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第五章 《 転 身 人 》


                (イラスト・ゆきの)

 うす暗い空間の一室で、クスクスと楽しげに笑う声が響いていた。
「人は、こんなにも愚かだ……」
 鈴の音のような魅惑的な美しい声が、音楽を奏でるように言葉をつむぎだす。
「あの魔道の女も、感情が先走りすぎましたな」
 黒装束の男が、主の座る椅子の隣りにひざまづき、同意を示す言葉を添えた。
 ふたりが見つめる正面には白い光の壁が浮き上がり、ノストールでの出来事を映し出していた。
「本当に……」
 妖精獣――末の王子の守護妖獣を捕り逃がして海に向かい大声でののしっているメイベルの姿が消え、場面が変わる。
「すべての人間が……シルク・トトゥに振り回される。あれの存在ばかりに気をとられる……ささやかな、はかない光に」
 若く美しい青年は、陶酔するように、次に現れたアウシュダールの横顔を、穏やかに、そして楽しげな瞳で見つめる。
「シルク・トトゥ……か」
 青年は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「さぁ、イルアド。駒を進めよう。この世界の人々が……わたしたちの世界を待っている」
「御意。すべては順調でございます」
 イルアドと呼ばれた魔道士は光の壁を消し去り、身を起すと、主を導くように闇の世界の歩を進めていった。

 青い海原の上、三十隻もの大船団が、ノストールのイスト港をじっとにらみつけるかのように静かな沈黙を保ったままたたずんでいた。
 五年前まで、ダーナン帝国に海軍は存在しなかった。
 西の中原に位置しており、海に面していない国に当然海軍の必要はなかった。
 だが、この五年の間で海洋国家旧イーリア国を侵略し、征服。同時に勇壮無比といわれる海軍を手中に収めたのだ。
 静かに揺れる船内の一室で、ロディ・ザイネス――ダーナン帝国の若き帝王と呼ばれる青年は、窓際に立ったまま、黄昏時の空をじっと見つめていた。
「アル神の息子……か」
 視線の先には、ノストールの緑の大地と、 石造りの難攻不落と呼び名も高いアルティナ城がとらえられていた。
 その城のはるか遠くには、エーツ山脈の最高峰エーツ・エマザーの頂かがかいま見える。 
 ロディは黒の布地に金の刺繍がほどこされた軍服を身にまとっていた。
 それは黄金色のロディの髪の色に映えて、十五歳の若い少年王を凛々しく美しくみせる。
「陛下、ジュゼールです」
 ドアをノックする音がした。
「入れ」
 ロディの声が応えると、ジュゼールが現れた。
「ノストールからの返事は?」
「まだです」
「そうか……」
 ロディは窓の外を見つめたまま、黙り込んだ。
「お疲れなのではありませんか?」
 ジュゼールは、気遣うようにロディに声をかけた。
 五年前の国を揺るがす大惨事があったあの日から、さらわれ行方不明となった妹王女フューリーを取り戻すことだけを目的に、休むことなく、諸外国に戦いを挑み、勝つことだけを自らに与えた義務として歩み続けて来た。
 本来なら、帝王、帝妃である両親の下、なに不自由することなく成長し、優秀な知識人より学問を学び、乗馬や武術で野を駆け回り、社交界の主役として華やかな日々を送っていたはずなのだ。
 しかし、突然帝国の未来を背負わされた十歳の少年には、その身を庇護してしかるべき頼れるべき存在は皆無に等しかった。
 母は、国を内乱状態に陥れ、王の命さえ狙った二人の兄を道連れに命を絶ち。父は植物状態となったままであり、妹王女の行方はようとして知れない。
 それでもロディは起った。
 妹を取り戻す、というその一点の執着の中に生きる意味を見出し、帝王としての棘の道を踏み出したのだ。
 己の好奇心や甘えというすべてから一線を画し、血で血を染める戦場のみに身を置いて来た。
