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第八章《ハーフノームの海賊》

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 深淵の闇の中にきらめく夜空の星々。
 そのはるか下には、より深い静寂にその身を染める黒い海がどこまでも広がっていた。
 はるかはるか遠い昔、神々の最初の子として誕生した海の女神ドナ神の司りし大海。
 青空の中でまばゆい陽を受け、青い水面に美しい光をきらめかせながら、人々の心を魅きつけ、そして癒し続ける海。
 だが、陽が沈むとその様相は一変する。
 まるで闇へと続く巨大な入り口のように、人の心に小さなさざ波を引き起こし、揺さぶり、招き寄せようとするような不気味さを漂わせる存在となる。
「夜の海に漕ぎ出してはいけない」
 それが海に生きる者たちの暗黙の掟だった。
 彼らは語り続ける。
 昼間は陽の光を嫌い海底深く眠っている多くの妖獣たちが、闇の訪れと同時に目を覚まし夜の波間に現れるのだと。
 そして、暗い海に漂う船を見つけては波音に紛れて静かに近づき、時に幻覚で惑わし、時に幻聴で誘い出しては襲いかかる。
 なかでも、巨大な海蛇の姿をした妖獣ファージルはドナ神の住処を守る海の番人として、人々から最も恐れらる妖獣だった。
 夜、女神の静かな時間を妨げようとする者を見つけると容赦なくその牙を向け襲いかかる。
 だから、人々は海に船出をするとき、自分たち母国の神々に祈り、次に海の女神ドナに尊敬と忠誠の志を示すために、航海の無事を祈り、大地に咲く色とりどりの花を海面に捧げる散華の儀式を行う。
 海で、恐るべき住人たちの眠りを妨げることがないように、そしてドナ神の加護を得られるようにとの願いをこめて。
 万が一、夜の海に漕ぎ出さねばならなくなった時、船上で夜を越さねばならなくなった時、女神ドナ神の加護を少しでも受けた者は無事に過ごすことができた。
 しかし、女神に祈りを捧げぬ者に、航海の安全を保障するものはどこにもいない。 
 さらに、その海には人々を恐怖におとしいれるもうひとつの存在があった。
 海賊。
 ニュウズ海洋には、海賊たちの住処となる小島が多く浮かぶ。
 昼夜を問わず様々な海賊が出没し、船を見つけては襲いかかり蛮行の限りをつくした。
 今、そのだれもが恐れる闇夜の大海を、いくつもの篝火を明々と灯し、悠然と進み続けるひとつの船の姿があった。
 船首に巨大な海蛇・妖獣ファージルがかたどられ、マストにたなびく旗には砂時計に絡みつく大海蛇ファージルの絵が、黒い布地の中央に大きく描かれていた。
――ハーフノームの海賊。
 それが、この旗を掲げる者たちの呼び名だった。
 ニュウズ海洋のなみいる海賊の中でも、時に同業の海賊船にさえ平気で襲いかかることから、「海の暴君」としてひときわ恐れられている海賊たちの船だった。 
 荒れ狂う高波にさえびくともしない船乗りたちが口々に言う。
「広い海のどこかで万が一、妖獣・ファージルの印を目にしたなら、一刻も早くその場から立ち去れ」と。
 ハーフノームの海賊は小さな船影さえ見落とさない。
 目に止まれば最後、どれほど全速力で逃げてもあっというまに追いつかれてしまい、全財産を奪われ、身ぐるみをはがされて海のもくずと消えるか、一生海賊の奴隷として生きていく運命が待っている、と。
 その誰からも恐れられるハーフノームの海賊たちを乗せた船は、いま数週間ぶりに彼らの住処であるハーフノーム島へ還る航路をたどっていた。
 甲板の上では、海の静かさと相反した賑やかな酒盛りがいたる場所で繰り広げられていた。
 浴びるように酒を飲み続けるもの、賭け事に興じるもの、ケンカをはじめるもの、高いびきで眠り込むもの。
 それぞれが思い思いの楽しみ方で酒宴に浸っていた。
 彼らの船は数日前、嵐の中で航路を見失いさまよっていた商人の船を見つけて襲撃し、宝石や金貨などを手にしたばかりだった。
