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第六章《失われし誓約》

 気がつくと、ヘルモーズ王は執務室の自分の椅子に腰かけていた。
 王はキョロキョロと琥珀色の瞳を動かした。
(わしは、なぜここにいる?)
 起きたばかりで中庭を散策しているところだった。たったいま、あずまやに腰かけ、朝のひんやりとした空気に身をおき、鳥の鳴き声に耳を傾けようとしていたのだ。それが、まるで魔法にあったように、いま、執務室の椅子に座っている。
 しかも、立ち上がり、窓の外を見つめれば、陽が傾き一日が終わろうとしているではないか。
 王は片手で拳をつくり、額に手を当てた。
(また……か……?)
 自分の身になにかが起こっているのを、年老いた王は感じていた。
 だがそれは、途中の記憶がないというよりは気がつくと突然、自分の体だけが別の時間と場所へ移されているといった感覚だった。自分の記憶に途切れがあるかもしれない、という疑いすらもっていなかった。  
(何者かが、わしをどこかへ遠ざけて、その間にこのダーナンを滅ぼすか、乗っ取とろうとしている……)
 王は、場所と時間の突然の移動に出会うたびに、その思いを強めはじめていた。
(あの指輪さえあれば……) 
 王は亡くなった父、先王ヒューリッヒへの恨みを思い返していた。
 王位継承時に、王家代々に伝えられていた《エボルの指輪》をヒューリッヒ王は、ある魔道士の予言に従いどこかへ隠してしまったのだ。
(あの指輪さえがあれば、わしや亡き王子たちにも守護妖獣が下ったものを……。父はハリアを滅亡に導く狂王じゃった。この国がいとおしくはなかったのか……)
 王は自分の手の甲をじっと見つめながら、あるはずもない指輪が、おのれの指にはめられているところを想像しては、重いため息を吐いた。
(あれさえあれば、わしを狙う何者かに脅えることはない。王子たちもむざむざつまらない事故などで命を落とすこともなかった。そして、指輪さえもたないダーナンなど恐れるに及ばんのだ……。父は一体どこへ隠したものか……)
 陽が沈むのをじっと見ていたヘルモーズ王は、第一側妃の居館へ足を運んだ。
「まぁ、ずいぶんとお早いお越しですこと。めずらしいですわね」
 側妃メイヴは王の訪問に、よそよそしげに応えた。
 レイア正妃を失い、生気のない王のもとに側妃として嫁いだのが十五の時だった。
 二人の娘をもうけたが、世継ぎの男の子を生むことができず、王が次々と若く美しい側妃を娶るのを屈辱の思いで眺めてきたのだ。
 しかも、八年前にはハリアの侵略によって祖国さえ失った。
 そして今は王子を生んだ自分の娘と変わらない年齢のミディール妃が、城の中で大きな顔をして居座っている。
 レイア妃が亡くなってもなお、自分は第一夫人と呼ばれることもない。
 メイヴ妃は、すでに王の寵愛を得る願うことをあきらめ、自分のために建てられた宮殿と、隣接の居館で世捨て人のように静かな暮らしに甘んじる日々を送っていた。
 王は二人きりになると、疲れたように居間の長椅子に座り込んだ。
「いやみを言うものではない」
「あら、本当のことですもの」
 王の隣に並んで座ったメイヴはまるで、隣人と話をするような笑みをこぼして、飲み物用のサイドテーブルにおかれたラセナ茶を一口ふくんだ。
 深い緑色の髪を結い上げ、鳶色の瞳をしたメイヴ妃は、齢五十の半ばを迎えたとはいえ、凛とした美しさを秘め、宮中でもその年を重ねた美しさに賛辞をおくるものも少なくなかった。
「わしの命を狙っておる者が宮中におる」
 ヘルモーズ王は、前置きもなしに本題に入ったが、メイヴは眉ひとつ動かさなかった。
「魔道士の輩のせいかはわからぬが、わしは最近気がつくと別の場所や、別の時間にいるのだ。奴らはなんらかの術を使い、邪魔なときにわしをその場所や時間に送り、その間にはかりごとを巡らせておるに違いない。そのことをおまえはには知っておいてほしくてな」
