第七章〈 王 女 の 行 方〉
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数時間前、フェリエスは晩餐会を終えたその足でルイマーレ宮を訪ねていた。
そこに、今回の招待客、ノストール王国のテセウス皇太子とアウシュダール王子ら一行が滞在していると聞いていたからだ。
シルク・トトゥ神の転身人といわれる王子を実際に見ておきたかったし、大国ナイアデス皇帝の突然の訪問にどのような反応を見せるのか、知りたかったのだ。
フェリエス来訪を耳にして、当然テセウスは驚きと同時に警戒心をもった。
シルク・トトゥ神の転身人をナイアデスに差し出せといってきたのは、つい最近のことなのだ。
テセウスは緊張を隠せない面持ちで、アウシュダールとともに客間に向かう。
そこには、くつろいだ様子で椅子に深々と腰掛け、肘あてに左右の肘をのせ、かるく両手を組んで待っているナイアデス皇帝と、そのかたわらには側近らしき男の立っている姿があった。
「おまたせしました」
互いに儀礼上のあいさつをかわしつづける間、フェリエスの目はアウシュダールに注がれ続けていた。
「アウシュダール殿下はシルク・トトゥ神として覚醒をされたとうかがいました」
全員が席着し、ひと通り挨拶が終ったところで、フェリエスは単刀直入に切り出した。
テセウスの顔に緊張感が走る。
「それで、一度お目にかかって、ごあいさつをとうかがった次第です」
若き皇帝は、目の前に大人びた表情で自分を直視している幼児にほほ笑みかけた。
(銀色の髪ではない……)
フェリエスが最初に思ったのはそのことだった。
しかし、、自分をまっすぐに見つめ続ける意志の強烈な印象を与える瞳はその疑問を消すだけの力があった。
アウシュダールの瞳が穏やかにフェリエスに注がれた。
「あなたのために、ナイアデスへは行かない」
「……!」
フェリエスは、いきなり発せられた言葉に、動揺を隠しながらアウシュダールに問いかけた。
「わたしのため、とは?」
「あなたにはまだ、シルク・トトゥ神を得る資格がない。なぜなら、信じていないから。ほしいのはただ、シルク・トトゥ神を得たという自分の力。それを誇示することの喜び。戦さの象徴としての飾り」
幼子の小さな唇からこぼれる言葉は、部屋の中の空気を見えない力で支配し始めているようだった。
フェリエスの横の椅子に座るオルローは、アウシュダールの子供の姿に違和感を抱く。
だがオルローが、その違和感を感じたまさにその瞬間、アウシュダールの瞳がオルローを見つめた。
口元には意味ありげな笑みが浮かぶ。
オルローの背中に冷たいものが走った。
「予言をあげるよ。あなたが神にそむく行為をひとつでも行ったなら、国には簡単に戻れなくなる。ぼくの助けなくしてはね」
フェリエスは、アウシュダールの傲慢ともいえる言葉に息をのんだ。
「でも、きっとあなたは最初この言葉を疑う。仕方ないよね。ぼくを信じていないから。だけど、きっと頭を下げる。ぼくの足元にひざまづいて力を請いにくる。その時にやっと神の力を知るんだ」
アウシュダールの言葉とその存在感に、フェリエスの顔はこわばっていった。
けれど、アウシュダールはまるで意に介していないかのように、話し続ける。
「でも、もしも万が一、この言葉をくつがえす時が来たなら、ナイアデスへいってあげる。ありえないことだけどね」
フェリエスは、今までに味わったことのない見下されたことによる屈辱感と、大きな不安が自分の心にじわじわと広がっていくのを感じていた。
見えない力が自分の心を圧しようとしてくる感覚が拭えないのだ。
アウシュダール本人に問いただそうと考えて来たさまざまな言葉すら、意味のないもののように感じられてくる。
フェリエスは、自分を屈服させようとする見えない力に抵抗し続けることが、精一杯だった。
「気をつけてね。あなたがリンセンテートスにいる限り、この国の神ビアンが見つめている。もしあなたがビアン神の怒りにふれることをしたなら、その身に災いが起こるよ」
アウシュダールの瞳は妖しく笑っていた。
フェリエスは全身がゾクリと波打つのを感じていた。
(これが……神として転身した者なのか……)
それは、ともにいたオルローも同じ思いだった。
「ねぇ、そうだよね兄上」
アウシュダールはテセウスに小首をかしげながら問いかける。
その様子はあまりにも自然で、普通の幼い子供にしか見えない。
「ノストールの民は、アウシュダールの言葉に従います」
テセウスは最初の緊張が嘘のように消えていることを知った。
目の前にいるのが、大国の皇帝フェリエスだとわかっていても、アウシュダールの言葉がその不安を取り除いてくれているように、落ち着いてふるまうことができるのだ。
「ノストールの守護神であるアル神の息子、シルク・トトゥ神の転身人の言葉に」
フェリエスは、テセウスのその言葉を聞き終ると、おもむろに立ち上がり退出の辞をのべて、帰っていった。
「アウシュダール殿下にはわがナイアデスでお会いできる日を心待ちにしております。ナイアデスの守護神ユク神の待つわが都で」
威厳をもった笑みと、その言葉を残して。
フェリエスの去った扉をしばらく見つめていたテセウスは、時間が経つにつれ、ふとまずいことになるかもしれないと思いはじめた。
自分は、わざわざたずねて来たナイアデス皇帝の用件さえ聞かずに返してしまったのだ。
だが、
「ご心配いりませんよ、兄上」
テセウスの考えなどわかっているというように、アウシュダールがテラスの扉を開け放ち、門を抜けて帰って行くナイアデス皇帝一行の馬車を見下ろしながら、テセウスを招く。
窓の外はすでに闇深く、下弦の月だけが夜の空に静かに輝いていた。
月の輝く銀の光りを見つめるたびに、テセウスはいいようのない気持ちにかられた。
それは夢の中の記憶のように、思い出そうとすればするほど遠ざかっていく。
「兄上」
自分を呼ぶ小さな姿はいつもそこにあるのに、テセウスはいつもなにかを探しているような、もどかしい気分にかられていた。
「兄上、ほら月を見て」
だが、月明かりに照らされて振り返ったアウシュダールの顔を見ると、テセウスのなかからその想いは消えてしまう。
「アウシュダール。あれは? 」
テセウスは、アウシュダールの指さす月を再度見つめて、息をのみ込み、そして小さく声を上げた。
雲でも、霧でもない何かが月の表面を遮りはじめていた。
月だけではない。夜の空全体を何か、塵のようなものが舞い、漂っているようだった。
「ビアン神が怒りで、震えているんだ」
アウシュダールは神託を告げるように、夜空を見上げていた。
「あの人には、教えてあげないとね。ぼくたちの存在の意味を」
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