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第一章《 誕 生 》

 森に静寂が広がる――。
 「…………」
 声が聞こえた。
「聞こえるよ兄上。でも…何だろう」
 アルクメーネがテセウスを見る。
 クロトが二人の兄を見上げた。
「何だろう……。呼んでるよ……助けてって……呼んでる」
「どこだろう……」
 それは、小さな猫の声にも似ていた。
 四人の影はそのかすかな声をたどりながら、再び森の奥目指して中を走りはじめた。
 微かな声はやがて、力強さを保ちながら一定のリズムをとりながら呼んでいるようだった。
「うわあぁ…!」
 森が途切れて突然視界が開けたとき、テセウスたちは立ち止まった。
 そこには、大きな湖がひっそりとたたずんでいた。
 輝く月の光を受けながら、湖が静かに湖面を揺らしていた。 
「ドルワーフ湖ですよ。ちょうど、城と町の間にある美しい森の中の湖なんです」
 驚くエディに、アルクメーネが指さし教える。
 そのそばでは、クロトがはじめて見る夜のドルワーフ湖に感動していた。
「すごいよ! 湖にお星様とお月様が映ってて、空も湖もお星様でいっぱいだぁ。アル神の御加護がいっぱいあるみたいだってわかるよ」
 クロトは、栗色の瞳を輝かせて体全身で跳びはねる。
「ねぇ、聞こえるよね。呼んでる声が聞こえる」
 三人に向き直って、クロトが笑顔を満面にたたえた。
「なんの声だろう?」
「おりたい」
 テセウスが空を仰ぐと、少女はそう言った。
「いいよ」
 腰をおとしたテセウスの背中からおりると、エディはゆっくりと目を閉じた。
 静かな呼吸が、なにか厳粛な儀式を感じさせる。
 エディの左手がゆっくりと上がり、湖畔の前方を指さした。
「あっち」
 その声を聞くや否やクロトが駆け出していた。
「…ン…ャア」
 その声に向かって一直線に走って行く。
 クロトの体は、なにかに気づいたのかあわてて体に急ブレーキをかけると、後ろ向きのままで、たったいま通り過ぎた場所に引き返し、振り返った。
「兄上ぇー! ここだよ!」
 その声に引かれて、三人はゆっくりと近づいていく。  
「オギャ……ァ」
 声が次第にはっきりと聞こえて来る。
「オギャ…ア」
「テセウス兄上……」
 アルクメーネの声が緊張していた。 
「オギャ…ア。オギャア」
 草かげから、元気な赤ん坊の泣き声が弾けていた。
「………?!」
「赤ちゃんだよ」
 クロトが自慢げに指をさした。
 テセウスとアルクメーネは、驚いた顔を浮かべながら、湖畔の草むらの中で裸のまま泣き続ける赤ん坊を見おろした。
 月の光が、赤ん坊の銀色の髪を輝かせる。
「赤ちゃん。赤ちゃん」
 エディがしゃがみこみ、クロトと一緒にのぞき込む。
「どうしてこんなところに……」 
 アルクメーネは困ったように長兄を見つめる。
 なんだかさっきも同じことを言ったばかりだな、と思う。
 そしてこの問いに対する答えは、多分返ってこないかもしれないことも。
「捨て子かな」
 テセウスはガウンを脱ぐと生まれて間もないであろう赤ん坊の体をつつみ、両手でそっと抱き上げた。
 庇護者が現れたのを知ったように、赤ん坊は泣き止んだ。
 その翠色の瞳にじっと見つめられると、まるで自分たちを待っていたように思えてテセウスは不思議な気持ちになる。
「弟だよ!」
 突然クロトが、嬉しそうに兄の手に抱かれている赤ん坊をのぞきこみながらそう確信に満ちた声で叫んだ。
「一週間前に死んじゃった弟が帰ってきたんだよ! アル神が僕の願いをちゃんと聞いてくれたんだよ!」
 テセウスとアルクメーネは、そのクロトの言葉に思わず瞳を伏せた。
 アルクメーネは、クロトが弟となる第四王子の誕生をどんなに待ち焦がれ、生まれたときは誰よりも瞳を輝かせて喜んでいたかを知っている。
 そして、死んでしまったと聞かされたときのひどく落ち込んだ様子も。
 その日以来、クロトは泣きながらアル神に弟を返して下さいと、大好きなおやつを抜いて、ラウ王家の守護神である、月の女神・誕生の神・アル神に願い続けていたのだ。
 その弟の姿に、アルクメーネ自身もおやつを抜いて、ともに祈りを捧げてきた。
「でも……、この子は女の子ですよ。それに髪の毛の色だって僕たちとは違う」
 弟の気持ちはわかるが、アルクメーネは弟の誤解をしっかりと伝えたかった。
「弟だよ! 一回死んじゃったけど、アル神が返してくれたから、髪が月の色の銀色に変わったんだ! エディはアル神にたのまれて、僕たちを弟に会わせてくれたんだよ」
 そう言ってクロトは、夜空に輝く銀盤の月を見上げ、指さした。
 アル神は人の誕生をつかさどる月の神でもあった。
「アル神が返してくれたんだよ」
「そっか……なぁ」
 弟にそう言われると、そんな気もしてくるようで、九歳のアルクメーネもまた、首をかしげながら腕を組んで月を見上げた。
 だが、その二人にはいまはまだ言えない出来事をテセウスは知っていた。
 一週間前に誕生した弟は、ある忌まわしい予言のために、生まれてすぐに生命を絶たれ、この湖に沈められたのだ。
 父のカルザキア王は、将来この国の王となることを定められた第一王子であるテセウスにだけは、事実を隠すことなく話して聞かせていた。

