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第二章《 予 言 》

 水の都と呼ばれるナイアデス皇国の首都コリンズ。
 西のダーナン帝国とは大陸の対極の東に大国を構える東のナイアデスは、この三百年間、繁栄を続けて来た大国である。
 王家としての歴史は長く、始祖のコリンズ王は約三百年前に悪政のもと苦しんでいた民を救うために、はじめ八人の同志と共に戦を起こし、当時のイルハーフ国のアシュヴィン王を倒し、建国を行った英雄として誉れも高く、平和と友好を国の志として民を慈しんできた。
 歴代の王もこの志を受け継ぎ、ナイアデスは、近隣の小国とも友好関係を結び、長い春を謳歌してきた。
 だが、ここ数年、ナイアデス近隣の諸国の事情は変化を来し、小さなさざ波はやがて大きな波となり、ナイアデスを巻き込みはじめていた。
 ナイアデスのオリシエ王は、息子が十八歳の誕生を迎えたその祝いの席で、開戦を告げた。
 ナイアデスとは長い間〈無言の戦〉を続けて来たハリア国が、西のダーナンの隣接諸国と開戦。それを機にナイアデスと友好関係を結んでいる諸国に次々と侵略を開始したのだ。
 王は、自慢の息子フェリエス皇太子と三万の兵と共に、ハリア国の前線が迫るセルグ国へ、援軍を率いて赴いたのだ。
「ハリア国に侵略された国の民は、財産を奪われ、家を奪われ、奴隷として、ハリア国の労働力としてのみ生かされている」
 軍事会議が終わり、客室に戻ったフェリエス王子は、セルグ国の王宮のテラスから隣国リンセンテートスの山々をのぞむ夜空を見つめながら、後ろに控えるふたりの騎士にそう告げた。  
「ダーナン帝国の内乱と政情不安定につけこんで、ハリアの年寄りがもう一度夢みようとあがいている。その夢のために、どれほどの民が犠牲になっていることか。絶対に許してはいけない」 
 そう言って振り返った若さに満ちたフェリエスの瞳に、セルグ国産のラセナ茶を飲んでいた幼なじみの姿が映る。
 イズナとオルローは、ティーカップを傍らに置くと立ち上がった。
 ナイアデスの双璧とよばれ、国民から親しまれている長身のふたりは、自分たちを見つめる黒い髪と金色の瞳を持つフェリエスにうなずいてみせる。
「もちろんだ。このナイアデスが立ち上がったかぎり、ダーナンの小僧にも、ハリアのもうろく爺いにも、好き勝手なまねはさせるものか」
 黒髪の長髪を後ろで束ね、額にはトレードマークのバンダナをしたイズナが、陽気に笑う。
「伝統あるわがナイアデスが、なぜ戦を起こさずして平和を保って来たのか、それを忘れてしまったハリアの老人にお仕置きを与えなくてはなりません。そして、内乱に乗じてあっと言う間に王の座を手に入れるやいなや、他国へ侵略を開始した、こわいもの知らずのダーナンのお坊ちゃまにも」
 物静かな表情をした薄茶色の髪のオルローが、温和な表情の中にも、厳しい瞳を宿してうなずく。
「これまでもハリアは、ナイアデスの目を盗んでナクロ国などの小国を掠め取って来た。地理的に離れた場所ではあったし、今回のように、われらが膝下でのあからさまな戦ではなかったから、父も目をつぶって来ていたのだ。だが、いま手を打たなければ、取り返しのつかなくなるような予感がする」
「それで、出陣はいつ?」
 イズナの黒い瞳が、楽しくてたまらないといった表情で、フェリエスをみつめる。
「ああ、明後日にセルグの軍と陣営をととのえ、セルグ軍と、我が軍、そして囮部隊との三方向から前線のハリア本隊をはさみうちにする。すでにリンセンテートス国には、間者を忍び込ませてあるから、動向は筒抜けだ。前線を崩して、わが軍が囮として正面から挑み、リンセンテートスの地形を利用して山間からセルグ軍が、もう一方からは隣国のゴラ国側の山間からわがフェリエス部隊が攻め込む。決着は一週間内」
「では、明朝にはゴラの国境沿いへ移動ですね」
 フェリエスがうなずくのを確かめると、オルローは、一礼をして部屋から出て行った。
 その姿を見送ったイズナは、長椅子に座ると、長い前髪を右手でかきあげた。
「あいつも生真面目だね。これから寝ようとしている部下たちをたたき起こして、市中を見回り、全員への指示徹底、配置場所への派遣などなどをやる気だよ。これでもう、今晩出発しても大丈夫だ」
「ずいぶんひどいほめ言葉だな。『明日出来ることは、今やってしまう』という、あいつの方針には、部下も慣れている。それにその用心深さは、これからもっと必要になって来る」
 フェリエスの顔が、未来をみすえるように厳しいものにかわる。
「俺だって、この戦いで今度こそ、ハリアの爺いを墓場に蹴落としてみせますよ」
 フェリエスの右腕と自他共に認めるイズナは、戦意に満ちた笑顔で、フェリエスを見つめた。
 
