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第十章《 神 の 怒 り 》

 アウシュダールは、テセウスと側近の将軍らを見渡した。
「このままではリンセンテートスは、砂嵐とダーナンに滅ぼされる。ダーナン帝国は、リンセンテートスが砂嵐に襲われ、国としての力が奪われていくのを、いまは何もせずに見ている。けれど砂嵐が止んだとき、ダーナンはその刃をリンセンテートスの咽元に突きつけることは明らか。我々が救う国は、今すべてを砂塵に覆われ、外では口を覆うものがなければ、息さえできない死の空間と変じている。鳥たちは飛ぶ空を奪われ、口にするべき虫も獲られず、死の骸となって砂の大地にその姿をさらしているのが私には見える」
 少年特有の少し高い声は凛と響き渡り、あふれるほどの説得力をもち、兵士達の心をとらえていく。
「民も同じだ。ただ、閉ざされた建物の中で、死の恐怖におびえ、神に祈りをささげ続けている。病人を励まし続けながら、死者の骸をかき抱きながら、死に行く自分の姿を横たえながら……。だが、祈る人々の声はビアン神には届くことはない……」
 アウシュダールの神の子としての言葉が厳しく、そしてひときわ大きくなる。
「なぜなら、リンセンテートスを守護すべきビアン神こそが、彼らを恐怖に陥れる荒ぶる神と変じたからだ。ビアンは、怒りの原因となった者が恐怖の中で死を迎えるまで、暴れ続けるだろう。いや、怒りで染まった神は、やがて自分でもその怒りを制御することすらできず暴走し、歯止めの効かない存在、他の諸国をも恐怖におとしいれる悪神へと変じる」
 アル神の息子、シルク・トトゥ神の転身人の琥珀色の瞳は、まだ見ぬ未来を見ているようにリンセンテートスの方角を怒りを持って見つめていた。
「神の怒りは人の祈りでは止められはしない。なぜなら、人が神を裏切ったからだ」
 数百人のノストールの兵士の目がアウシュダールを見つめ、その声だけをわが心として受け入れていく。
「リンセンテートスを、そしてラーサイル大陸の諸国を、ビアンの怒りの嵐から守り、くい止められるのはアル神の子である私しかいない。われわれノストール王国、ラウ王家をおいては存在しないのだ」
 大声で叫ぶわけでも、声高に訴えるわけでもないアウシュダールの澄んだ声が心の中に響き染み込んでいた。
 遠く離れた場所にいる兵士たちまでも、その声は一人ひとりに一言一句漏れることなく届いた。
 見えないはずの馬上のアウシュダールの姿が眼前にあるものように大きくくっきりと映し出され、その存在に陶酔しきった視線を向けてる。
 アウシュダールの語る言葉こそが神の言葉であった。
 同時に、それはまさに自分自身の考えていたことなのだ、と誰もが思い込んでいた。
――そうだ。リンセンテートスを救えるのは、神の子を王子にもつ我々だけなのだ。
――アウシュダール殿下はノストールをダーナンから救ってくださった。ダーナンを追い払えるのはアウシュダール殿下をおいてほかにいるものか
――神の怒りを解くのは、神以外にはいない。
――我々にはアル神の御子がいる。シルク・トトゥ神の転身人がビアン神からラーサイル大陸を救うのだ。
 自分の意識が操られていることを、一人として感じる者はいなかった。
 アウシュダールの言葉は、そのすべてが自分の思いと同じであり、それこそが真実だと彼らは信じていた。
「父上は……我らが王、カルザキア陛下は……」
 兵士達の陶酔しきった表情を冷静に見つめながら、アウシュダールは耳に心地よい声で語り続ける。
「たとえ自分の身に万が一のことがあろうとも、かの国を見殺しにすることなど望んではおられません。我が転生の母アル神もそれを望んではおられません。父上の子としても……アル神の息子シルク・トトゥの身としても、砂塵に埋もれたまま死を待っている国を、ビアン神の怒りの嵐に巻き込まれ助けを求めている民を、見殺しになどどうしてできるだろうか」
  アウシュダールはそう言うと、自分を見つめている馬上のテセウスにゆっくりと琥珀色の瞳を向けた。
 テセウスの瞳は、アウシュダールだけに注がれていた。
「国を破壊へと導くビアン神を放ってはおけません……。このまま引き返せば、父上もなぜ帰って来たとお叱りになるはずです。兄上も……本当は引き返すべきではないと、そう思われていたのでしょう?」
 瞳の奥の光が妖しげに輝いた。
「ああ……そう……思っていた……」
 そう言葉にした瞬間、テセウスはまさにその言葉こそが自分の真実の言葉なのだと思った。
「兄上、リンセンテートスへ私とともに参りましょう。我々の目的はリンセンテートスへ行くことです」
――そう、目的はリンセンテートス。
 テセウスは重荷のひとつが心の中から消えていくような感覚に包まれる。
 しかも、初めてではない感覚だった。
「陛下の……ノストール国王、父の遺志を受け、私とアウシュダール、われらはこのままリンセンテートスへと進む」
 テセウスの言葉に、アウシュダールの口元に笑みがこぼれた。
 瞳には強い光が満ちあふれ、満足そうな大人びた表情が一瞬横切る。
 それは、一種異様な光景だった。
 だが、気づくものはいない。
 だれもが己の心に純粋に従っているのだと信じていた。
 ただ一人を除いて。
 アウシュダールは、ノストールの方角を仰ぎ見、何者かに語りかけるようにつぶやいた。
「もちろんカルザキア王を殺した者は許してはおかない。私の結界を破り、私の国に土足で踏み入り、汚す者など……見過ごすわけにはいかない……」
 そして何かを思い出したように、幼い顔に不釣合いな妖しい笑みを浮かべた。
「それが何者のでも容赦はしない。奈落の底に突き落とす。そのほうが気分がいいからな……」
 だれもその表情に気づく者はいない。
 アウシュダールの微笑みは、畏敬する神の御子の神々しくも魅力的な微笑としか映らなかったからだ。

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