第 九 章 《 禁 忌 の 指 輪 》
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――!!
アルティナ城ラマイネ王妃の寝室にいたルナは、その瞬間、突然落雷が全身を貫いたような衝撃を受けて、体を強ばらせた。
「父上!?」
考えるよりも、その言葉が口をついて出ていた。
疑問をもつことさえ出来ない直感が全身に訴えかける。
「父上――!!」
見えない恐怖に貫かれ、母の部屋から飛び出す。
そしてルナは何かを考えることも、自分が何をしようとしているかもわからないまま、父カルザキア王の部屋へと矢の如く走りだしていた。
この夜、ルナは、泊めてくれたマーキッシュの村の村長の家をこっそりと抜け出して、アルティナ城まで来ていたのだ。
ノストールの記憶は、懐かしい人々、風景、風の流れに包まれるうちに徐々に蘇り、自分がいた場所なのだという確認するたびに、家族への思いがつのりあふれた。
――会いたい。
はじめは、城の見える草むらに身を忍ばせ、城の中に入ることをためらう心があった。
だが、それも母にひと目会いたいと思う気持ちには勝てずに、見張りの兵たちの目をかいくぐって、城の中へ入り込んだのだ。
(もし、だれかに見つかったら、あきらめて逃げよう)
ルナは賭けにも似た思いで、城に忍び込んだ。
だが奇妙なことに、城の中はまったく無防備で、どこにも兵士の姿が見当たらなかった。
王妃の私室へ続く通路にも、ロビーにも、階段の出入り口にも。
警備の兵士がない。
奇妙な状況だと思えた。
けれど、だれにも邪魔されることなく母に会える道が、見えない力によって開かれているようにも思えた。
ためらっているとその道が閉じてしまうかもしれない。
そう考えると、ルナはこの機会を逃さずに、母のもとへ行こうと、決めて走り続けた。。
「母上……」
ラマイネ王妃の私室の一番奥にある寝室の扉が目の前にあった。
覚えていないはずの城の中を、体が勝手に目的の部屋へと導いてくれたのだ。
真っ赤な絨毯の敷かれた階段を上り、歴代の王や王妃の肖像画の並ぶ廊下を駆け抜け、母の部屋の扉を見つけたときには、ルナは自分が確かにここにいたのだという実感に包まれていた。
ルナは暗闇の中、扉を静かに開けて、部屋の中にそっと入り込む。
手にしているランプを部屋の中にある備え付けのロウソクの燭台の脇に置き、火を灯し、再びランプを手にするもう一つの奥の部屋へと続く扉の前に向う。
静かに息を吐くが、心臓がトクントクンと高鳴り、苦しくなる。
――この向こうに母上がいる。
暗闇の中、やわらかなランプの灯が緊張にこわばるルナの横顔を照らし出す。
深呼吸をすると、そのまま息を潜めて寝室の扉を音を立てないように、静か静かに開き、わずかな隙間をつくり、滑り込むように寝室に入り込み、再び扉をとじた。
中央の奥、天蓋付寝台に歩み寄る。
静かな寝息をたてて眠っているラマイネ王妃の寝顔がそこにあった。
ルナは息を殺して、長い間静かに眠り付ける母をじっと見つめていた。
夢の中でさえ、忘れることのなかったやさしい母の顔があった。
「母上……。ルナ……ただいま帰りました」
そう言葉にした途端、ルナの緑色の大きな瞳から、真珠のような涙がポロぽろとこぼれ落ちた。
「母上……ルナのこと、好き? 忘れてない?」
声は、声にならなかった。
やっと会えて嬉しいという思いと、一方で目を覚ました母が自分の存在を否定するのではないかという恐怖心が頭を離れない。
ルナはちからなく床に座り込むと、ベッドの端に顔をうずめ、必死に嗚咽をこらえた。
こわい夢をみるのが嫌で母のベッドにもぐりこんだ時、ルナが夜中にうなされると、ラマイネ王妃はすぐに目を覚ましてくれたものだった。
だが、これほどそばでルナが泣いているというのに、その瞼は綴じたままだった。
――何かが違う。
ルナは気づいた。
母の部屋では常に、ラマイネ王妃の守護妖獣ネフタンが迎えてくれ、言葉をかけてくれた。
それが、いまは何も起こらない。
まるで、ルナがそこに存在しないかのように守護妖獣は現れない。
ルナは知らなかった。
ルナがラマイネ王妃の部屋からさらわれたあの日から、王妃が深い眠りについたままであったことを。
「ルナがいけない子だったから、嫌いになったの? 母上……嫌いでもいいから……ルナのこと忘れないで……」
暗い森の中で、どれほど泣いても、だれの名を呼んでも一人だった悪夢が、突然よみがえる。
夢から覚めても、生まれ育った城の中に帰って来ても、ルナは悪夢から解放されてはいなかった。
「母上……ルナ帰って来ました……」
うつ伏せた顔は涙で濡れ、声は嗚咽になる。
そのとき、ルナの髪に何かが触れた。
ルナの心臓が激しく鼓動を刻みはじめる。
(母上……?)
