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第 九 章 《 禁 忌 の 指 輪 》

 風になびく銀色の髪が、細く輝く月のわずかな明かりに照らされて、流れ星のように、地上という暗闇の中を流れていく。
 イルダーグの背に必死にしがみつきながら、ルナの体はガタガタと震えていた。
 その震えは、奥歯をかみしめても、目をきつく閉じても、体はいっこうにいうことを聞かない。
「イルダーグ……ごめんね……ごめんね……」
『謝る……必要は……ありません』
 ルナの自分を責める言葉に、イルダーグは冷静に思念を返した。
『責めるべきは……私自身……』
 その思念は、ルナが自分を責める以上の大きな悔恨と、そして極度の疲労に覆われている。
「イルダーグ、止まって!」
 突然、ルナは叫んだ。
「止まって! イルダーグ! 止まって!」
 その叫びに、イルダーグは不承不承速度をおとし、人目にふれない森を探して走りを止めた。
『どうされたのか……ここで、走りを止めてしまえば、エーツ山脈を抜け切ることはお約束できない……』
 月明かりにうっすらと闇の中に黒い姿を浮かばせるエーツ山脈をルナとイルダーグは見ていた。
 ふもとの境界は間近に迫っている。
 ノストールの最北端である最後の村シャンバリア村を過ぎれば、あとは険しい山へと続く樹海への道が待っているのだ。
 ルナの父、カルザキア王守護妖獣イルダーグは、その瀕死状態の体でエーツ・エマザー山脈を越えて、ルナをテセウス皇太子たちのもとに連れて行こうとしていた。
「いいよ。もうここで……イルダーグはもう休んでいい。こんなにたくさん血が出てるのに……もう走れないのに、我慢しなくていいよ……」
 ルナは震える手で、イルダーグの大きな顔を両手を大きく広げてそっとだきしめた。
 その瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
 ルナの服も、イルダーグから流れ出る大量の青い血で染まっていた。
「ありがとう……ここまで、連れて来てくれて……あとは、自分の足でいくよ」
『それは……無理です……。この季節のエーツ山脈は雪が覆っています。とても……あなたの……足では……越えられません……』
 イルダーグはそう言いかけて、自分の体が震えていることに気がついたが、それはルナの震えが伝わって来たのだと知る。
 幼い子供の震えは、ただ我が身を案じる心細さから来ているものではないことを王の守護妖獣は悟った。
――恐れている。自分に降りかかる出来事にではなく……自分以外の者の身におこる死に対して震えている……。
 それを感じ取ったとき、闇夜に光る瞳が穏やかなものに変化した。
『では……しばし休息を……』
「うん……うん……。ありがとう……」
 ルナは、そのままイルダーグの大きな顔に頬ずりをした。
『では……少し……お話しをしましょうか……』
 イルダーグは、体を地面に伏せると、ルナにもそばの大木にもたれかかり休むように告げた。
『酷なことをお話し致します。いまの城であなたのことを覚えている者はいません』
「…………」
 ルナは父の守護妖獣の言葉に、激しく首を振った。
「違う。そんなことないよ。母上も父上も、ルナのことを忘れていなかった。イルダーグだって知ってるよね。母上は、前みたいに一緒にいていいと言ってくれた。兄上たちだって、きっと忘れてない。もし忘れていても、お会いすればきっと思い出してくれる……」
『王は第四王子の誕生したばかりの命を断ったその日より、ご自身を責め続けられておりました。その悔恨の強い思いが、突然現れたアウシュダール王子の偽りの術を受け入れなかったのでしょう。あなたの記憶を消されるということは、王子の死さえを忘れてしまうことを意味する。王は、偽りの記憶に塗り変えられることを拒まれたのです。ですが……他の人々にはそれほどの強固な意志は…』
 ルナは、両の手の平をじっとみつめた。
 月の光が小さな手を浮かび上がらせ、そこに受け取った金と銀に輝く指輪が輝いていた。
 しかし、ルナが見ていたのは、イルダーグの青い血とともに、こびりついていた赤い血だった。
 カルザキア王の手を握り締めたときについた、父の赤い血だった。
 イルダーグの言葉は、父王がルナに語った言葉をたどり、事実を受け入れることを幼い子に求めた
「偽りの術……って?」
 ルナは不安という見えない力に押しつぶされそうだった。