 それらは船を降りれば分け前として配分される。
 島には家族をもつ者も多く、また賭け事に興じる酒場にも不自由はしない。
 まさに海賊たちはこの夜、凱旋帰還に酔いしれていた。
 やがて夜空が徐々に白み始めたころ、ハーフノーム島の方角から、海賊船に向かって突き進んでくる小さな船影―グート艇―があった。
 グート艇は二枚の三角帆を張ることで、風を最大限に利用し走り回る小型の快速艇の通称である。
 その小舟の帆には、ハーフノームの海賊の印、妖獣ファージルと砂時計の絵が真紅の布地に染め抜かれていた。
「あのぶっ飛び走法は、ネイだな」
 マストの最上部の見張り台で見張り番をしていたロッシュが、グート艇の走りをぼそりとつぶやいた。
 短く刈り上げた頭と不精ヒゲ、陽に焼けた肌と逞しい筋肉質の体が、若いながらも海賊らしい風貌と精悍さを漂わせる。
「もうすぐ到着だっていうのに何しに来たんだか……」
 ロッシュはそこまで言うとはっとしたように、自分の隣で同じようにグート艇を見ている少年にその視線を向けた。
 けれど、深緑の髪をした少年は、ロッシュの言葉に特に反応もしめさずに、巧みに海風と帆をあやつり風のように近づいてくるグート艇を無表情にみつめている。
(あいかわらず、無口な奴だな……)
 ロッシュは静かに息を吸い込むと、船首付近で酒盛りをしている一団に向かって大声で叫んだ。
「かしらぁ! ネイが来ますぜー!」
 ロッシュの声に、甲板上の男たちがざわめきながらロッシュの指示す方向へ視線を走らせた。
「なにか……あったのかぁ?」
 数人の男たちが立ち上がり、手に酒ビンをもったままふらふらとした足取りでその方向へ歩み出す。
「おお、あのぶっとび走りはネイに違いありませんぜ、かしら」
 かしらと呼ばれた、眼光の鋭いあごひげをはやしたひときわ体格のよい男が、酒を飲む手を止めたままじっと島の方向をみつめていた。
 頬からあごにかけて長い傷痕をもち、口元を覆う髭が実際の年齢を一層隠して見せる。
 その男こそが、人々から恐れられている海賊ハーフノームの頭領ジル・モーガルだった。
 そのジルと一緒に酒を飲んでいた小太りの男は、千鳥足で右舷甲板のてすりにもたれ掛かり、上半身を乗り出してネイのグート艇を見下ろすと、大きなあくびをしながら、おおげさに敬礼をした。
「出迎えごくろう!」
 だが、まだ少年のような肢体をしたネイと呼ばれた少女は、男の言葉など耳にはいっていないように、グート艇を海賊船の真横にぴたりとつけ併走させながら、甲板を仰ぎ見て張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「かしらーぁ! ジーン!!」
 その切迫したただならぬ声の響きに、酔いどれていた男たちの顔つきが真顔に変わる。
「イリア姉さんが! イリア姉さんが、危篤だー! 危篤なんだよぉ――!!」
 どよめきが起こり、視線は自然とジルに集中した。
「イリア姉さんが……?」
 見張り台のロッシュは、隣でジーンが立ち上がる気配に振り返る。が、その表情が驚きに一変した。それまでロッシュの横にいた無口な少年は、見張り台を飛び出し、マストの上を駆け出していたからだ。
「おいジーン! やめろ!」
 ロッシュは少年が何をしようとしているのかに気づいて思わず止めようと叫ぶ。
 だが、ジーンはマストの端においてあった太いロープを両手に掴むと、ためらうことなく足場を蹴りつけ、そのまま宙に飛び降りたのだ。
 その様子を誰もが驚愕に目を見開き見つめた。
 明け方の虚空へ飛び出した少年の小さな体は大きく弧を描くようにして降下し、鳥のように滑るように甲板に着地した。
「お、おい、ジーン?! 大丈夫か?」
 ロッシュは見張り台から身を乗り出し、はるか下のジーンに向かって呼びかけた。
 少年の身軽さや敏捷性は知っているものの、見張り台から甲板までは十五ルーレルもの高さがある。大の男でもロープ一本で飛び降りるのは相当の度胸が必要だった。
 しかも、ジーンが飛ぶのを目にしたのは皆この日ががはじめてだった。
