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第六章《失われし誓約》

 木立の中に二頭の馬の蹄の規則正しい音が軽快に響く。
 澄み切った空気と、木漏れ日が心地好い。
 穏やかな表情のシーラとその馬の横に並びながら、ミレーゼは唇をきゅっと結ぶ。
(母上……)
 自分の母がついにシーラに手を伸ばしてきたのだ。
 表面的には父であるヘルモーズ王の言葉だとしても、裏には母の存在が大きく影響していることはわかっていた。
 心は、怒りで爆発しそうだった。
 四歳の時、ミレーゼは大好きな母を失った。
(忘れるものですか)
 忘れてしまいたいはずの出来事をミレーゼは回想する。
 普通の少女であれば、心の奥底の見えない部分に封印をして決して思い出さないように、見ないように、忘れるように闇に葬り去る忌まわしき出来事だった。

※※※

 九年前のあの夏の終わりの日もミレーゼは、シーラとともにいた。
 馬車にゆられ、避暑のために過ごしたカルル城から、首都モルカに帰る途中だった。
 ヘルモーズ王の配慮で、夏の間、湖のそばにあるカルル城で過ごすことになり、ミディール妃、四歳のミレーゼ王女と二歳のエリル王子、そして十四歳のファージル王子と七歳のシーラ王女がひと夏を過ごしたのだ。
 第一側妃のメイヴ妃は祖国であるナクロ国とハリアが政治的対立状態にあったため、休暇を過ごす気分にはなれないとカルル城での避暑を遠慮し、シーラの母エスニア妃はカーディス王子がひどい肺炎にかかってしまったため、首都にとどまったのだ。
 楽しい時間はあっと言う間に過ぎていった。
 ミレーゼにとっても、これまで同じ宮殿にいながら言葉をかわす時間が限られていたシーラやファージルと、母親の目はあったものの一緒に過ごせたのは貴重な思い出となった。
 母は何かにつけて、エスニア妃とその子たちのことを非難したが、城の花苑で出会う違うたびに、ほほ笑みかけてくれる三つ年上の姉シーラ王女は、母の言葉を越えて憧れにも似た存在だったのだ。
 むしろ、母が会うことを妨げようとすればするほど、一緒に歌をうたい、花苑で遊びたい思いにかられた。
 その願いが、カルル城でかなえられたのだ。
 母もいつになく大目に見てくれているようで、ミレーゼはすっかりごきげんだった。
 そして、三日ほど早くシーラがモルカへ戻ると知ったときは、自分も一緒に帰りたいと言い出す始末だった。
 初めはミレーゼの言葉にも耳さえかさなかったミディール妃も、とうとう折れて、王子たちよりもひと足早く帰ることをしぶしぶ許してくれた。
 カルル城を出た馬車は、おしゃべりに興じる小さな二人の王女を乗せて走り続けた。
 その途中の花畑でミレーゼは、母ミディール妃の大好きな薄紫色のアインの花畑を発見して馬車を止めさせた。
「お母様に、アインのお花を差し上げたいの」
 ここでもミレーゼ姫はわがままを発揮して、お供の者たちを困らせた。
「お母様のところに戻って! お花をさしあげるの。そしたら、あとはわがまま言わないから」
 ミレーゼは侍従に、怒り、命令し、泣きながら懇願した。
 侍従は困った顔で説得を試みたが、ミレーゼは頑としてその言葉をきかない。
 まだ城からそう離れていないこともあり、側近の侍従はあきらめてカルル城に引き返すことを決めた。
 夏の間、おつきの者たちは四歳のミレーゼ王女のわがままにさんざん振り回されて、心身ともにヘトヘトになっていたのだ。
 首都モルカまでは七日間の旅路である。
 一度カルル城に戻って、ごきげんさえ取り戻してくれれば、帰りの旅は楽になるだろう。
 そう考えて引き返すことにしたのだ。
 カルル城に到着すると、幼い王女はシーラを馬車に残し、両手いっぱいのアインの花を侍女と自らの腕に抱えて、裏門からカルル城に忍び込んだ。
 母を驚かせるのだと笑顔で花を見せる王女の愛らしい姿に、カルル城に残っていた女官たちもすすんでミディール妃が私室にいることを教えてくれた。
「エリル殿下はお休みされていますし、来客の予定もございません。午前中はお一人でいらっしゃいますよ」と。
 ミレーゼは、そっと近づいて母を驚かせようと浮き浮きしながら、部屋の扉を静かに開けた。
 だが、そこに母の姿は見えなかった。
 どうやら部屋の奥のテラスのある寝室にいるようだった。
 ミレーゼは、侍女たちに待っているように命じると、寝室のドアを音を立てないように押し開いた。
 そして、目撃してしまう。
 母以外だれもいないはずの寝室のテラスのそばで、ミディール妃と男がなにごとかを親しげに囁きながら、抱擁を交わしている姿を。
 そして、聞いてしまう。
「ファージル王子の命は、今日の遠乗りで失われます」
「頼みましたよ。ガーゼフ」
 ミレーゼは身を翻して、駆け出していた。
 何が起きたのかわからなかった。
 ただ、一刻も早く母のいるこの場所から逃げ出したかったのだ。
 気がついたときには、門の前で待っていたシーラ王女の馬車の前に茫然と立ち尽くしていた。
 両手に抱いていたはずの薄紫色のアインの花は、一輪も残っていなかった。
「いかがされましたの?」
 ミレーゼと後から息を切らしながら追いついて来た女官のただならぬ様子を見て、シーラは驚いてたずねた。
 てっきり大はしゃぎしながら戻ってくるとばかり思っていたのだ。
「帰る……」
 うつむいたままのミレーゼの瞳からは、涙がとめどもなくあふれ出ていた。
 自分が何を見たのか、何を聞いたのか、小さな王女はわけがわからなかった。
 ただ、鼓動が大きく胸を打ちつけていた。
 心が悲鳴をあげていた。心が……痛かった。怖かった。悲しかった。戻らなければよかった。
(あれは、お母様じゃない。あんなのは、お母様じゃない)
 ミレーゼは小さな唇をかんだ。
 なにか大切なものが崩れて行く予感が包む。
 シーラ王女や女官たちが、どんなになだめても、あやしても、モルカへの帰路の間、ミレーゼはただ泣き続けるだけだった。
 そして、王宮へ帰った一行を迎えたのは、ファージル王子逝去の悲報だった。
 遠乗りに出た際、突然ファージル王子の馬が暴れだし落馬したのだと、同行の侍従はヘルモーズ王に報告した。
 それを知ったとき、ミレーゼの小さな体はガクガクと大きく震え出した。
(わたし……聞いた……)
 だが、それはだれに告げることもないまま時は流れていった。
 三年後、公務に出たエスニア妃とカーディス王子の乗った馬車が、崖からの落石の下敷きになって不慮の死を遂げたとき、七歳になっていたミレーゼは、小さな胸にずっと押さえ込んできた秘密をシーラに打ち明けたのだ。
 ファージル王子の死が自分の母と、ガーゼフ伯爵のたくらみごとだったということを。そして、今度の二人の死もきっと事故死などではないということを。
 あの日から、ミレーゼは母を常に懐疑的に見るようになっていた。
 母の前では良い子を装っていたが、裏切られたショックはいやせるものではなかった。
 母とガーゼフ伯爵が密会するのを目にするたびに、嫌悪感が生まれた。
 その上、一年前に生まれた弟のグリトニル王子がガーゼフ伯爵との間にできた子供ではないかという、下びた噂を宮廷内の夫人たちが囁くのを耳にするたび、ミレーゼは花苑の中で泣き続けた。 

