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第六章《失われし誓約》

 合議を翌日に控えた夜、エボル神へ祈りを捧げる薄暗い礼拝室に、静かに祈りを捧げる人物の姿があった。
 正妃のために特別につくられた後宮の礼拝室。
 代々の正妃はここでさまざまな祈りを、夜と闇を司る安らぎの女神・エボル神に捧げて来たのだ。
 礼拝室の正面には、エボル神を描いた彫刻画が真っ白な壁一面に描かれている。
 長いまつげと瞳をとじた美しい女神の横顔。どこまでもゆらめく長く細い髪。祈りを捧げる組んだ細い指。それらすべてが、揺らめく幾つものろうそくの明かりに照し出され、幻想的に浮き上がっていた。
 暗い室内には、燭台用の小さな棚穴が壁のあちこちにつくられ、そこに絶えることなく灯されているろうそくの小さな灯が、まるで宇宙にきらめく星々のように瞬いている。
 いま、その礼拝室の長椅子にミディール妃の姿があった。
「なにを祈っておいでですか」
 低く響きのよい男の声が、後ろの扉から呼びかけた。
「ガーゼフ、待っていたのよ」
 ミディール妃はほほ笑みを浮かべながら椅子からゆっくりと立ち上がり、待ち人を見つめる。
 そこには、ガーゼフ伯爵のすらりとした長身がたたずんでいた。
 ガーゼフを見つめるミディール妃の碧い瞳は、臣下に対峙する時とは明らかに違った色を帯びている。
「いよいよ明日よ。明日の合議で、あのエスニアの娘がリンセンテートスへ嫁ぐ正式な承認を得られるのよ」 
 ガーゼフは、ミディールの少女のようにはしゃぐ口調にほほ笑みをたたえながら歩み寄ると、側妃の白くしなやかな手を取り、そっと口づけをした。
「なにを、よそよそしいことを……」
 臣下の礼をとるガーゼフを妖艶なほほ笑みを浮かべながら見下ろしたあと、ミディールは男の頬を両の手の平で包みこみ、魅惑的な男の深い藍色の瞳をうっとりとした表情で見つめた。
 そこには、この数年間、男とかわし続けた時間と、自分へ向けられた愛情に対する自信に満ちあふれていた。
「ですが……ここは神聖な場所でありますから」
 ガーゼフは、壁に彫られたエボル神を横目で見ると、躊躇したように瞳を伏せる。
「かまうものですか」
 ミディール妃は、愛する男の瞳に自分の瞳を重ねるようにのぞき込んだ。
「神への誓いなど、あの時二人で捨てしまったではないの。それに、ここであなたを待つことを決めたのは、わたくし…」
 ささやく赤い唇が、男の唇に触れようとした時。
「ミレーゼ姫が、こちらにお越しになられるご様子…」
 ガーゼフの口から娘の名が出た瞬間、ミディール妃は唇を固く結ぶと男から顔をそむけ、なにごともなかったかのように椅子に腰を下ろした。
「また、シーラのことね……。シーラ、シーラ、シーラ。あのエスニアの娘のせいで、わたしの子達までわたしから遠ざかっていく。そして、こうやってわたくしとあなたとの時間まで奪っていく……」
「それも、もうすぐ終わりでございます。シーラ王女の婚儀が終わったあかつきには…」
「陛下のご病気を公にして、とりあえずエリルを後継にたてる。そうすれば、すべてはわたくし達の思いのままに…」
 ミディール妃はエボル神の像に手を合わせて、形式的に祈りを捧げる姿勢をとった。
「あの老いぼれを……王宮の奥深くへ幽閉する日が来るのね。ガーゼフ、あなたはエリルの補佐役として、わたくし達親子のそばに常にいることができるのよ。それに……グリトニルが玉座に座ることだって……」
 夢見るような瞳が、臣下としての距離を保つガーゼフに注がれ、男もまた熱いまなざしをミディール妃に返す。
「ミディール様……わたしはこれから、シーラ王女とともにリンセンテートスへいく女官を連れに領地へ戻ります。ですから、明日の合議には出られませんが、魔道士のノアにすべてを任せてございますので、ご心配なさらぬよう。五日後の夜には戻ります」
「その女官は……直接あなたが迎えに行かなくてはならないような娘なの?」
 ミディール妃の眉がピクリと動いた。どんな理由であれ自分の恋人のそばに、他の女が近づくことが気にいらないのだ。
「ミディール様のお役に立つ娘です。シーラ王女が二度とリンセンテートスからハリアへ戻ることができないようにするには、わたし達の息のかかった者をシーラ王女に同行させる必要がございます。ご心配なく、命令に忠実な、まだ青臭い小娘ですよ」
 ガーゼフの言葉に冷静を装いながら小さくうなずいたものの、ミディール妃は不満な様子だった。
 だが礼拝室の外がざわめき始めたのを耳にすると、その表情もきれいに消し去り真摯に神に祈りを捧げる表情をつくりだす。
 ミレーゼが女官たちの制止を振り切り、シーラ王女の婚儀を取り消させようと母のいる礼拝室に向かっているのだ。
「では、明日の夜」
 ガーゼフは、静かに一礼すると、ミレーゼと顔を合わせることのないように別の扉から退出して行った。