 ジーンの突然の行動に船上が水を打ったように静かになる。
 少年はそんな周囲のことなどまったく目にはいらないのか、そのまま側舷からネイの待つグート艇を確認すると、躊躇することなく海面に飛び込んだ。
「あいつ……」
 唖然とするロッシュや海賊船の男たちを尻目に、ネイは海面に浮かんできた少年を引き上げると、風を巧みに利用してグート艇のを一気に方向転換させ、島に向かって走り去って行った。

 朝焼けに染まりつつある空を背に、ネイのグート艇が入江に姿を見せると、それを待ち受けていた数人の女たちが接岸を待ち切れないように口々に少年の名を呼びながら、膝を海水に浸しグート艇に集まってくる。
「ジーン、馬を用意してある。早く行きな」
「イリアがうわ言で、あんたの名前ばかり繰り返し呼んでるって。急ぐんだよ」
「本当に突然だったんだよ。昨日の夜、容体が急変したんだ。テルグがずっとつきっきりで診てるから」
 女たちは、グート艇から降り立った全身濡れたままの少年の体に、用意していた厚い柔らかなファシム地の大きな布で体を覆うように次から次へとかけていく。
 ネイもグート艇をその女たちにまかせると指笛をならした。すぐに岩場で待っていた自分の馬が駆け寄ってくる。その手綱をとるとジーンの体を馬上に乗せ、自分もその後ろにまたがった。
「はあっ!」
 ピシリという手綱の音が響き、馬の横腹を蹴る。
「行くよ!」
 その声に合わせるように、馬がいななき走りだした。
 ジーンの母、イリアの待つ家に向かって。
 部屋の扉が勢いよく開くと、集まっていた大勢の女たちは一斉にその方振り返った。
 そして、そこにネイに付き添われるように立っている少年の姿を認めると、悲しみの中に安堵の表情をたたえながら彼にベッドへ続く道をゆずった。
「ジーン……。ジーン……」
 ベッドの上の女性が、意識のない荒い呼吸の中で少年の名を呼び続けていた。
「かあさん……」
 ジーンはそのそばに駆け寄り、イリアの手をとり叫んだ。
「かあさん! 今帰って来たよ! 僕だよ。かしらもすぐに帰ってくる。わかるよね? 目を覚まして! 僕はここにいるよ! かあさん!」
「ジー……ン……」
 その必死に呼びかける声が届いたのか、イリアの様子が徐々に落ち着いたものに変わっていく。
 長く伸びた緑色の髪は肩でひとつに束ねられ、血の気のひいた青白い顔は、母とはいってもまだ若く、少女のような雰囲気を漂わせている。
「僕だよ。わかる? かあさん!!」
 母の顔を見つめる少年の緑色の瞳にじわりと涙があふれる。
「だめだ、かあさん。死んだらだめだ! 目を覚まして!」
 ジーンは救いを求めるように、真向かいに立つテルグを見つめるが、年老いた白髪の療法士は静かに首を横に振るだけだった。
――もって半年の命だったんじゃ……。それが、三年も寿命をのばしておる。不思議なこともあるものよのぉ。
 三週間前、港を立つときにテルグがジルにそう語るのをジーンは聞いていた。
 その日はイリアの体調も安定していたこともありネイと一緒に笑顔で見送ってくれたのだ。
 それだけに、ジーンにとってイリアの体調の急変は、予想もしていない出来事だった。
 ジーンは、イリアの両肩をつかむと必死に揺り起こそうとした。
「だめだよ、かあさん! 死んだらだめだ! 僕はここにいるよ。かあさん!!」
「ジーン、無茶しちゃだめだよ」
 ネイがジーンの手をとって止めようとする。だが、少年の耳には届いていなかった。
 周囲の人々は、その様子を心を痛めながら見守るしかなかった。
 しばらくすると、部屋にひときわ大きな体格をした人物が現れた。
 そして、イリアにしがみつくようにしている少年の肩を大きな手でつかみ、その動きを止めさせた。
「かしら……」
 ジーンは自分の肩をつかむみイリアから引き離す存在に振り返り、そこにイリアを見下ろすジルの姿に気づく。
 この家の主であるジルが現れると、それまでイリアを見守っていた人々は、ジルとジーン、そしてテルグ療法士の三人だけを残して部屋から姿を消していった。