軟らかな髪をすくようになでる優しい手。
期待と不安が交差した。
ルナは顔を、恐る恐る上げた。
「母上?」
涙で濡れる緑色の瞳に、ラマイネ王妃のほほ笑みが映った。
「母上!」
戸惑いと信じられないことが起きた気がして、ルナは茫然とそのほほ笑みを見つめていた。
――ルナ……。
母ラマイネ王妃がそう呼びかける碧い瞳を見たときに、ルナは初めて、はっと胸をつくものがあることを知った。
ルナを見つめる温かい母のまなざし。
いつもその瞳とともに、ルナはあったのだ。
城にいたときも、ハーフノーム島で泣きながら過ごした日々も、その瞳はルナを見守り続けていたのだと。
唐突に、イリアの死の間際に言い残した言葉が駆け抜けていく。
――不思議だよね……崖から飛び降りたその時に、『あの子を助けて…』って、そう呼びかける声を聞いたような気がした……。
――その声は今日までずっとあたしと一緒にいてくれた。『あなたは……まだ、死んじゃいけない……』って。だから……あたしは、今日まで生きてこれた……。
イリアはそう言っていた。
ルナ自身、時折、イリアと過ごしているときに、だれかが自分を見つめていると感じたこともあったのだ。
だが、それは時に頬をすりぬけていく春風のように、あまりにも自然だったために、その存在に気がつかなかったのだ。
「イリアかあさんを……知ってる?」
ルナは思わずそう聞いていた。
ラマイネゆっくり微笑みながら、上半身をベッドから起こし、限りない愛情をそそぐように温かな手でルナの涙で濡れた顔をそっとぬぐっていく。
その瞳は、「ルナの身に起きたことすべてを知っていますよ」と語っているようにも思えた。
「母上は、ずっと、ルナのこと見ていてくれたの? イリアかあさんを助けてくれたのも、母上だったの?」
ラマイネ王妃は驚いたまま戸惑っているルナに、両手を小さく広げた。
「母上……」
ルナは、迷うことなくラマイネ王妃のあたたかな腕の中に飛びこんだ。
夢にまで見た母の腕の中に。
なつかしい母の匂い、軟らかな胸、そして頬や額に愛情とともに注がれる唇が、母といるのだということを実感させる。
「ルナ……帰って来てもいいの?」
夢の中にいるみたいだ、とルナは思った。
涙はとまることなく流れ続けていたが、それは先刻までの絶望と隣り合わせの涙ではなかった。
顔を上げると、ほほ笑むラマイネ妃の頬にも涙が伝っていた。
そして、そのあたたかな眼差しはルナだけを見つめていた。
――あなたが泣いていたときに、助けてあげられなかった。苦しんでいるのも、頑張ったことも、優しくなったことも、強くなったことも、全部見ていたけど、何もできなかったことを許して。
そう碧い瞳が、ルナの心に語りかけるのをルナは何度も何度もうなずいて応えた。
「母上……母上……」
もう、苦しむことはないんだ。
ルナの心が喜びに満ちあふれていったとき、それは起こった。
「!?」
突然、稲妻が全身を貫いたような衝撃がルナを襲ったのだ。
ルナは、翠の瞳を驚愕に大きく見開き、母を見つめた。
「父上が……」
そう言葉にした瞬間、ルナは父カルザキア王の身になにかが起きたのだと直感した。
ラマイネ王妃は堅い表情でうなずいた。
――行って。
瞳はそう語りかけた。
ルナは、ラマイネ王妃にすぐ戻るからと告げると、カルザキア王の部屋目指して走りだしていた。
なぜ父のことだと思ったのかはわからない。
ただ、それは疑うべき余地のない確信だった。
ルナは走った。
そして、同じ階にあるカルザキア王の部屋へと続く角を曲がろうとしたとき、突然現れた人物と出合い頭に勢いよくぶつかり、反動でそのまま後ろにひっくり返ってしまった。
あわててルナは立ち上がると、ぶつかった相手に視線を走らせる。
そこにはルナとほぼ同じ背丈の少年が、ひどく驚いた顔でルナを見たまま立ち尽くしていた。
が、ルナと目が合うと、はっとしたように来た通路とは反対方向に走りだしていった。
そのことが、ルナの胸騒ぎをひどくした。
衝動的にその子どもを追いかけようとする自分を押し止どめて、ルナはカルザキア王の部屋へ向かった。
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