第十章《 神 の 怒 り 》
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エーツ山脈を見ながらルナは育った。
ノストールのアルティナ城にいる時には、あの山の上に立つと何が見えるのだろうか、山の向こう側には何があるのだろうかと、子供らしい空想に心を沸き立たせた。
海賊たちの住処であるハーフノーム島に身を移してからは、故郷の場所を唯一示すエーツの山々の頂を見つめながら、ルナは成長してきた。
けれど、そのエーツ山脈の尾根を越える自分の姿を考えたことは、一度もなかった。
――この指輪を、おまえの手から、直接テセウスに渡してくれ。即位の証しの指輪を……。
それはリンセンテートスへ向かった兄を追い、一刻も早く指輪を渡すこと、すなわちエーツ山脈を越えることを意味した。
父の死際に交わした、いくつかの約束は、ルナに目的を与えたが、同時に大きな不安を背負うことでもあった。
自分はカルザキア王殺しの人間として国中から追われている。
――ルナは父上を殺してなんかいない。
大勢の人の前で大きな声でそう叫びたかった。
だが、そうすれば捕らえられ、アウシュダールに自分が生きていたことを知られてしまう。
そうなれば、アウシュダールは絶対に兄たちには会わせてはくれないだろう。
今度こそ、殺されてしまうことをルナは嫌と言うほどわかっていた。
何も悪いことをしていないのに、父の死が悲しいのは、悔しいのは自分なのに、無実を叫ぶことさえ許されない。
人目を避けなるために、森林や自分よりも背の高い草むらを選び、その中をかきわけて、ただ前へ前へと歩き続けている自分がひどく悲しかった。
――あいつが父上を殺したんだ。
ルナの脳裏に、城でぶつかった少年の驚いた顔がよみがえる。
――絶対に許さない。絶対に……。
ルナは怒りと悲しみと涙を胸にあふれさせながら、エーツ山脈へと続く道なき道を歩き続けた。
意識を失い倒れていた自分を助けてくれた山小屋のラクスと別れてから丸二日、ルナはエーツ山脈へ入るための国境への外門をめざし、寝ることさえ忘れて歩き続けた。
しかし、どれほど歩き続けても最後の村となるシャンバリア村はまだ見えて来ない。
山は徐々に近づいてくるのに、村の姿は現れないのだ。
ルナは足を引きずりながらも、歩き続けた。
その足は、すでに草の葉で切り傷だらけとなり、船乗りの履く布製の簡易靴は擦り切れ、足にまとわりついていたボロボロの布きれにしかみえない。足の裏は赤く腫れ上がり、マメはつぶれて血がにじみ、赤く染まっていた。
いまにも倒れそうな体を支え、地面を一歩、そして一歩と歩き続ける。
足が休ませてくれと悲鳴を上げた。
気が遠くなるほどの疲労と痛み、痺れがその一歩ごとに襲いかかる。
「父上……」
ルナの緑の瞳は虚ろで、生気は失われていた。
激痛に耐えながら、気力だけでエーツ山脈を目指し、歩き続けるその痛々しい姿は、まるでエーツ山脈そのものが、意志をもって幼い体を引き寄せているようにさえみえる。
だが、それにも限界はあった。
――おい、ルナ一人でどこへ行くんだよ。
意識が遠のく中で、ルナはクロトの声を聞いた。
――兄上……。
顔を上げると、そこにクロトの笑顔があった。
――あまり遠くへ行くと父上からまた大目玉をくらうぞ。ほら、兄上も心配して迎えに来た。
クロトが、エーツ山脈の方から笑顔で歩いてくるテセウスとアルクメーネを指さす。
――テセウス兄上、アルクメーネ兄上も……。
二人はルナの前までくると、その銀色の髪をクシャリとかきまぜ、頬にやさしく触れた。
――出て行ったきり帰って来ないから、心配したんですよ。
アルクメーネがほほ笑む。
――一人でよく頑張ったね。さあ、帰ろう。
テセウスがルナを抱き上げると、いつのまにかクロトがまたがっている守護妖獣、黒馬のダイキの背にルナをそっと乗せた。その両脇にテセウスとアルクメーネの馬も並ぶ。
――父上も、母上も、おチビの帰りが遅いとお待ちになられてるのですよ。
アルクメーネの言葉にクロトが不満げに声を上げる。
――おれのときは心配しないのになぁ……。
軽やかに三頭の馬の蹄が鳴り響く。
テセウスはクロトの言葉を耳にして、わざと大きな声で、アルクメーネに話かける。
――そんなことはないよな。クロトの身がとーっても心配だから、朝昼晩と優秀な家庭教師たちに護衛をさせてあげているんじゃないか。
――そうですとも。ご不満ですか?
――ちぇーっ!
クロトが言うと、テセウスとアルクメーネが明るい笑い声を上げた。やがてクロトも笑いだし、三人の兄たちに囲まれたルナも笑っていた。
馬の蹄の音の響く中で、ルナはただ無邪気に笑っていた。なんだかとても幸せで、ルナは兄王子たちの笑い声に囲まれて、笑っていた。
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