 その夜、フェリエスは奇妙な夢を見た。
 ベッドに眠る全身が、やがて宙に浮き、黄金の光りに包まれていく。温かく心地よい光の世界。
 だが、その体をつかまえようと、背後から黒く巨大な手のひらが伸びてくるのが感じられる。
 暗黒の闇の世界から、いくつもの巨大な手が、自分と同じように光の世界に浮かぶ人々を捕らえようと、うごめいているのがわかる。
――でも、大丈夫だ。
 自分たちのいる光の世界と、その巨大な黒い手との間には、見えない壁が存在する。
 決してあの闇の者たちが触れることのない、結界という壁があるのだから。
――けれど、この不安はなんだろうか。
 フェリエスの中の何かがつぶやく。 
 これまでにはなかった小さな不安が、シミのようにジワジワと心の中を侵食してくる。
――大丈夫だ。この世界は光の世界。闇を消しゆく安楽の世界………。何者にも侵されない…世界…。
(……フェリエス様)
 どこかで、はかなげな声が自分を呼びかけている。
(フェリエスさ…ま…)
 聞き覚えのある細い声に、フェリエスは、はっとして目を覚ました。
「ミュラか?」
 フェリエスは起き上がると、部屋の中を見渡した。厚いカーテンに閉ざされた窓の外は、まだ朝を迎えていないのか、暗い。
 その窓辺の空気がゆがみだし、やがてそのゆがみの中から人影が浮かび上がり、現れ、床に倒れ込んだ。
「どうした! ミュラ?!」
 フェリエスがあわてて駆け寄り、抱き上げた腕の中には、か細い体をした少女がいた。
 金色の美しい髪を腰までのばした白い肌の美しい少女は、ここへたどり着くことに最後の力を振り絞ったのか、顔も青ざめ呼吸すらひどく苦しげだった。
「申し…訳ご…ざ…いませ…ん。結界が…闇の…に……壊され……まし…た…。王…が…王が、これを……と」
 差し出された白く細い手には、ナイアデス王家に代々伝わる黄金の指輪〈ラーブ〉が握られていた。
「一刻も…早く……国…へ……。ここは……すでに……危険で……す」
「もういい、なにも話すな」
「フェリエス様……」
 ミュラは、フェリエスが自分の手をとり、握りしめるのを、遠のく意識のはざまで感じながら、必死に言葉を紡ぎだした。
「光と…闇が………に、満ち…はじめ……ま…す。フェリ…エス…さ…ま、お気をつけ…くだ…さい。そして…………を……その……手……に…」
 少女の手が、フェリエスの手を滑りぬけ滑り落ちていった。
「ミュラ?! どうした、ミュラ?!」
 その手をもう一度握りしめると、フェリエスは、瞳をとじたまま眠りについたようにも見えるか細いミュラの体をきつく抱きしめた。
「ミュラ、すまなかった…。ミュラ……」
 フェリエスは、ミュラのなきがらを、自分の寝ていたベッドに横たえると、髪を整え、その額にそっと口づけをした。
「ずっと……お前には守られるだけだったね……わたしは……」
 こぼれてくる涙を指でぬぐいとると、ミュラが最後の力をふりしぼって届けてくれた、黄金の指輪を自分の左手の中指にはめ、その手でミュラの頬にふれる。
「受けとったよ。確かに……」
「フェリエス殿下! フェリエス殿下!」
 しばらくすると、ドアを激しく打ちつける音と声が響いた。
「はいれ」
 フェリエスが応えると、イズナとオスローが部屋に飛び込んで来た。
「フェリエス殿下」
「国に引き返す。全軍に伝えろ」
 ふたりは、すでに身支度を整えているフェリエスを見て驚いたように立ちすくんだ。
「結界が破られた。ここにはすでに敵の魔道士がもぐりこんでいる」
「なぜそれを?!」
 そう言いながら、オスローはベッドに横たえられているミュラの姿を見つけて息を呑んだ。