※※※

「お母様なんて大っ嫌い!」
 澄み渡った青い空に向かい、ミレーゼは耐え切れなくなってついに大きな声で叫んでいた。
「ミレーゼ、母上様のことをそのように言ってはなりませんわ」
 馬上の二人は、軽快なリズムでセルの森を速足で駆けていた。
「だって、本当のことだもの。いいの、だれも聞いてやしないもの。姉上様から母上様や兄上様方を奪っておいて、今度は姉上様をリンセンテートスなんてちっぽけな国の側妃にするなんて許せないわ。しかも、ラシル王なんて年寄りじゃない」
 ミレーゼは吐き捨てるように一気にまくし立てる。
 が、それでも困ったようにただ微笑むシーラを見て、ミレーゼは何かを決意したように厳しい表情をつくる。
「お父様と会って、姉上様のかわりに、わたしがリンセンテートスへ嫁ぐといいますわ。だれが行ってもいいのなら、わたしがまいります」
「ミレーゼ」
 シーラは手綱を引くと、歩みを止めた。あわててミレーゼも姉に習う。
「リンセンテートスへ嫁ぐのは、わたくしの務めです。今のお言葉は決してこの先、父上にも申し上げることはなりません」
「姉上様?」
 いつになく厳しい姉の口調に、ミレーゼは戸惑った。
「あなたがわたくしを思って言ってくださるのはとても嬉しいのです。ですが、あなたにはご自身の道が用意されております。わたくしのことは気になさらずにいて。その優しいお気持ちだけで充分ですわ」
 ほほ笑みを浮かべると、シーラは再び歩を進めはじめる。
 ミレーゼは、その姉の後を追いながら唇をかんだ。
 しばらく二人は無言のまま、ひずめの音だけが森の中に軽快に響いていた。
 やがて水の勢いよく流れる音が聞こえてくると、前方に滝が現れた。
「姉上様方!」
 滝の落ちる音にまざって、少年の声が聞こえて来た。
 見ると滝壺のそばに真っ白な馬と、上等な布地で織られた紺色の上着を来ている少年が手を振っていた。
 二人の王女は、その少年に近づくと、馬から降りて手近な木に手綱を結んだ。
「うまくいきましたね」
「あたりまえよ。それにしても臭くってよ。馬小屋の臭いがするわ、エリル」
 ミレーゼは辛辣な言葉を放ちながらも、弟王子のしばらくぶりに見る明るい笑顔にホッとした気分になる。
 ここにいるのは狂態を演じるエリル王子ではなかった。
 青みがかった髪は風にそよぎ、その澄んだ碧い瞳は知性さえも映し出していた。
「これは失礼。姉上様も気になりますか?」
 エリルは、五つ離れた美しい姉に遠慮気味に聞いたが、シーラはゆっくりと首をふった。
「とんでもないわ。あなたこそ、おつらいでしょう。よく辛抱なされて……」
 エリルはあわててその言葉を遮った。
「こうして生きていられるのも、姉上様方のおかげです。わたしはこれでも結構楽しんでいますから」
 エリルは笑った。
 四年前に、実の母から命を狙われたことなどみじんも感じさせない笑顔で。
「それでどうなの、エリル」
 ミレーゼの問いかけに、弟王子は真顔に戻ると、深いため息をついた。
「父上は……以前の父上とは違います。なんというのか……たまに……わたしのことを知らない人間のように見るかと思えば、突然いつもの父上に戻られるのです。でも、またすぐに、そのご自身の言われた言葉を忘れられてしまって……」
 三人は岩場に腰をおろすと、頭上から降り注いでくる力強い滝の流れに視線を注ぐ。
「ご病気なのかしら」
 ミレーゼはポツリとつぶやいた。

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