 それが何を意味することなのか、ジーンはその意味を知り視線を落とす。
 家族の人間が亡くなるとき、最後の別れを家族だけですごせるようにするのが島のならわしだった。 
 ジルは、ベッドの傍らにある粗削りだが丈夫に作られた木の椅子を引き寄せて腰をおろすと、妻の手をとり、その上にジーンの小さな手を重ねた。
「イリア」
 ジルの低く響く声がとどいたのか、イリアのまぶたがゆっくりと開いた。
「かあさん」
 少年の声にイリアの意識が徐々に鮮明なものなっていく。
「ジーン……、ジル……来てくれたのね……」
 イリアは天井を見上げたまま、静かにほほ笑んだ。
 その黒く美しい瞳は三年前のある嵐の夜を境に、視力を失ったままだった。
 三年前――イリアは目の前で、幼い息子が巨大な竜巻にさらわれるのをどうすることもできずに見ているしかなかった。
 イリアはそのまま竜巻を追いかけジーンを捜し求めた。
 くる日もくる日も、病弱なイリアが寝食を忘れ、島の海岸線を辿りただひたすらに息子を探し続けたのだ。
 しかし、島の人々はそのことを知らなかった。
 竜巻はハーフノーム島全体に襲いかかり、多くの人々から家や家族を奪い、鋭い傷痕を残して去ったのだ。
 誰もジーンが行方不明となり、イリアが一人で探していることに気づいていなかった。
 しかも頼りの男たちは、海に出たまま無事かどうかも分からない状況だった。
 数日後、海賊船が島へ戻り事態を知った男たちがイリアと息子を探しはじめ、海辺の岩陰で幼子を抱き締めたまま倒れているイリアを発見したとき、彼女は瀕死の状態だった。
 衰弱が激しく「もって約半月の命」と、療法士のテルグはジルにそう宣告した。
 イリアの両親はすでに亡く、ジルとジーンだけが彼女の唯一の家族だった。
 海賊の頭領の妻とはいっても、島では目立つことのない女性であり、誰もがその短い命を哀れに思いながらも、受け入れていた。
 だが、イリアは奇跡的に命をつないだ。
 死の宣告をも乗り越え、同じように衰弱し意識の混濁状態にあったジーンが回復するのに同調するかのように、イリア自身もまたよくなっていったのだ。
 しかし、その一方で視力は急激に失われていった。
 息子を抱き締めることができるまでに回復したとき、すでに光は失われていた。
 けれど、イリアはこれまで以上にジーンに愛情を注ぎながら、穏やかな日々を暮らして来たのだった。
「あたしね……楽しかった……」
 イリアは左の手で、ジーンの肩、首、そして頬を愛しげになでながら、苦しげな息づかいの中、ほほ笑んだ。
「本当に……ありがとう……ジーン……。……ジル……」
「かあさん……」
「それと……ずっと謝りたいことがあったの……ごめんね……。ジーン」
 イリアの言葉に、ジルが一瞬目を見張った。
「イリア……?」
「わかってた……。ジーンは……本当のあの子は、あの時に……もう死んでたってこと……」 
 今日までジーンと呼ばれて来た少年は、その言葉を耳にしたと同時に体をこわばらせた。
「でも、信じたくなかった……。信じられなかった……。あの子を失ったことを認めてしまったら、あたしは……生きていられなかったから……」
 イリアの手は、ジーンの頬、鼻を、唇をその体温を確かめるように優しく優しく触れていく。 
「だから……毎日……毎日……あの竜巻にさらわれたジーンを……探し続けた……。だけどね……どこを探しても、ジーンはいなかった。ジル、あんたにそのことを話したくても……ずっと海に出たっきりで……あの竜巻であんたが無事かどうかもわからなかった。だから……ジーンがいなくなったとき……あたしは独りぼっちになってしまう気がしたんだ……どれほど辛かったか……。寂しくて……苦しくて……辛くて……自分を責めて、責めて、気が狂いかけてた。それでね……死のうと思って、海に身を投げたんだ……」
 妻の突然の告白にも、ジルはただじっと耳を傾けていた。