 ヘルモーズ王が震える手でティーカップを持ち上げ、茶をすすった。
 メイヴはそのカップが受け皿に戻るのを確認してから、にこりともせずに口を開く。
「あなたのそのご相談も、今月に入って三回目ですわ」
「なにをいっておる。わしがそなたに会いに来たのは三年ぶりではないか」
 王は笑いながらメイヴを見たが、側妃の瞳はじっと王に注がれていた。
「最初は奇怪なことをおっしゃると思っておりましたわ。ですが、陛下がわざわざ私のところへ嘘をおっしゃられるためにおいでになるとも思えませんでしたので、わたくしなりにお調べいたしました。陛下、シーラ王女をリンセンテートスへ輿入れさせるというお話しは?」
 ヘルモーズ王はメイヴの最後の言葉に、目を見開いたまま言葉を失っていた。
「本日の合議で、陛下ご自身が決議されたと重臣たちが口々に言っております。次の合議では、シーラ王女出席の下、陛下直々に正式な発表とリンセンテートス宛の書簡にサインをされると聞いております」
「わしは……合議になど出てはおらん」
 王の声は震えていた。
「いましがたまで朝の中庭におったのだぞ。それが気がつけば、執務室にいるではないか……。わしを騙るものがいるのか……。愛するシーラを、リンセンテートスなどにくれてやるわけがないではないか……だれだ……一体だれが……」
「しっかりして下さいまし」
 メイヴはヘルモーズ王の背中をゆっくりと手でさすった。
「陛下のおそばの者にそれとなく聞きましたが、陛下と別の誰かが入れかわっているとはどうしても思えません。それに信じていただけるかわかりませんが、陛下は時折、亡きレイラ様をお探しになって、侍従たちを困らせているとか。先日などは、エリル殿下にむかって『小姓』と呼ばれたと聞きました」
「わしがそんなことをするものか!」
 ヘルモーズ王はメイヴの手を振り払い、声をあらげた。
「知らん、知らんぞ! そんなことがあるわけが……」
 王は立ち上がろうと中腰になったまま、突然動かなくなった。
「陛下?」
 いぶかしむメイヴ妃が、再び手を差しのべると、王はその手を見て逃げるように身をひるがえした。
「だれだ……おまえは……だれだ? なぜわたしのそばにいる……。ここはどこだ?」
「陛下?」
「だれを見てそのようなことを言っている! わたしはまだ王ではない。陛下は父上に決まっているではないか。それよりも、おまえ、わたしのレイラを知らないか? レイラはどこへ行った?」
 メイヴは目を丸くして、年老いた王が若者のような態度を示すのを不思議な面持ちでみつめていた。
「これほどまでとは……」
 王が部屋から出て行くと、しばらくして隣の部屋から男が現れた。
 三十代前後の切れ長の藍色の瞳をした男は、鋭い瞳に、涼しげな笑みを口元にたたえて優雅なしぐさで側妃に敬礼をして見せる。
「メイヴ妃殿下」
 男はそれだけ言うと、メイヴの次の言葉が投げかけられるまで、じっとたたずんでいた。
 仮に、メイヴが声をかけなければ、その間ずっとその場に立ち続けることを男は苦ともしないだろう。 
 だがメイヴ妃は男を認めると、自分の向かい側の椅子にかけるようにすすめた。そして男の一挙一投足を楽しげに見つめながら、艶のあるため息をついて見せた。
「ようやっと、わたしの夢が叶う番が回って来たのう」
 男も、真剣なまなざしに魅力的なほほ笑みを浮かべる。
「はい。八年の長き時でございました」
「そなたにも、ひとかたならぬ苦労をかけた」
 メイヴは男をいたわるようにじっと見つめた。
「もったいないお言葉です。妃殿下のお気持ちを察すれば、私ごとき者の立場など苦労と呼べるものではありません」
 だが、メイヴはその声を聞いているのか、遠くを見るような瞳でただ男の顔を見つめながら、静かにささやいていたた。
「ガーゼフ、次の合議の日を楽しみにしておるぞ」
「御意のままに」

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