 翌日、ミディール妃はヘルモーズ王と二人きりで朝食をとっていた。
 これは忙しい王とのつかの間の時間をもつために、王がつくりだした側妃との語らいの時間だった。だが、それはミディール妃にとってさして楽しいものとは言えなかった。なぜなら、この二人きりの朝食はシーラの母であるエスニア妃が亡くなってから自分にまわって来た役割であったからだ。 
「ミディール」
 食後のラセナ茶をミディール妃が自ら注ぐのを眺めながら、王は苦々しい顔で一番若い夫人の顔を見た。
「今日の合議で、わしはシーラの婚儀を取り消す。だれにも邪魔はさせんぞ」
「陛下……もちろんですとも。だれにもあなたの言葉に逆らうものなどおりませんわ」
 ミディール妃はヘルモーズ王の言葉に、王自身が自分に起きている変調を自覚しはじめているらしきことに内心驚きながら、しかし穏やかな表情のままにこやかに答えた。
「おまえが、エスニアを憎んでおったことはわしとて知らぬわけではない。息子たちの死も事故だと思ってはおるが……」
「陛下」
 ミディール妃は、ティーポットを台に戻すと、王が自分に疑いを抱いていることにショックを受けたように涙ぐんだ。
「では……エリルが階段から落ちた事故も事故ではないとおっしゃるのですか? わたくしのエリルも、あの事故で死んでいたかもしれないのですよ。わたくしの知らぬ亡き殿下方の事故が、わたくしのせいだとおっしゃるのなら、エリルの事故もわたくしのやったことになりますわ。なぜわたくしがそんなひどいことを……」
 真珠のような涙が頬を濡らすと、王はあわてたようにとりなした。
「すまん……最近、気が高ぶっておってな……」
 そう言うと、一気にラセナ茶を飲み干す。
「シーラのことが気になってな……。シーラの婚儀はわしの本意ではない。あの子の婚儀はわしが、じっくりと…決めてやりたい……のだ。兄も…母も……いなく…な…っ……」
 ヘルモーズ王の言葉が、途切れるとほぼ同時に、その指からティーカップがコトリと落ちた。
「陛下? どうなされたのですか? 陛下!」
 ミディール妃が王のそばに駆け寄る。
 だが、耳元で呼びかけても王は眠ったように目を覚まさない。
 ミディール妃の口元から笑みがこぼれた。
「ノア、入ってらっしゃい」
 側妃に呼ばれて隣室から姿を現したのは、王の身辺に仕え雑用などをつとめている青年だった。
 外見は大柄なヘルモーズ王とほぼ同じような体型で、一見物静かに見えるが、ミディール妃は逆にどこか陰湿さをただよわせるその容貌があまり好きにはなれなかった。
「合議の時間はもうすぐよ」
「はい」
 ノアはうなずくと、慣れた仕草でヘルモーズ王の首にそっと手を添え、なにごとか呪文のような言葉を唱えた。
 ノアが魔道士であるということは、ガーゼフとミディール妃しか知らない、
 王の記憶の病ははじめ軽い老人特有のものであったのを、ノアが術をもちいてさらに進行させ、悪化させたのだ。
 いつもなら、ガーゼフも一緒にいるのに……と、ミディール妃は心細く感じる。
 ノアはその心を読んだかのようにミディール妃を振り返った。
「ご安心ください。いつものとおりうまくいきます」
 見つめるノアの灰色の瞳を、ミディール妃はうなずきながらなぜか不安な面持ちで見つめていた。

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