第五章 《 転 身 人 》
(イラスト・ゆきの)
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ルナは身体を縄で拘束され目隠しにさるぐつわをされたまま、ひと目につかないように、馬車にのせられ城から運び出された。
その間、いくら心の中でリューザやラマイネ王妃の守護妖獣ネフタン、兄たちの守護妖獣に助けを呼びかけてもも、答えるものは誰もいなかった。
長い間、暗く冷たい馬車の中、古びた木箱の中に閉じ込められ、ほかの荷物と共にゆられ続け、泣き叫ぶ気力もなくなったころ、蹄の音が止んだ。
「さあ、目隠しをとってあげるわね」
メイベルのやさしげな声が、箱の蓋が開くのとともに頭上からささやきかけてくる。
暗い馬車から引きずり下ろされ、体のいましめをすべて解かれたルナが最初に目にしたのは、海だった。
潮風がルナの額にかかった銀色の前髪を吹き上げる。
メイベルがルナを連れて来たのは、港を一望することのできる、海に突き出した入江の岸壁だった。
ルナは、思わず目で城のある場所を探した。
しかし、石造りの要塞城として堅固な姿を誇るアルティナ城の姿は四方を見渡しても、どこにも見ることはできなかった。
しかも振り返れば、自分の体は海を背にしている。
けわしく切り立った崖の先端に寝ころがされていたルナは、メイベルに両肩を痛くなるほど締め付けられながら、無理やり立ちあがらされた。
「わたしはね、あなたの守護妖獣がほしいの」
メイベルはルナの瞳をのぞき込むように背をかがめると、静かに頼みごとをするように、そして脅すようにささやいた。
「そうね…守護妖獣さえ渡してくれれば、あなたの生命を助けて上げてもいいわ」
「リューザは……あげるとか、できない」
ルナは、涙をポロポロとこぼしながら、メイベルをにらみ返した。
「それは、アル神が決めるって、兄上が言ったんだから……。アル神が、ノストールのみんなを守るようにって……神のお使いだって……。ルナにリューザがいるのは……アル神からお願いされたんだもん。父上と母上の子供だから……だから、リューザは誰にもあげられない……」
泣きじゃくりながら訴えるルナを、メイベルはつまらなさそうに見下ろしながら、顔を隠していたフードとベールを後ろにとりはらった。
そこには、あごのラインに沿ってきれい切り揃えられた黒髪と、猫の瞳を思わせるような切れ上がった大きな紫色の瞳があった。
ルナの名付け親であるアンナの一族の少女、エディスと同じ紫色の瞳と黒い髪。
メイベルは、アンナの一族の人間だ。ルナは改めて確信した。
その顔立ちの少しずつが、自分の知っているアンナの人々とよく似ているのだ。
しかし、このときのルナはアンナの一族がすでに城を離れて旅立ったことを知らない。
「いいわ。坊やがだめだというなら、奪い取るまで」
メイベルは、帯のあいだに挟んでいた短刀をさりげなく鞘ごと抜き出し、ゆっくりとルナの眼前に突き出した。
そして柄を握り締めると、色とりどりの小さな宝石で装飾された鞘から、剣をゆっくりと引き抜いていく。
陽の光が刃に反射して、ルナの瞳を射る。
「どうして、リューザがほしいの?」
ルナは、まぶしげな表情で光から目をかばおうと片手を顔の前にかかげながら、メイベルに聞く。
だが、問いかけながらも、ルナの頭の中は混乱していた。
アンナの一族は、ノストールを守るために様々な予言をしてくれる存在だった。
ルナや、そして兄たちの名付け親もアンナである。
なぜそのアンナの一族のメイベルが、こんなことをするのだろう……と。
「坊やに話してもわからないだろうけどね」
メイベルは、涙で顔を濡らして恐怖にただただ震えている無力なルナを見ながら、クスリと笑った。
「もうすぐ坊やの代わりに、アル神の御子がラウ王家の王子として戻ってこられるの。だから、もうあなたはここに必要はない、というわけ。ただ、彼があなたの守護妖獣が気に入ったらしくてね。どうしても欲しいとおっしゃるから、アル神の息子にお返しして差し上げようと思ったのよ。アル神から遣わされた守護妖獣なら、アル神の御子に返すのは当然でしょう?」
メイベルが一歩前に出る。
右手に握られた剣が、ルナに向かって突き出される。
ルナは、後ずさった。
「アル神の……みこ?」
「そう、このノストールを救うお方よ」
――返せ……僕の……を奪った……!