「ミュラ殿……」
「え?!」
 イズナがオスローの視線の先を見て、言葉を失った。
「敵は、ミュラを死に追いやるほどの者。父もすでに……」
 フェリエスはそう言って、左指の指輪を示して見せた。
「ミュラが届けてくれた」
「ご存じだったのですか……」
 ふたりは唇をかみしめたまま、うつむいた。
「陛下の側近として王の部屋についていた、キリカがミュラ殿に助けられたと言って、イズナの部屋に来たのです。キリカも瀕死の重傷を追っています」
「それで、すぐに陛下のもとへ駆けつけたのですが……。すでに、陛下の部屋の隣で警護をしていたものは、深く眠らされてしまっており、いまだ目を覚ましません」
「わかった……。イズナとオスローは、全軍に撤退の指示を出してくれ、わたしは父のもとに行ってくる」
「お待ちください」
 フェリエスがふたりの間をすりぬけて部屋を出て行こうとしたとき、ドアが開いた。
「ユクタス将軍」
「わたくしもご一緒いたします」
 白髭をたくわえた武骨な老将軍は、厳しい表情で言葉少なに、だが、断固とした口調で言い切った。
 将軍の後ろには、栗色の長い髪をポニーテールにまとめている娘のリンドの姿があった。
「そうか。今夜の警備はリンドの小隊だったな」
「はい。外は静かでありましたが、ただならない気配が致しましたゆえ、部下とともに陛下のもとへ向かう途中でした。その途中、イズナの部屋へ入っていくキリカ見ましたので、急ぎ父を起こしてまいりました」
 リスのように大きな瞳がまっすぐにフェリエスをみつめる。
「わかった。ではリンド、私とともに陛下の様子を確かめ次第、セルグ王へことの次第を説明しに行ってくれ。わが軍は国に引き返すとな」
「御意」
 闇が薄らぎ始め、新しい一日の始まりをつげる朝の日差しが射し込む部屋の中で、フェリエスは全身の毛穴から血を噴き出し、ベッドに背もたれるように死んでいるオリシエ王と、そのそばで息絶えている王の守護妖獣・大鷲ダヌの死体と対面していた。
「これは、わがナイアデスに対する宣戦布告だ」
 それが、じっとたたずんでいたフェリエスの放った第一声だった。
 ユクタス将軍が、イズナたちが掛けたのであろう血のにじんだ白いシーツを再びその亡骸にそっと戻す。
「ハリア国のヘルモーズ王か、ダーナンのロディ・ザイネスか……、いずれにしろ、こうでもしなくては我がナイアデスに立ち向かえぬ卑怯者がいるということだ。だが……」
 フェリエスのこぶしが堅く握り締められた。
「だが、そいつには、父上の守護妖獣ダヌやミュラほどの力をもつ水の守護妖精の結界を破り、死に追いやるほどの力をもつ者がいる……わたしのミュラを殺すほどの……」
 透きとおる美しい肌をもったはかなげな少女は、水の妖精として巨大な力を自在に使いこなし、フェリエスが生まれたときから守護者として母のように、姉のように常に影の存在として守り続けて来てくれたフェリエスの守護妖精だった。
「ナイアデスの王を殺し、ミュラを殺したものを許しはしない。わたしのかけがえのない翼をむしりとった者を、許しはしない。必ずこの手でさばいてみせる!」
 握りしめた拳は、血の気を失ってもまだ、フェリエスはその手を解き放そうとはしなかった。

 ダーナンのロディ・ザイネスが新王の座についてから、まだわずか七ヵ月。
 同じ年にナイアデスにも、国民の圧倒的支持を得た若き王が誕生することになるのである。

 第二章《予言》(終)

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