「なのに、不思議だよね……崖から飛び降りたその時に、『あの子を助けて…』って、そう呼びかける声を聞いたような気がした……。そして落ちて行くあたしの目に、海に浮かんでいたおまえの姿が飛び込んで来たんだよ……ジーン」
 イリアはその時のことを思い出しているのか、嬉しそうにほほ笑んだ。
「ドナ神が、海に消えていったおとうや、おかあが、あたしにジーンを返してくれたんだ……って、そう思った。それに……その声はずっとあたしと一緒にいてくれた。 『あなたは……まだ、死んじゃいけない……』って、ずっと励まされた。だから……あたしは、今日まで生きて来れた……」
「イリア……」
 体を気遣って、話を止めようとするジルをイリアは小さく首を振って拒む。
「それまでのあたしは……だめな母親だった。弱い体をいいわけに、ジーンを大切にしてあげられなかった。ジル、あんたのことも恨んだ。家族よりも、海と船ばかりを見ているあんたに……。ジーンを海賊にしようとしたあんたに……海賊なんて……好きじゃなかった。でも、あたしはこの島で生まれ、育った。おとうも海で死んだ……。あんたも、ジーンもそうなるのかと思うと……毎日がただ空しくて、悲しくて、生きているのが辛かった……」
 イリアの瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
 それまで、黙ってたたずんでいたテルグ療法士が、一礼をすると部屋から退出した。
 窓のカーテンの間から、明るい日差しが射し込んでくる。
「でもね……目が見えなくなったのに、この三年間は本当に楽しくて、嬉しくて、幸せだった。ジーンのおかげだね。あんたがいてくれたから、あたしに生きる力を注いでくれた。ジル……あんたも島にいるときは、家にいてくれるようになった。やさしくなった」
「イリア…」
 ジルの大きな手が、イリアの頬につつみこむように触れた。
「ありがとう……ジーン……。幼いあんたは戸惑いながら……息子になってくれた。本当はあんたを探してるはずの親に悪いと思ったこともあったけど……この手からあんたを離すなんて、考えられなかった……。ごめんね、ジーン」
 イリアの目から涙があふれ、次々とこぼれ落ちていくのを、ジルの親指がそっと拭う。
「僕、かあさんのこと大好きだよ。ずっと前のことなんて覚えていない。だから、かあさんは、早く元気になって! また、いろんな話しをしてよ」
「やさしい子だね……ジーン……。いいや、ルナ…」
「え?」
 突然、その名を呼ばれたとき、少年の鼓動がドクンと音をたてた。
 忘れていたわけではなかった。
 だが、その名を呼びかけるイリアの声を聞いたとき、ルナは聞こえるはずのない別の声が共に呼びかけるのを聞いたような気がしたのだ。
――ルナ……と。
 イリアは、ルナの動揺を感じ取ってか、優しくそして力強くその手を握りしめた。
「夜うなされるとね、『ルナ……悪くない……』って、泣きなきがらしがみついて来たことが、何度もあったんだよ……。きっと、こわいことが、たくさんあったんだろうねぇ……」
 イリアは、夫の手とジーンの手を重ね合わせ、自分の両手で包み込むように添え重ねると、呼吸を整えるために何度も何度も深呼吸を繰り返した。
「あたしのジーン……あたしのルナ……。強く生きるんだよ。かあさんの分まで……ずっと……ずっと…見守ってるんだからね……。それから……ジル、この子のこと、頼んだよ。あたし……あんたのことね……ずっと愛してたよ……ありがとう……」
 その言葉を最後に、イリアの手から力が失われ、まぶたがゆっくりと閉じていった。
「イリア!」
「かあさん…? かあさん!!」
 二人はそう言ったまま言葉を失った。
 イリアの瞳が開くことはもうなかった。
 あまりにも静かな死だった。
 窓からは、ジルとルナ、そしてほほ笑みを残したまま逝ったベッドの上のイリアを包み込むように、朝の日射しが清涼さとともに静かに注ぎこんでいた。

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