 常に緊張状態にあり、張り詰めた精神状態を維持している精神力には誰もが圧倒された。
 だからこそ、ジュゼールは常にその身を案じる一方で、別の不安を抱くようになっていた。
「ジュゼール、アル神の息子さえ手に入れればわたしも少しは気持ちが楽になるのだろうか。その力はわたしを助けてくれるのだろうか?」
「もちろんですとも」
 ジュゼールは、頼りなげな顔で振り返った主人を見て、自分の中に生まれかけたわだかまりが溶けていくのを感じていた。
「信じてもいい?」
 その表情は、十歳の時のロディのままだった。
 ロディは、時折こういった危うさを見せた。
 ほかの臣下や国民の前では、その期待を一心に浴びても動じず、穏やかな表情を浮かべ、決して不安を感じさせることはない。
 しかし、ジュゼールやグラハイドなどの幼少時代から傍で仕え、信頼してきた側近を前にしたときだけ、あの地下道で、王になるのはいやだと言った少年の顔に戻るときがあるのだ。 
 兄たちの醜い争いに傷つけられ、痛めた心を取り出しては見つめ、なにも知らなかった五年前に戻りたがってるようにも思える。
「もちろんですとも、陛下」
 ジュゼールは、ロディの碧く美しい瞳を見つめて、力づけるように言葉を重ねた。
「それに、なんといってもロディ様にはカラギ殿という名軍師がついているではありませんか」
「そうだね……。ジュゼール。お前がそう言ってくれると安心できる」
 ロディの儚げなほほえみを見るたびに、ジュゼールはどんなことがあってもこの無垢なる心を守り抜いてみせる、と己に誓うのだ。
「ラージ・ディルムッドを呼んできてほしい」
 だが、こうしてひとたびラージ・ディルムッドの名がロディの口から出ると、その度にジュゼールの中に、見えない不安が胸の中に広がっていくのだ。
 けれと、それを顔に出すことは決してすることはなかった。
「かしこ参りました」
 一礼すると主の言葉に従うべく、部屋を退出する。
(ディルムッド殿か……)
 ジュゼールにとってのぼんやりとした不安の種は、ロディが王位に就いて一年後、ダーナン国の宮廷魔道士として突然召し抱えられたラージ・ディルムッドの存在だった。
 どこから流れ着いた魔道士なのか、その素性や過去を知るものはいない。
 にもかかわらず、その呪術能力と予言の確かさを耳にした宰相グラハイドが、ロディに進言して召し抱えたのだ。
 ジュゼールは通路を歩きながら、窓越しに見える沈みゆく夕日に目を向ける。
(実際、あの魔道士がいたからこそ、カラギという名軍師を得ることもでき、戦さにも勝ち進んで来た)
 だが……と、ジュゼールは思う。 
(このところのロディ様は、ディルムッドやカラギをおそばに置きすぎる。今回の出陣もディルムッドの意見だというし……)
 これは自分の嫉妬だろうかと、ジュゼールは己の心に問いかけた。
 幼いときから守役としてそばに付き従い、ロディの横には自分がいることが当然と自負してきた。
 しかし、ロディが即位し、戦さがはじまってからはさまざまな面ですべてが変わっていった。
 得体の知れない魔道士ラージ・ディルムッドが現れた。
 そして、そのディルムッドが田舎から見いだし連れて来たジュゼールよりも一歳年上のカラギが軍師として登用された。
 最初はいかがわしく思われていた商人出身の男は、軍師としてみるみるうちにその能力を発揮し、それまで統率のとれていなかった占領国の軍まで見事に動かし、戦さにかかるあらゆる負担を軽減させたのだ。
 その、臣下になって間もないカラギが、ジュゼールと肩を並べ、自分がロディの右腕としてそばにいるのが当然のように振舞う。  軍師なのだからしかたないと、頭ではわかっていても、どろりとした嫌な感情が心の中に沈殿し、うごめく。
 そんな抱え込んだわだかまりを許せない自分が、さらに許せなくなり、ジュゼールは深いため息を吐き出す。
