたように痛みを訴え出したのだ。
 あまりの激痛にルナの顔がこわばる。
 喉まで押し寄せた叫びを、奥歯をかみしめたが代りにうめき声がもれた。
「お前さぁ……なんで山になんかに向かってるんだ? おかげで、さんざん探したぞ。見当違いの場所ばっかりな」
 ルナは声の方を振り向く。 
 海賊仲間のロッシュの姿があった。
 怒っているようにも、呆れているようにも見える顔。
 その顔を見て、ルナは荒い息をしながらあきらめたように仰向けに倒れた。
「…………」
 ルナはこの瞬間まですっかり忘れていたことを思い出した。
 ロッシュとネイの二人に、何もつげずに村長の家を抜け出してきたことを。
「ごめん……」
 しぼり出した声はかすれて、まるで自分の声ではないようだった。
 声だけではない、今は、全身のあらゆる部分が自分のものではないもののように、言うことをきいてくれなかった。
「お前、城にもぐりこんだだろう? どこへ行っても、銀髪の子供が王を刺したって大騒ぎになってるぞ。兵士は血眼になって町や村を捜し回っているしな。俺らはてっきり、お前はグート船のある場所に戻ったとばかり思っていたんだが、港に戻った様子もない。しかたないから、村から馬を拝借してあっちこっち探し回ってたら、そこの村外れの草むらで倒れたままピクリとも動かないおまえを発見したわけだ」
 ロッシュの言葉に、ルナは父カルザキア王を殺した少年の顔、そして突如襲いかかって来たあの黒い生き物のことを思い出した。
 もし倒れているところを襲われたなら、殺されていたかもしれない。
 背筋にゾクリと悪寒が走った。
「でもさ、よかったよ。倒れているジーンを見つけたときはもうだめなのかと思ったからね」
 ネイが胸に手をあてて、大きく深呼吸をする。
「とりあえず、今日はこのままここで野宿だ」
 ロッシュの声にあらためて辺りをみると、暗い森の木々の間からのぞく空はすでに夕暮れ色に染まっていた。
 うっそうとした木々と草が覆い茂り、少なくとも人が近づいてくるような雰囲気はない場所のようだった。
 パチパチと木のはぜる音が聞こえる。
 焚火の音だ。
 時折、枝をくべる音、人の歩き回る音が、ルナの視界からは見えない場所で聞こえていた。
 この数日間は、ハーフノームでも味わったことがないほどの、長く長く果てしなく辛い時間だった。
 一人きりで、自分を捕らえようと追う人々の影におびえ、いつ襲ってくるかもしれないイルダークを襲ったあの黒い影を恐れ、逃げ続けた。
 いままで眠ることなく歩き続けることが出来たのは、張り詰めた神経が、眠ることを許さなかったからかもしれない。
 限界が訪れるまでは。
 いまルナは仲間がそばにいるというだけで、心から安心することができた。
 しばらくすると動けない体が、再び熱をもちほてりはじめた。
 全身に走る痛みを我慢しながら横わっていると、ルナはふとイリアを思い出した。
 竜巻に襲われ、海に漂っていたルナを助け、高熱でうなされ眠り続けていた間、そばに付き添い自分を看てくれたイリアの温かなまなざし。
――ジーン。良くなるのよ、かあさんがついているからね。
 黒く美しい瞳が、いつもルナを見つめていてくれた。
 だが、そのイリアは死に、父カルザキア王も死んだ。
「ジーン、あんた本当に王様を殺しちまったのかい?」
 唐突な、そして簡単明瞭なネイの問いかけに、ルナは堅く口を結んだまま、大きな緑色の瞳で抗議するように首を横に振った。
「違うの?」
 ネイは声を上げて、ロッシュの方を振り向いた。
「ロッシュ、やっぱりあんたの言ってたとおり、ジーンじゃないって! ジーンはやってないって! え? あれ……じゃあ、なんでジーンは逃げてるのさ?」
 ネイが混乱したように、ルナの顔と、ロッシュを交互に見ながら視線をさまよわせる。
 説明する気力が今はなかった。
「ジーンは海賊とラウ王家が交わした海賊協定状を盗むために城に忍び込んだ。自分のことは自分で始末をつけたいガキだからな。ところが、運悪くその時にカルザキア王が殺された。偶然ジーンの姿を見た奴が犯人だと思い込んだ、ってなとこだろう、そのあたりの詳細は、食いながらでも聞かせてもらおうとするか」
 足音が近づいてくると、ルナの体がふわりと地面から浮き上がった。
 ルナは、自分をひょいと抱き上げた人物と視線をあわせると、ロッシュが「おう」と片目をとじてうなずく。
「海から背を向けたって言うことは、協定状の奪取はできなかったんだろう」
 精悍な顔立ちに力強い瞳に笑みを浮かべ、口元の口角が片方だけ上がる。
 焚き火のそばに集めたやわらかな干し草の山を背もたれにするように、ルナの体を座らせる。
 ロッシュがルナのために、村の馬小屋から拝借して来た草をかき集めてつくったのだ。
「寝るときは頭の上からどかーんと草を山ほどかぶせてやるよ。いい隠れ場所にもなるだろう」
「ありがとう」
 二人はルナがハーフノームの海賊島に戻るために城に侵入し、協定状を盗もうとしたと信じている。
 そのために頭のジルに無断でルナと行動を共にしてくれたのだ。
 その二人に黙って消え、勝手な行動をしたにもかかわらず問いただそうとしない二人にルナはそれしか言えなかった。
「最初にあんたを見つけたのはあたしなんだよ。もう少し見つけるのが遅かったら、本当に城の兵士たちに見つかるところだったんだよ」
 ネイが、自分のお手柄だと言わんばかりに、自慢をしてみせる。
「うん……」
 ルナは焚き火の炎を見つめながら、記憶を辿る。。
 どこで倒れたのか、途中からの記憶がなかった。
 ただ、ほんの一瞬訪れた夢の中の自分は、とても幸せだったような気がするだけだった。   

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