ふいに、なぜかあの少年の顔と声がルナの頭の中に蘇った。
シャンバリアの村で生き残ったという少年。
あの部屋の窓で、そして悪夢の中で、ルナを責める少年の声。
「違う……ルナは……」
ルナは、思い出した。
ここは、この場所は……そして、この状況は、何度となく悪夢の中で繰り返された、あの場面そのままではないのか、と。
夢で幾度となく追い込まれたその場所に、自分が今いる……。
――お前なんか……死んでしまえばいい。
ルナの脳裏に、暗闇の中へ突き落とされる自分の姿がよみがえる。
「待って!」
ルナは叫んだ。
「母上と父上と兄上に会いたい……!! ルナは、なんのことかわからないよ……知らない!」
たとえ、アル神の子が現れたとしても、父王なら、そして兄たちならばこの恐怖から、自分を助けてくれるとルナは信じて叫んだ。
「残念だわ……」
ルナの言葉など、聞こえていないように、メイベルはさらに一歩前へ出る。
「坊やは素直に守護妖獣を渡してくれなさそうだし、その守護妖獣も出て来たがらない。残念だけど、これからここでゆっくりと、守護妖獣が出て来たくなるまでいたぶってあげる」
ルナの足が、メイベルから一歩後ずさる。
メイベルは、ルナの緑色の瞳を直視したままどこへともなく呼びかけた。
「出て来なさい! ルナ王子の守護妖獣! お前が今すぐこの場に姿を現すなら、お前の主人を傷つけるをやめてあげてもいいのよ!」
長い静寂がメイベルとルナの上に訪れた。
だが、守護妖獣リューザが現れる気配はない。
メイベルは短く舌打ちをすると、つぶやいた。
「守護妖獣が主人を見殺しにするなんてね。自分の主人が王家と関係のない捨て子と知って守護妖獣も見捨てたのかもよ」
紫色の瞳が残忍そうに笑う。
ルナは黙った。
母の部屋でも、リューザが自分や母を助けに現れなかったという信じられない出来事にルナはひどく傷ついていた。
なのにメイベルは、その傷口をさらに広げようとするように残酷な言葉を言い放ったのだ。
「母上に……会いたい……会わせて……」
ルナは後ずさりながら、メイベルに懇願した。だが、返ってきたのは、冷たい宣告だった。
「もう逃げる地面がないわよ」
ルナは思わず足元を見下ろして、自分が崖の端まで追い詰められていることに気づいた。
「落ちないように、気をつけなきゃ……ね」
メイベルは、左手でルナの右肩をきつくつかむと、右手に持った剣先でルナの首筋をそっとなでつけた。
「助けて……」
ルナは首に当てられた冷たい刃先から逃げようと、顔をそらせる。
「安心して。すぐには殺さないわ。あなたの守護妖獣が我慢出来なくなって、わたしたちの前に現れるまで、ゆっくりじわじわと傷つけてあげる。あなたの命はわたしの手の中。せいぜい死なないように心がけてあげるわ」
優しげな声が、一層恐怖をあおっていく。
ルナは自分がどうすればいいのか、考える力を失いはじめていた。
体から抜けていく力を保つのがやっとで、崖下から吹き上げてくる強い潮風に小さな身体は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
もしも、肩をつかんでいるメイベルの手が少しでも押したなら、そのまま奈落の底に落ちてしまうに違いなかった。
「まずはその顔…そうね、その緑の目から…」
メイベルがルナの目元に短剣をあてがった。
「いやだ……」
ルナの顔がのけぞり、声がこわばる。
「いやなら、守護妖獣をお呼び」
「い……や……」
白い刃が、無慈悲にルナの白い肌を引き裂こうと動いたまさにその時、ルナの顔がスローモーションのように剣先から離れた。
「な……?!」
ルナは両手でメイベルの身体を突き飛ばし、その反動でその身を宙に投げ出したのだ。
予想しなかった突然の出来事に、崖下の海面へ落ちていくルナを、メイベルは呆然とした表情で見つめるしかなかった。
はっとして我に返った時は、すでにルナの身体は海面に向けて一直線に墜落していた。
「母上ぇ―!!」
ルナは落下しながら、叫んでいた。
風の唸る音が耳を打ち続ける。
見開いたままの目には急激に遠ざかっていく青い空と、崖の上のメイベルの驚いた表情がはっきりとみえた。
そのメイベルの表情がさらに変化する。
ルナの体が突如海の上から、かき消えたのだ。
「……リューザ?」
あお向けの体勢のまま、ルナは救い主の名を呼んだ。
鼓動が激しく鳴り響き、その声は声にならない。
『申し訳ございませんでした。ルナ様』
ルナの体を海面ギリギリで、衝撃を与えないように受け止めた守護妖獣は、メイベルがその正体を見極め、声をあげる間すら与えず、ニュウズ海洋の沖を目指して猛烈なスピードで飛び出していた。
一刻も早くノストールから離れようとするかのように。
『あの魔道師は、妖獣を捕らえるすべを知っております。姿を現すことができませんでした』
海の上を猛烈な速度で飛びながら、リューザは背に乗せた主人にそう説明をした。
ルナが崖に追い詰められたとき、リューザはメイベルに気づかれないような弱い思念で、怖がる幼い主人に勇気を出して崖の下へ飛び降りるよう説得し続けていたのだ。
「どこに……行くの?」
ルナは、上半身を起こすと、自分たちが城からどんどんと遠ざかっていくのを見て、か細い声で問いかけた。
『いま城に戻るのは危険です。ルナ様のお命が狙われます』
「でも、母上が心配する。父上も、兄上も……」
『アルティナ城には、危険で巨大な力があふれています。いまは戻ることができません。城に帰ったならば、わたしは捕らわれ、ルナ様は殺されるでしょう』
「……」
ルナはリューザの背にしがみつくと、顔をうずめた。
悲しみと孤独感で胸が張り裂けそうだった。
今まで生まれてから一度も、ルナはノストールを出たことがなかった。
一度も一人で城の外に出たことすらなかったのだ。いつも兄たちの誰かが一緒だった。
リューザの温かな体温だけを頼りにすがりつく。
そして、振り返るたびに離れて行く故郷を何度も何度も振り返り、見つめながら、悲しみに肩をふるわせ、また静かに泣きはじめることしかできなかった。
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