 ロディがダーナン帝王になって以来、二人きりで話をする時間は確実に失われ続けていた。
(ロディ様は戦を好まれるご性格ではなかった)
 ジュゼールはふと立ち止まると、瞼を閉じた。
 開戦はディルムッドの占術が始まりだった。
 あの時から、ロディは帝王の剣を高々とかざし、馬上の人となったのだ。
 ジュゼールには、今日までのこの急変は、すべてが魔道士として現れたディルムッドにあるように思えてしかたがなかった。
 考え過ぎだろうと思えば思うほど、れに反発するようにディルムッドやカラギに対する漠然とした不信感がつのっていく。
(それに、アル神の息子など得なくとも、わがダーナンには、ゼナ神がおわしますではないか……)   
 人の心の闇や死をその身である大地に呑み込み、海の彼方へ返して安住の地を築くという、地界と円環の神ゼナ。
 ダーナン国の人々はゼナ神に祈ることで、おのれの心の闇の部分を取り除けると信じる。
 ジュゼールはディルムッドらに対する不信感をできるだけ追い払おうと、ダーナンの方角に向かって、両の手のひらを胸の前で組み、瞳を閉じてゼナ神に祈りをささげた。
(これは、嫉妬だ……)
 ジュゼールは自分の心を戒めようと努める。自分の中に凝固し始めた闇を排除する祈りを捧げる。
(ロディ様は変わられぬ…)
 閉じた瞳の中に、さきほどのロディの不安そうな顔が浮かぶ。
 ディルムッドやカラギには決して見せない一面をジュゼールにはみせるのは、誰よりも頼られ、信頼されている証なのだと信じたかった。
「なにが起きても、わたしはロディ様のためだけに戦います」
 そう心に誓う。
 心の平静さを取り戻したジュゼールは、ディルムッドの部屋に行くと、ドアをノックした。
「ディルムッド殿。陛下がお呼びです」
 すぐにドアが開き、中から灰色のローブを身につけた人物が姿を見せた。
 宮廷魔道士ラージ・ディルムッド。
 その顔はしわに刻まれ、長く伸びてひとつに束ねられた髪は、黒髪に白髪がまじわり、一見、老人に見えるのだが、もっと若いのではないかと思わせる時もある。しかし、実際の年齢を知る者は誰もいない。
 すべてが謎に満ちた存在だった。
 一瞬ジュゼールは、ディルムッドの正装用のローブ姿を見て、この男は自室でもローブを着ているのだろうかといぶかしむ。
 だが、謎はすぐに解けた。
「ジュゼール将軍。遅れをとりました。いましがた、いいようのない大きな力が発する衝撃を感じました。すぐに術を行ったところ、ノストールはシルク・トトゥ神を見つけ出し、手中に収めたとでました。わたくしごときの力では、目覚めたばかりとはいえシルク・トトゥ神の転身人の力に対抗出来るとも思えませぬ。今回は引き返し、策を練り直すべき時であると陛下に申し上げるべく支度を整えていたところです」
 くぐもった低い声が、小声でささやいた。
「ノストールがシルク・トトゥ神を見つけたというのか?!」
 ジュゼールが思わず声をあげるのを、ディルムッドは片手をあげて制する。
「大いなる力は、他の〈先読み〉を無効にいたします。それが神の転身人の力とあればなおのことでございます。しかもいまその力は、封じられていた力が一気に解き放たれ、火山の噴火のような激しい勢いを持っております。しばらくは、なにがおきても不思議ではありません」
 ディルムッドが、ダーナンの宮廷魔道士としてロディから与えられたローブをまとっていた意味を、ジュゼールは理解した。
 一度、人に対し猜疑心をもつと、すべてを悪い方向に解釈する自分にジュゼールは内心舌打ちする。  
「わかりました。わたしも一緒に行きます」
 ジュゼールは、神妙に一礼をすると、ディルムッドとともにロディの部屋へときびすを返した。 

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