『国民のため、国のために、自分たちの幸せだけを願ってはいけないこともあるのだ。失わなくてはならない生命があるときもあるのだ。それが王というものだ』  
 涙をこらえながら、そうテセウスに言い聞かせた父の姿。
 あの日以来ふさぎこみ、部屋から出て来ない母、ラマイネ王妃の姿。
 その亡き第四王子の葬儀と、王妃の病気回復祈祷のために訪れた占術士アンナの一族。
 だが、大好きだった父が生まれたばかりのわが子を、兄弟たちが待ち焦がれていた生命を殺した事実が、テセウスには許せなかった。
 そんな話は出来ることなら知りたくなかったし、わかるわけがなかった。わかりたくもなかった。
 同時に、それを聞いてもどうすることも出来ない子供の自分がどうしようもなく嫌だった。
『そんなことをしなくてはいけないなら、私は王になんて、なりたくありません』
『お前も大人になればわかることだ』
 テセウスの必死の抗議にも、父王は言葉少なにそう答えただけだった。 

「そうだよ。ねぇ、テセウス兄上。アル神が僕たちのために返してくれたんだよ! 母上のために!」
 クロトの声に、はっと我に返ったテセウスは、赤ん坊を抱く自分の腕に小さな手を重ねて、エディがずっと呼んでいるのに気づいた。
「なに?」
「ル……ナ」
「え?」
 テセウスはエディの顔を見て、ドキリとした。
 エディが、初めて嬉しそうな笑顔をみせていたのだ。
「ルナ……。この子、ルナ」
 腕の中で、赤ん坊が月の光を浴びて笑っていた。
 テセウスの心は決まった。
「うん」
 ノストール国の第一王子テセウスは、エディに笑顔で応えた。
 そして月の神・アル神を見つめ、誓いを立てるときのように頭をたれた。
 エディが赤ん坊の名を呼んだのだ。
「この子は、私たちの弟です。われらがラウ王家の、すべてのノストールの民の守護神、アル神よ。あなたが私たちへ贈ってくださった大切な宝物を、私たちは今度こそ必ず、大切に守ってみせます。どうかこの子に祝福と御加護を」
「この子に祝福と御加護を!」
「アル神、月の神様。どうもありがとう!」
 テセウスの言葉に続き、弟たちがアル神に感謝の言葉を捧げた。
(今度は守ってみせる、この子は僕たちの宝物。アル神からの贈り物なんだ)
 テセウスは、この夜、何度も自分の心にそう誓った。
 アンナの一族が名前を贈ること。
 それは〈祝福〉をあらわす儀式でもあるのだから。 

 第一章《誕生》(終)

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