 もう、父の大きな手の平が自分の頭を優しく包み撫でてくれないことを誰よりも知っていたのは、ルナ自身だったからだ。
『偽りの術とは、銀色の髪をもつ王子の記憶を人々の記憶から消し去り、自分を生まれながらの第四王子としての記憶を植えつける術です』
 ルナはそんな術で、兄たちが自分を忘れることなど到底信じられなかった。
 どんなときもルナをあたたかく守ってくれたテセウス。
 優しく気品があり、いろいろな話をしてくれたアルクメーネ。
 そして、毎日どこに行くのも、笑うのも、怒られるのも、いつも一緒だったクロト。
 大好きな兄たちが自分を忘れることがあるはずがなかった。
 しかし……。
「アウシュダール……って……子が、本当に父上と母上の子供で、ルナは拾われた子なの……?」
 だから、自分が家族として一緒にいられなくなったのかもしれない、と不安がよぎる。
 けれど、それは、どうしても認めたくない出来事だった。
 認めればノストールから自分の存在が消えてしまいそうで、ルナは父の血がついた手をきつく握りしめると、救いを求めるようにイルダーグを見つめた。
「イルダーグ」
『わかりません……』
 イルダーグはルナの心にこたえられないことに、申し訳なさそうに首を横に振った。
『……皇太子、殿下たちをはじめ、国の人々は銀色の髪を持つ王子のことは忘れ去り、アウシュダール様を弟王子として……また、シルク・トトゥ神の転身人として認め、信じておられる……。ただし…ラマイネ王妃は……あなたがいなくなったあの日から今日まで、深い眠りについたままでした。アウシュダール様の存在すらご存知ないでしょう。ただ、それも、王妃にかけられた術であるのかもしれません。が……いずれにしても、真実はわれわれ守護妖獣にはわかりません……』
「でも、兄上に会えば、絶対に思い出してくれるよ……」
『ルナ様。アウシュダール王子はあなたの存在を許してはおかないでしょう。あなたが生きていると知れば放ってはおかないでしょう。もし万が一知るところとなれば……あなたの命が危険になります』
 イルダーグの間髪おかない返答に、ルナはそれがどれほどの意味をもつことなのかを感じ取った。
「でも……兄上に……、兄上には…指輪をお渡ししないと……」
 ルナは、再び指輪を握ったままの手を開いた。
 イルダーグは優しい瞳でうなづく。
『その手の中にある……カルザキア王よりあなたがあずかりし〈アルディナの指輪〉は……二つの指輪からできおります』
「え……?」
 初めて聞く指輪の仕組みに、ルナは驚いて指輪を夜空にかかげた。
『私の言葉通りに指輪を動かしてください』
「うん……」
 その言葉に従いリングを両方の指で持ち、上下左右にゆっくりとひねっていくと、ある部分で簡単に二つにわかれた。
 白く輝く宝石のついた金の指輪と、平打ちされた細かな装飾が施されている銀の指輪とに。
『金の指輪はあなたのその左手に、銀の指輪は……』
 イルダーグは薄れていきそうになる意識を懸命にこらえる。
『決して人に奪われることのない場所へ……』
 その言葉と同時に、指輪が銀色の光を放った。
 強烈な光は、ルナやイルダーグの姿さえかき消していく。
「イルダーグ?」
 ルナは思わず小さな悲鳴を上げた。
 あまりに光が強すぎて、目の前が真っ白になったのだ。
『ご心配されませんよう……』
 その言葉どおり、やがて光は徐々に薄らいでいった。
「なに……?」
『指輪は、眠りにつきました』
 イルダーグの言葉にルナが手のひらを見ると、金の指輪を残し、もうひとつの銀の指輪は消えてしまっていた。
『ノストールは小国であるがゆえ、その国を護るアル神は王位継承の指輪が、正式な王の指に収まるために様々な秘密をもうけました。二つにわかれる指輪……王が世継ぎの王子へ直に渡すことができない場合、指輪を二つにわけて、邪な気持ちをもつ者から指輪を守ることができるようにしました。王の意志に従い次の王へ受け継がれれば、片方の指輪は自然に新王のもとに現れます……』
「もし……兄上に指輪を届けられなかったら……?」
『…………』
 ふいにイルダーグが黙り込んだ。
「イルダーグ……」
『来ます……』
「え……?」
 ルナは追っ手に見つかったのかと、当たりを見回した。
 だが、森の中は暗く人の気配もない。
『王を襲った……妖獣です……』

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