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第十章《 神 の 怒 り 》

 テセウスとアウシュダール率いるノストールの友軍が、リンセンテートスの国境を越え、ミゼア砂漠にさしかかったころ、ノストールからの早駆けの伝令がテセウスのもとを訪れた。
「父上が……?!」
 馬上で突然告げられた父の訃報に、テセウスは耳を疑った。
 なにかの間違いではないのだろうか? 
 出立前にはそんな兆候は何一つなかったはずだった。
 様々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 そして、兵から手渡されたアルクメーネからの書簡を受け取り、読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていった。
「わかった……すぐに引き返す……」
 緊張した面持ちの伝令に、テセウスは硬い表情でそう応じた。
 テセウスは第一王位継承者である。
 国王の身に万が一のことがあれば、なにをおいてでも国へ戻り、『アルディナの指輪』を継承し、即位の儀式を行わなくてはならない。
 そして、一体何が自分の出立したあとのノストールに起こっているのか確かめなくてはならなかった。
 動揺を隠しながら、彼は第四王子であり、いまやシルク・トトゥ神の転身人としてその力をさまざまな場面で行使しているアウシュダールに視線を送る。
 自分同様、驚いているだろう弟王子を気遣って。
「アウシュダール」 
 声をかけると、馬上の弟王子は不審そうな表情を浮かべたまま、ノストールの方角を見つめていた。
 それは驚いているというより、ノストールに起こった事態を見通そうとしている鋭い眼差しにも見える。
「アウシュダール、全軍に帰還することを伝えてくれ。リンセンテートスには後日使者を立てて、事情を説明しよう」
 馬首を返すために手綱を引こうとしたテセスウだったが、アウシュダールの言葉に、思わずその手を止めた。
「兄上、申し訳ありません。わたしは帰れません」
「アウシュダール?」
 思ってもいない言葉に、テセウスは驚いて弟王子を見た。
 利発で大人以上に物事をわきまえ、国を守って来たシルク・トトゥ神の転身人。
 ノストールの守護神アル神の唯一の息子。
 そのアウシュダールの言葉とは思えない発言だった。
「兄上……。父上が亡くなられたのはわたしの責任です。わたしの不在中、アルティナ城には不審の輩を遠ざけ、城には侵入できない為の万全の結界を張り巡らせました。その城で、父上を死から守ることができなかったのは……このアウシュダールの責任です……」
 アウシュダールは肩を落として、テセウスに深く頭を下げた。
「アウシュダール……」
「ですから……兄上」
 弟王子は顔を上げ、静かに兄を見つめた。
「兄上は国へお戻りください。わたしは一人でリンセンテートスへ行き、ビアン神と言葉を交わし、神の怒りを解いてまいります」
「アウシュダール?」
 何を言っているのだろう……。
 テセウスの心に疑問があふれていく。
(父上が亡くなられたと聞けば、誰よりも早くおそばに駆けつけようとする子なのに……)
「テセウス兄上」
 まるでテセウスの心を知っているように、アウシュダールは兄の名を呼ぶ。
 その声に、アウシュダールと瞳を合わせた瞬間、テセウス視線はその目に絡みとられた。
 自分の心がその瞳に吸い込まれ、包み込まれ、そして麻痺していくような感覚。
 それは自分の神の力――なのだと、アウシュダールの瞳は告げる。
『兄上に必要なのは、エーツ山脈を越え、歩んできたこの道を引き返すことなく突き進む意志です。我等に引き返す道はないのです。目的を果たすために今、わたしたちはここにいるのです』
 テセウスはその瞳を見つめ、その力強い瞳の光と出会うたびに、巨大な力が自分の中に宿り、強靭な意志が自分に宿るのを驚愕の思いで受け止めてきた。
 その一方で、何かを失っていく喪失感をぼんやりと感じてもいた。
 離すまいと握り締めていたものが、目覚めると実は夢の中のもので、現実には手の中にはなにもない時のように。
 夢の中の出来事だったのだと言いきかせるたびに、手の平の感触は現実味を帯びていき、ふいに見えない不安が襲いかかってくる時のように。
 どちらが現実で、どちらが夢なのか、いても立ってもいられない焦燥感だけが取り残される。
 今もまたその感覚がテセウスを襲っていた。
「…………」
 自分が今なにを何を決断したのか、何をしようとしていたのか、突然思い出せなくなっていたのた゜。
――引き返そう! 
 テセウスは、エーツ山脈のどこかでそう告げる自分の悲鳴に近い声を遠くに聞いた。
――このまま、先に進むことは出来ない。引き返す!
 エーツ山脈の山中で、テセウスは何度もそう繰り返し叫び、そう主張し、行動しようとしていたのではなかっただろうか、と。
 だが、それは夢の中で見た奇妙な出来事なのかと思い込んでいた。
 本当に引き返そうと決断をしたのなら、そうするだけの原因が当然あるはずだった。
 あるならば、山を越え、国境を越えてこの場所に立っていることはありえない。
 どれほど考えてみても、途中で目的を果たさすに国に引き返すほどの重大な事件や事故はなかったはずだ。
 ノストールを出て以来、一人のけが人もなく順調にここまで来たのだ。
 けれどテセウスは、自分がとんでもない大きな過ちを失念しているように思われてしかたがないのだ。
「テセウス兄上」
 テセウスが疑問をもち不安にさいなまれるたびに、アウシュダールは優しく兄の瞳をのぞき込んだ。
「兄上は、なにもご心配などされなくていいのですよ。」
 琥珀色の大きな瞳がテセウスをとらえる。
「兄上のご決断には、今までも、これからも微塵の過ちなどございません」
 そして、アウシュダールは左胸の少し上に自分の右手をあてる。
 そこは、アル神の息子である証の三日月のアザがある場所だった。
「私がそばにいます」
 アウシュダールの言葉は、テセウスの中で大きな支えとして染み込んでいく。。
 自分に前へ、前へと進む力を与え、押し出していく力を与えてくれる存在。
 だが、同時に、大きな両手の中につつまれ、周囲を見ることもできぬまま、見知らぬどこかへと運ばれて行く無力な自分がいるような錯覚に襲われる。
 どちらが夢で、どちらが現実なのか、一瞬顔をのぞかせる疑問もアウシュダールの言葉に消え去っていく
――なぜ、自分はあらがわないのだろう……。
 どこかで執拗に自分の声が問いかける。
「兄上、テセウス兄上」
 しかしその声は、アウシュダールに名を呼ばれて、再び消えた。
 次に訪れるのはアウシュダールのまだ幼い声だけ。頭の芯から全身へと広がる心地よいしびれがテセウスを支配していく。
 ――あらがう必要がなど何もないではないか。 
 アウシュダールの瞳、言葉は、やがてテセウス自身のものとして浸透し、意識の変化を遂げていった。

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